猿も木から落ちる
「ブン太」
まともに呼ばれる名前に過剰反応してしまって体が跳ねる。崩れ落ちそうな体を支える仁王のその腕が少し怖い。手をついた壁のタイルは丸井の体温で熱くなっている。息を整えようとするのにうまくいかなかった。もう嫌だ、
「大丈夫か?」
「……」
「あ〜よしよし」わけもわからず泣き出して、慌てた仁王が少し離れて濡れた頭を撫でた。悪かった、なんて、ずるかったのは自分なのに。溢れる涙は嫌だったからじゃない、少し怖かったけれど嫌ではなかった。
ふたりの他に誰もいないシャワー室、髪のボリュームがなくなった仁王を冷やかしたりとふざけあっていただけなのに、気づいたらなし崩しにこんなことになった。目を開けられない。そこにはたった今自分が吐き出したばかりの熱が証拠のように残っている。仁王の手でイかされた。
「ごめん、悪かった。約束やぶってもうたな」
「ち、がっ……」仁王の顔も見れない。どうして泣いているのか自分でもわからないのに、涙が頬を流れ続ける。シャワーの温度を見て、仁王が優しく体を流してくれた。仁王が困っているのはわかるのに涙が止まらない。流れる水が止まり、タオルが頭からかけられる。
「なあ、ブン太、風邪ひくからもどりんしゃい」
「……にお、は」
「後から行くけん」恐る恐る顔を上げると仁王は口元を覆っていて、その横顔はやや鋭い。怒っているのだろうか。丸井は大人しく頷いてふらつく足でシャワー室を出て部室に向かう。どうしたらいいんだろう。涙は更に流れ続ける。しゃっくりが止まらなくて、格好悪いと思うのにおさまらなかった。 丸井の泣き声が遠ざかり、仁王はぐっと温度を下げて叩くようにシャワーを出す。その冷たさに思わず悲鳴を上げて、奥歯を噛んで耐えた。手を開いて自分に呆れてしまう。客観的に最低だと思うのに後悔も反省も浮かばない。頭から水をかぶったまま足下を流れる汚れた水を見る。
(鼻血って俺……)
丸井が泣いてくれてよかった。原因は他にもあるが、この状況だと丸井に興奮したからに決まっている。自分がどんな顔をしているのか考えたくない。気合いを入れるように力を込めて両頬を叩くと水が散った。鳥肌さえ立ってきたが鼻血がおさまるまでは待とうと少し緩めるだけにする。
──泣かせてしまった。再びぞくっと鳥肌が立ったが水のせいだけではない。触れた丸井の体温、快感を押し殺す声や小さく震える体にあれだけ興奮したと言うのに、最後の涙が何より自分を煽った。冷水のおかげで体の熱はおさまっているが、動揺がまだ体の中を走っている。
丸井が抵抗感を持っている間は何もしないつもりだった。丸井の気持ちを大切になんて理由じゃない、後腐れがないようにしたかっただけだ。戯れのようなキスだけで終わっていれば、と考えたのは、いつかは来るだろう別れがよぎったから。一線を越えることがなければ将来隣にいなくとも笑い合えるように思えたのだが、それでも衝動で走った体は止まらなかった。ふざけて同じシャワー室に押し込んで、仁王に他意はなかったのだが照れた丸井が面白くて思わず手を出した。柳生が時々言う、君には恋愛をする資格がない、の言葉が妙に身に染みる。いつも自分でさえどこまで本気なのかわかっていない。これはおそらく、「本気」なのだ。あんな表情を他の誰かに見られるぐらいなら自分で奪う。考えているとまた体の高ぶりが戻ってきて、舌打ちをしてシャワーを止めた。このままで丸井と顔を合わせられるはずがない。
*
(仁王遅い……)
髪を乾かす余裕までは戻らないがどうにか着替え、丸井は落ち着かない気持ちを抱えたまま部室で待つ。先に帰ってしまいたいが、それでは拒んでしまったようで嫌だった。関係が崩れてしまいそうな気がする。頭からタオルをかぶったまま、手持ち無沙汰に首にかけただけのネクタイの端を弄ぶ。怒っているのだろうか。大した抵抗はしていなかったくせに終わったら終わったで泣き出して、そうでなくとも今まで散々誤魔化してきているのに、今度こそ愛想を尽かされたのではないだろうか。帰る前に嫌ではなかったと伝えたい。男に触られてよがっている男なんて気持ち悪いと思われていないだろうか。
堪えたいのに漏れてしまう声、無意識に快楽を求めた体。仁王の体があんなに熱いとは知らなかった。あんなに興奮した声も聞いたことがない。腿に当たっていた仁王の高ぶりを思い出して顔が熱くなる。
(──あ!仁王イってねえじゃん……)
自分だけ気持ちよくなってあっさり達した挙げ句泣き出して。最低だ、涙が滲んできて頭を抱える。
(うわ、今、仁王抜いてんじゃねーの……帰った方がいいのか?……だめだ、鍵預かってんの俺じゃん……)
色々考えていると本格的に涙が流れ出して、タオルで抑えて眼球を押した。最近仁王のことばかり考えている。ひとりで一喜一憂している。こんな恋はしたことがない。
