井の中の蛙
「おい丸井ー」
「熟睡じゃん」今日は部活も休みだから早く帰ろう、寝不足の仁王はあくびをしながら廊下を歩く。丸井がいると思ったわけではなかったが、何気なく覗いた教室で彼の頭がクラスメイトにつつかれていた。この暑いのに、首に下げたタオルで首筋の汗を拭って仁王は教室に入る。
「どうしたん?」
「あ、ニオ。こいつ約束してたのに寝てんの」
「ふうん……」座ったまま器用に眠る丸井を見ていると何かこみ上げるものがある。そもそもジャッカルと喧嘩しただとかで夜中長電話につきあわされた挙げ句、キャッチで入ったジャッカルからの電話で無事仲直りし、そのまま報告続きで明日お好み焼きを食べに行くなどの世間話につき合わされ、……つまり、仁王の寝不足の原因はこのおめでたい頭だというのに、どうして元凶は惰眠を貪っているのだろう。
ふらふらする赤い頭を掴んでわずかに倒し、現れた首筋に噛みつく。周りがぎょっとしたのが気配でわかったが、そんなことはお構いなしに柔らかい皮膚を吸った。いつも蚊か何かそういう生き物になったような気分になる。
丸井が小さく唸ったのをきっかけに、跡が残ったのを確認して仁王は丸井から離れた。クラスメイトは彼の凶悪な笑みを見ただろう。振り返って内緒、のジェスチャーをしたときにはにこやかな笑顔になっていた。「ブーンーちゃん、お好み焼き食べに行こッ」
「んあ?あ、行くっ!」
「おまっ……それなら起きるのかよ!俺たちだって起こしてたのに!」
「何が?あれ、仁王も行くのかよ、朝練のときソッコー帰って寝るっつってなかった?」
「帰るよ。こいつらがよく寝るブーちゃんに困っとったけえ」
「おいこら、誰がブーだ、短くすんな!」
「ほんじゃ。山田、ブーちゃんが共食いしそうになったら止めてな。バイバイ」
「バイバイ……なんなんだあいつ」
「さあ……つーか、テニス部って仲いいのな」
「何が……あっ」仁王が手を振るので思わず振り返してしまっていた手を慌てて下ろす丸井を見て、クラスメイトは溜息を吐いた。そこじゃない。仲がいい、なんて言葉で終わらせてしまっていいのかわからないが、仁王だから何をしてもおかしくないと言うのが本音だ。
「明日プールあんのにいいのかな……」
「あ、明日プールだっけ!超楽しみ!」
「……」
「何?」
「別に……」
*
「泳ぐぜえ〜!」
絶好のプール日和に丸井は屈伸をする。ゴムが切れただとかで見学の女子にねだりに行っている仁王をちらりと見た。水着だからなのか妙に女子が盛り上がっていて高い声が耳について、思わず膨れっ面をしてしまう。
「なあブン太、それキスマーク?」
「は?」
「首」
「え?何?どの辺?」
「ここ」友人につつかれて首を押さえる。全く記憶にない。最近色々忙しかったので仁王とこそこそとそのような何かをする時間はなかった。そんなはずはない。冷やかした友人も冗談のつもりだったのだが、丸井が考え込んでしまいうろたえている。
「えっお前彼女いたっけ!?」
「うえっ!?あ、いや、なんだっけ、その……」昨日仁王の奇行を見てしまっている友人たちは告げるべきなのか迷う。そのうち仁王が気づいて、女子から借りたゴムを指先で回しながら近づいてきた。
「ブンちゃんどったの?」
「……仁王」お前か?確信が持てないので仁王を見るが、仁王は仁王で何事?と首を傾げる。絶対関係はあるはずだ。ゴムの飾りをチャラチャラ言わせながら髪をまとめる仁王は自分から口を割る気はないらしい。にやにや笑う仁王を見ながら、どうして適当に誤魔化せなかったのか後悔した。血の気が引くやら顔が熱くなるやらで体が動かない。いつもより上の位置で結んでいる「尻尾」にさえ妙に腹が立つ。
「……プッ」
「仁王!」
「何?山田ら昨日のブンちゃんに言わんかったんか?ウケる」
「ど、どう言えっつーんだよ!」
「おまっ……何!?お前なのかよ!?」
「昨日ブンちゃんが気持ちよさそうに寝とったから北川がつけた」
「俺じゃねー!」
「こんなことできるのお前だけだろうが!ありえねー!キスマークとか最低!変態!二度と俺に触るな!」
「そんなに怒りなさんな。可愛い顔が台無しぜよ」
「……天誅ッ!」
「うおっ!」仁王をプールに蹴り飛ばし、顔を上げたところに更にゴーグルを投げつける。勝手に入るなよー、教師の声はのん気だ。とっさに体勢の取れなかった仁王はサイドに捕まってせき込む。それを更に突き放そうと丸井が手を振り払った。
