「イッ……」
「どうした〜?」

仁王が目を押さえてうつむいた。のぞき込むとゆっくり手を離し、現れた目から涙がこぼれてぎょっとする。

「ブンちゃん鏡持っとる?」
「鏡?あ、鏡、うん」

ブン太が持っていたのは名刺サイズの鏡だが、この大きさでいいのかわからないままそれを差し出す。イテテと呟きながら鏡を覗く仁王を隣でじっと見ていると、少し充血した目からパチンと何か飛び出した。

「うおっ、何それ!?鱗ッ!?」
「ちがわい、コンタクトじゃ」
「コンタクト?お前目悪かったっけ、つーかコンタクトってこんなに生きがよかったっけ」
「ちょっと待って、ブンちゃん動くな。どこ飛んだ?見えん」
「え、あ、ここ」

拾うのが怖くて仁王の膝を指さす。丸井は家にも視力の悪い人間はいないからまるで無縁だ。友人に何人かいるぐらいで、コンタクトとなると日常ではわからないからもっといるのかもしれない。まだ手をつけていなかったミネラルウォーターを開けてレンズを洗い、仁王はそれを目に戻す。普段見ることのないその瞬間に、丸井はじっと息を殺して見入ってしまった。無事におさまると思わず拍手をしてしまう。

「はい、鏡ありがと」
「おお〜!すっげー!え、それ痛くないの?痛いの好きなんだっけ?」
「嫌いじゃ、誰がいつそんなこと。慣れたら平気」
「ハードなんだな。ソフトの奴は何人かいるけど」
「前は使い捨て使っとったけど。泊まり歩くのにはそっちのが便利……叩かない!」
「ドコをどんなふーに泊まり歩いてたんだよ!」
「ヤキモチ可愛い。残念ながら男のとこばっかじゃ」
「それはそれで複雑なんですけど〜」
「あーそっか。大丈夫、一応ブンちゃんがハジメテの男じゃけえ」
「一応って何だよ!大丈夫の意味がわかんねーし!」

笑う仁王の腿を叩いてやる。つき合いだしてからどれぐらい経ったのか、仁王ならば覚えているのかもしれないがそういうことに興味を持てない丸井はわからない。しかしあの頃と違って夏服へ移行したから、思っていたよりは長い。時々過去の武勇伝を耳に挟んでは大事にされているのだと思う。それでも聞きたいものではない。

「結構悪いの?」
「柳生と同じぐらいかの〜。矯正してないと、これぐらい近くないと顔わからん」
「……それは近すぎねえ?近すぎて見えねえよ」

仁王が顔を寄せてくるので丸井も口角を上げた。同じように仁王が笑ったときにはもう唇が触れている。誰もいない屋上で風だけが流れて、仁王の毛先がくすぐったい。いくら話をしても何度キスを交わしても、テニスもしたいから時間が足りない。こんな風に人を好きになったことは今までなかった。
舌先で唇をつつかれて、思わず仁王を押し返す。真っ正面から見据えた仁王は少し決まりが悪そうに苦笑した。天気がいいので仁王の髪が光って見える。手から落ちていた鏡が日差しに反射して、仁王がそれをひっくり返した。

「……俺そういうのしたことない」
「ウン。……そんなに見られると流石にちょっと照れるんじゃけど」
「あ、コンタクト見えた。すげー、ほんとに入ってんだ」
「……ハードは黒目より小さいけん」
「ふーん、お前損してるなあ、こんな男前裸眼で見えないなんて」
「近かったら見えるよ」
「ふうん……してもいいぜぃ」
「ん?」
「キスの続き」
「……なんとなくムカつくからせん」
「おまっ、俺の一大決心を!後悔しても知らねーからな!?」
「したいんやったらブンちゃんからどうぞ」
「……お前、性格悪い」
「知ってる、ブンちゃんより長いつき合いじゃけん」
「……」