「まだおったん?」
「あ、」
「帰ったと思っとった。待たせてすまんの」
「いや……血!?」仁王の持つタオルに血がついていて思わず立ち上がる。罰が悪そうに仁王は濡れた髪をかきむしった。
「鼻血」
「えっ」
「昨日姉貴に殴られてめっちゃ鼻血出て、切れてる。傷開いた」
「なんだよ!もうちょっと俺に興奮しろよ!」
「……お前ヤってる最中に鼻血出されて嬉しいか」
「あ、え、う……だ、大丈夫なのかよ」
「一応止まったから」面倒くさそうに制服に着替える仁王の背中を見る。表面上は何も変化は見れないが、仁王のことなのでわからない。
「ブンちゃんに興奮するたび鼻血出してたらたまらんわ」
「……何?それってどういう意味?」
「鼻血が出なきゃブンちゃんが泣こうが喚こうが最後までやってた」
「……鼻血に感謝!」
「んで、一緒に帰るん?」
「……ど、どうしたらいい」
「ブンちゃんに任せるわ」
「……じゃあ、送れよ」
「……ウン」緩くネクタイを締めながら、仁王はさり気なく丸井から視線を外した。失敗だったかな?丸井は眉をひそめるが素直な気持ちを言ったまでだ。
「仁王、……お、俺!」
「んー?」
「ち、ちゃんと考える……心の準備、する」
「……気持ちよかった?」
「……よくなきゃ、イかねえよ」
「もっかいする?」
「今日はいい!」
「今日は、ね。帰るか」向けられた笑顔に迂闊にも可愛いと思ってしまった。鞄を手に振り返った仁王は、面倒になったのかなぜかネクタイをリボン結びにしている。シャワーを浴びた後だから髪はそのままで、いつもと違う様子にどこを見たらいいのかわからなかった。心を落ち着けるつもりでガムを口に放り込んだ。一枚、と手が出てきたので手のひらに落としてやる。この手が、さっき、自分を追い詰めた。仁王の裸なら過去に合宿もあったし、夏場にはご用達のあのシャワー室でだって今までにも見たことがある。どうして今日のあのときだけ、あんなに恥ずかしくなったのだろう。前に見たよりも引き締まったような気がしたからだろうか。どきっと鼓動が乱れたのを確かに感じた。
仁王と一緒に顧問まで鍵を返しに行くと、まだいたのかと怒られた。締め忘れたのだろうと思い様子を見に行こうとしていたらしい。終わっていてよかったと心から思う。ついでにふたりしてパワーリストをつけていなくてまた怒られてしまった。少なくとも丸井は忘れていたわけじゃない、一度つけたがどうしようもなく体がダルかったから外したのだ。今だけでもつけておけばよかったと後悔しても遅い。仁王はネクタイも怒られて、その場で顧問自らが締め直して笑えた。
「さいならァ」
仁王の口先で早めに切り抜けて学校を出る。顧問の前から立ち去るときに軽く肩を押した仁王の手に少しうろたえたら、歩くときに距離をおかれてしまった。
「……気にすんなよぉ」
「うるさい。ちょっとへこんだだけじゃ」
「仁王」
「……ブンちゃん、早起きできる?」
「は?」
「俺壁流すの忘れたかも」
「…………は、はあっ!?」
「鼻血でそれどころじゃなかった。やっべー」
「バカ!?お前バカか!?ありえねえだろッ」
「うっさい。ブンちゃんがエロいせいじゃ」
「人のせいにすんなよ!」
「ほんっま調子狂うわ。明日シャワー室で思い出して鼻血出たら看病してな」
「出血多量でシネ!」
「あとうっかり背中にキスマークつけちゃった」
「なっ……可愛く言ってんじゃねーよ!バカ!ジジィ!」
「しゃーない」
「どこが!」
「ブンちゃんが好きやからしゃーない」
「……絶対誤魔化されてやんねー。噂になったら仁王くんがシャワー室でマスかいてましたあって言ってやる」
「うっわ、最低!よかった癖に!」
「でかい声出すな!」後ろ姿を蹴ってやると眉を釣り上げて追いかけてきた。慌てて逃げ出すがすぐに捕まり、店の裏手のような狭い場所に連れ込まれる。
「にお、」
「してなかった」
「んっ」ぐっと唇を押しつけられて、こんなタイミングにされるとは思ってもいなかったのでうろたえる。抵抗の手はあっさり捕まって、唇を舐められて思わず口を開いて、されるがままだ。こんなのずるい、
「……はあっ」
「うわ、エロい顔」
「……帰る」
「はいはい帰ろう」背中を押されて正しいコースに戻り、丸井は改めて仁王を睨む。にやにや笑われるだけで効果はない。
「……なんで俺、仁王に惚れたんだろう」
「かっこいいから?」
「違う。俺の方がかっこいい」
「はいはい。赤くなっちょる」仁王の指が不意に目尻に触れた。あれだけ泣けば赤くもなるだろう。俺が泣かしたから、仁王の声はなぜか笑っている。悪趣味だ。
「次はいつ泣かすんやろ」
「……誰が泣くか!」
070728