「ゲホッ、イッ……鼻に水入った!」
「ざまぁみやがれ!この俺の玉の肌に傷をつけた罪は重い!」
「つけたのは傷じゃなくてキス」
「ダジャレは聞いてねえ!」
「溺れたらどうするんじゃ、泳げんのに」
「え、お前泳げねーの!?ダッセー!」
「ほっとけ!」プリプリしながら仁王がプールから上がった。女子がそろわないと体育教師はすでに疲れを見せている。
「ニオくん、髪、髪」
「ん?あ」落ちた勢いで緩かったらしいゴムがずれている。引っ張るとするりとぬけてしまって、仁王は指摘してくれた女子に手を振った。丸井がすねるのがわかってやっている。
「ブンちゃんの意地悪〜」
普段絶対しないくせに丸井に舌を出し、仁王は女子の方へ逃げていった。仁王とつき合いだしてから女の子とエロがつながらなくなりつつあるが、それでも水着の女子に近づくのは妙にはばかられる。プールサイド(の男子側)では仁王が暗黙のうちに勇者認定されていた。結んで、と女子に頭を預けている仁王が面白くない。
「なーセンセーもう泳ぐぜ!?」
「準備体操ぐらいしろ!」体育委員がラジオ体操を始めて、しばらく女子に混ざって体育座りをしていた仁王はクラスメイトに呼ばれて面倒くさそうに立ち上がる。水飛んだ!女子と一緒に笑い合いながら男子サイドに戻ってきた仁王はすかさず他の男子の手によって再び水に叩き込まれていた。バカらしくなって、やる気なく体操をしながら横目でそれを見る。
「泳げんってゆっとろーが!」
「ビート板貸してやるよ」
「体操させて!こらっバカ!」ビート板で頭を叩かれて仁王は水をかけて応戦する。絶対馬鹿だ。一緒になって水のかけあいをしているクラスメイトに溜息を吐いた。どうにかプールからあがることのできた仁王は知らない間に真剣になっていたらしく、フェンスにもたれてぐったりしている。プールは2時間連続の選択体育の時間で行われているため、まだまだ水泳は終わらないと言うのに。
順番に泳ぐよう指示を出されてクラスメイトが並ぶ中、ひとり外れて仁王の元へ向かった。「……おい、ゴーグル返せよ」
「ゴーグル?」
「さっき投げた奴」
「ああ……知らん、プールの中じゃろ。俺潜れんから自分で取って」
「ほんっと泳げねえのな……」
「流石に命に関わる問題で嘘は吐けんぜよ」
「つっまんねえの!夏休み海誘おうと思ったのに!」
「えーっ誘ってよそこは」
「荷物持ちにしかなんねーじゃん」
「お役立ちじゃろ」
「そういうのはあっちのカワイイのと行ってくれば?」丸井が指差した先を仁王が見る。それに気づいた女子が仁王に手を振った。外面ばかりがいい仁王は女受けがいいらしい。誘えば簡単についてくるだろう。
「……そんなこと言ったらほんとに行っちゃうぜよ。浜辺のチョウチョ捕まえちゃうぜぃ」
「行ってら。お土産シクヨロ。なー山田ァ!ゴーグル探してゴーグル!俺ゴーグルないと泳げない」
「ブンちゃんゴーグル見つかるまでお隣おいで」
「……どーせチョウチョじゃねーよ」隣に座ってフェンスに寄りかかる。しゃがむ勢いで冷たくなった腕とぶつかった。今日が水泳1回目の授業だからなのか、教師も生徒の好きにさせているので注意されない。膨れたままプールを睨んでいると濡れた手に肩を押された。気づけばぎょっとするほど近くに仁王の顔が迫っていて、反射的に体を引くとそのままずるずると倒れ込む。とっさに掴んだフェンスで微妙な体勢で止まり、仁王も笑ったまま体を止めた。女子の悲鳴が聞こえる中、仁王の髪から落ちた滴が頬に落ちる。
「ばっ……バカか!何してんだよ!」
「いや、こうして見るブンちゃんもなかなか魅力的やなあと」
「ふざっけんな!腹筋イテェからどけ!」
「あと30秒我慢したらどいちゃる」
「……誰がお前の言うこと聞くかっつの!」そのまま頭を上げて頭突きをする。気持ちのいい音がして、仁王がゆっくり離れていった。部内で1位2位を争う石頭を前に、仁王はフェンスに寄りかかって痛みを堪えている。
「脳みそ揺れとる……」
「におーくん大丈夫〜?」
「無理ィ〜……」どう考えても被害者は丸井であったのに、女子の心配は仁王へ向く。あっちまで音聞こえたぞ、ゴーグルを見つけてきたクラスメイトが呟いた。目を離した隙に仁王は女子の元へ逃走している。お前はロケット団か!丸井の罵倒もむなしい。