昨日は仁王が好きな曲の話をした。今日はコンタクトだと知った。だからランクアップした仁王のキスは今度でもいいかと言う気がしてくる。目を見つめたまま考えていると仁王が吹き出して、丸井が怒るより早くキスをされた。髪に差し込んで頭を抱く仁王の手は、さっき濡れたからなのか少し冷たい。離れた仁王が口開けて、と囁いて、ぎこちなく頷いた。

 

 

*

 

 

ドラマのような時間だった。技術をサボると後々面倒だから、と仁王が屋上を出ていった後も、丸井はまだそこにいた。手持ちぶさたに弁当箱の包みを結び直したり、風で乱れるのに鏡を見ながら前髪を直したりと落ち着かない。次は数学、仁王がさぼれるのなら一緒にと思っていたが、どうしようか迷っているうちに予鈴が鳴ってしまった。どうせ授業に行っても考えていることは同じだろうが、真田に伝わるとうるさいので重い腰を上げてゆっくり教室へ向かう。

――まだ、指先が震えている気がする。アル中か俺は、うんざりしながら静かな廊下を歩いた。窓のサッシが反射して、なぜか仁王を思い出す。ダメだ、仁王のことしか考えられない。

「おいコラ丸井、余裕だな」
「……チャイム鳴った?」
「今鳴った」

後ろから来た数学教師が溜息を吐く。今日お前から当てるからな、話しながら一緒に廊下を歩いた。

「俺今日は無理、数学なんて考えらんねえ」
「丸井はいつも無理だろうが」
「わかってて当てんなよー。俺今色ボケだから、数学なんかわかんねーよ」
「色ボケか」
「そう。こんなはずじゃなかったんだけどなー」
「まーとりあえず宿題の回答は丸井から当てるわ」
「……宿題あったっけ」
「やってこいよ!」

教室に入ると丁度丸井がいない、と話題になっていたところらしく、どこ行ってたんだよ、とクラスメイトがつっこんでくる。

「実は俺センセーとつき合ってんの、トイレでちゅーしてたんだよなー?」
「俺はそれに乗れるほど若くねえぞー。号令!」
「ばーか」

冷やかされながら席に戻る。半分本当だなんて誰も気づかない。宣言通り丸井を一発目に当てられて、黒板の前で腹でも痛いみたいに悩む。どこかで見覚えがあると思ったら前に仁王と一緒に解いたことがある問題で、それでも思い出すのは仁王ばかりで解き方は思い出せなかった。

「ギブ!」
「お前次も当てるからな」
「センセーの意地悪!ベッドの中ではあんなに優しいくせに!」
「お前俺をクビにする気!?」

ぴゅうと口笛が上がって、教師が頭を抱えるのを笑ってガッツポーズをする。いいから戻れ、しっしっと追い払われて席に戻った。お腹はいっぱいのはずなのに、この物足りなさは何だろう。早くテニスがしたい。黄色いボールとラケットと、靴さえあれば裸でだってできる。それぐらいにテニスは好きだ。今度の練習試合はシングルスだと言われているから守備の練習がしたい。しばらくダブルスの練習ばかりしていたから、また反応が遅くなっているだろう。
黒板をとりあえず写しながら心は上の空だ。考えてもみるがシャーペンを弄んで回す回数が増えるだけに終わる。好きなもののことならいくらでも考えられるのに。

今すぐ教室を飛び出して技術室でのこぎりを引いている仁王をひっつかんで学校を飛び出して、どこにあるのか知らないけど河川敷とかそんなところに走っていって寝っ転がるような、そんなドラマみたいなことができるならしているかもしれない。要は本当に数学がわからなさすぎて絶望しているのだが、考えるぐらいはいいだろう。絶対口にはできない。

(こんなに仁王を好きになったのは絶対俺だけだ)

仁王にならおいしく料理される自信がある。さっきのキスを思い出して、ひとり耳まで赤くして頭を抱えた。

 

 

 

070728