「わっニオくんこれはヤバい!超痛そう!」
「痛い、ほんまに」
「コブできてる!かわいそうに」
「撫でて〜」
「……変態ッ!」からかうと予想以上の反応が帰ってくるので面白い。頭を撫でてくれていた女子に大丈夫、と笑いかける。ゴーグルをかけて第1コースに入った丸井を目で追った。てめえらどきやがれ、上から目線でクラスメイトを追い払い、丸井は飛び込み位置に立つ。仁王の視線に気づいて一瞬こっちにむかって舌を出した上中指まで立てた。かなりご立腹のようで、面白くなって笑ってしまう。飛ぶなら早く飛べ、教師に促され、丸井は前を見据えた。今日はいい天気だ。水面がきらきら光ってまぶしくて仁王は目を細める。少し目を離した隙に丸井は飛び出していた。水を四方に散らせて水に飛び込んだ丸井の姿勢はきれいなもので、周りの女子が瞬間で黙り込む。
(……一瞬でかっこよくなるから、怖いんよな)
ぽわぽわとハートが飛ぶのが見えそうだ。25メートル泳ぎきって、一瞬顔を上げた丸井はコースに誰もいないのを確認すると折り返してスタート地点まで戻る。規則正しいきれいなクロール。壁に手をついてゴーグルを外し、クラスメイトに向かってハイタッチを求めていた。そばにいなくとも決めゼリフはわかる。ひゅうと軽く口笛を吹いた。
「天才的ぃ」
「丸井くん泳げるんだねー、意外かも」
「俺もビート板でばた足ならできるんじゃけど」
「仁王くんこそ意外だよ!すいすい泳げそう」
「んー、俺顔つけるの怖いんじゃ。目痛くなるし」
「あはは、ニオくんかわいい」
「今度教えたげるね」
「そうじゃのー、泳げんと毎年夏にはふられるし」この様子だと丸井にも見放されかねない。今年の合宿は海がいいと切原が監督にねだっていたから、もしかしたらと言うこともある。気持ちよさそうに泳いでいる丸井を見ると焦りが浮かぶ。夏休みの花火大会は毎年なんとなくみんなで行っていたから今年もそうなるだろう、仮にふたりで行ったとしても結局合流するに違いない。あとは練習だの補習だの、それこそ予定を入れなければ入れないままになってしまう。誘うなら誘うで早めに声をかけなくてはならない。
(……なんかデートしたいみたいじゃな)
別に口実はなんだっていい。近くにいたいと思うだけだ。
「……ねえ仁王くん、丸井って今彼女いないよね」
「あ?ああ、おらんよ」
「だよね、じゃああのキスマーク、マジで仁王くんなの?」
「まさか、虫さされじゃろ?適当に言っただけじゃ」
「仁王くんならやりかねないからマジかと思った」
「違う違う」
「ね、じゃあさ、あとで部活休みの日とか教えてよ」
「……ブンちゃんなん!?」
「声大きい!」
「あ……え?」水着を脱がしてやろうとクラスメイトを追いかけ回している丸井を指差す。女子はそれを見て若干フリーズしたが、すぐに小さくうなづいた。
「……あ、そうか……お前さん女テニか」
「うん」ラケットを握っている間が丸井の真骨頂だ。仁王なんかだと怖いとすら言われてしまうが、試合中の丸井は試合を完成にエンターテイメントにしてしまうから、たまに見に来る子どもなどに人気があったりする。女子受けもいいとは知らなかった。
少し意地悪な気分になる。どんなに好きでも、彼があんな顔をするなんて知らないだろう。あんな声で名前を呼ぶとは知らないだろう。我ながら性格が悪いと思う。「……でもブンちゃん、好きな奴おるぜよ」
「……そうなの?」
「プリッ」
「そっかあ……」
「……言わん方がよかったかの」
「あ、ううん、ありがとう……なんか男テニって声かけにくくて、クラスの男子はそのこと知らなかったし」いないということにしているのか。仁王の場合嘘だろうが本音だろうが、この手の話題だと特に信用されない。そこまで嘘つきではないと思うのだが、『ペテン師』の名は伊達じゃないようだ。泣きそうなのを堪えている。自分じゃなくて丸井が引導を引き渡した方がよかったのだろうかと思いはするが、この柔らかい体を持つ生き物を近づけたくない。目的を持っているなら尚更だ。自分の体の機能は抱かれるためのものではなく抱くためのものなのだと、丸井が気づいてしまうことが怖い。
わずかな罪悪感を消すために、濡れた手をできるだけ拭って頭を撫でた。ごめんと心の中で呟く。あの太陽は、俺のものだ。
070728