もしかして夢だったのではないかという気がしてきた。日が経つにつれて感覚も思い出せなくなってきて、嫌ではなかったということだけがはっきりしている。いろんなところにキスをされた気がするが跡が残っているわけでもない。
流れでセックスみたいなことをしたあの日は、新学期に入ってすぐだった。まるで夢だったかのように、あっという間に中間テスト。

「わかんねえ……仁王と替え玉で受験できたらいいのに」
「身長がなあ……惜しいのう、体重は一緒やのに」
「うるせえ」

他の教科はそこそこなのに、数学だけが壊滅的だ。目の前の仁王を睨むと苦笑される。うっとうしいのか前髪をてっぺんで結んでいるのに妙に腹が立ち、それを引っ張ってみた。しばらくされるがままだったが立ち上がり、丸井の後ろに回って前髪を取る。視界が開けたので見ているとヘアピンを使ったようで、仁王が手を離してから鏡を取り出す。

「アラ可愛い」
「お、俺前髪上げると新たな魅力があるんじゃね?」
「お前ら真面目に勉強せんか!特に丸井、お前次第でジャッカルにも迷惑がかかることになるんだからな」

真田の一喝にわかってらぃ、と口をとがらせた。赤点を取ると試合には出場できないことになっている。次はジャッカルとのダブルスが決まっているから、赤点を取るとメンバー全体での組み直しだ。そう頭ではわかっていても、数学は全くわからない。危ないのは丸井だけではないから一番広い真田のうちでの勉強会となったのだが、これはこれで集中できないものだ。

「まあお前らふたりにするよりましだろ」
「黙れジャッカル」

ぺしっと叩き甲斐のある頭を叩く。着々とプリントを解いているジャッカルはもうそれを気にしない。

「あーあ……なんかご褒美ないのご褒美ー」
「ご褒美はメンバー登録だな」
「ぶーっ、俺より赤也の英語だろぃ」
「だから柳生がマンツーマンで教えてるんだろう」

なかなか的確な人選だろう。あの真面目な柳生ならば切原を逃がしはしないし、真田のように手を出しもしないからこそ恐ろしい。柳が指先でプリントを叩いて、丸井は改めて溜息を吐いた。後ろからのぞき込んだ仁王が計算ミスを指摘する。

「……そうだな、仁王は余裕そうだし教えてもらえ」
「俺が?手取り足取り?」
「方法は任せた」
「……ブンちゃん、やる?」
「誰でもいい。真田以外なら」
「別にええけど」
「だーっもうわかんねーっ!何で勝手に省略とかするんすか!?」
「集中して読めばわかりますよ。ここもthatが省略されています」
「赤也うっせー!」
「どっちもどっちだろ」

ジャッカルの呆れた声の後すぐに頭を叩く。力が入りすぎていい音がしたので流石に一瞬睨まれた。

「集中力ないのう……」
「赤也がうるせーんだよ」
「丸井先輩よりはやってます〜」
「腹立つ!」
「はあ……参謀、部室借りるぜよ。赤也と一緒だと進まん」
「……鍵は?」
「ブンちゃん行こうぜ」

ぱっと出る準備をする仁王に続き、丸井も素早く勉強道具を片づけた。柳の声など聞かなかったかのようにお先、とふたりは挨拶をして出て行く。引き留めかけた真田も無視だ。

「柳、大丈夫なのかあいつらは」
「まあ……大丈夫なんじゃないか、仁王は餌を持っていたから」
「餌?」

 

 

*

 

 

「仁王大好き!」
「それはテストが終わってから言いんしゃい」

丸井の目の前からバイキングのチラシを取り上げ、仁王は代わりに数学のプリントを持ち上げる。一瞬怯んだが、丸井はすぐにそれを受け取った。簡単すぎて時々心配にもなる。

「さっさと教えろ、いきなりわかんねえ」
「授業料は?」
「……お前、そのつもりで出てきたな?」
「もちろん」

パイプ椅子をぶつかるほど隣に寄せて、仁王はすぐにキスをしてきた。油断していたので簡単に舌を絡め取られてしまう。反射的に逃げた丸井の肩を抱き寄せて、体が熱くなるのがわかって恥ずかしくなる。

「ん……仁王、あ」

呼吸は一瞬、熱い吐息にどきっとしている間にまた口を塞がれる。慣れた衣擦れが聞こえて慌てて仁王を引き剥がすとネクタイが抜かれている。

「に……仁王?」
「俺の授業料は高いぜ?」
「おい!」
「せっかくブンちゃんからお許し出たのになかなかチャンスがなかったけん」
「脱がすな!俺数学しねーと!」
「後できっちり教えたる」

自分のネクタイを後ろに投げ捨て、仁王の手は丸井の襟にかかる。わずかに起こった好奇心を抑えようとするのに、仁王の手を遮ることもできない。だって、この落ち着いた男も流石に表情を崩すだろうから、どうしてもそれが見てみたい。
ずるいやつだと改めて思う。この状況での二択なら丸井は勉強を捨てる。テストがダメでも仁王のせいにできるおまけつきだ。丸井から目を逸らさずに、仁王はゆっくり脱がしていく。確かに丸井の意志だと確認しながら。

「ち、ちょっと待て。……仁王先生、俺初心者だから、こんなところでするのはちょっと」
「じゃあブンちゃんち行く?」
「無理、親いる」
「俺んちも」
「……」
「大丈夫。最後まではせん」

笑いながら仁王の唇が首筋を這う。その一瞬だけでぞくっと興奮が走り、ごまかすために仁王の頭のゴムを抜いてかき乱した。下りた前髪の間から丸井を見る目が、どうしようもなく丸井をあおる。男を色っぽいと思う日が来るとは思わなかった。仁王は露わな額に口づけて唇をなめる。

「やめたかったら俺の理性のあるうちに教えて」

 

 

*

 

 

「嘘つき……」

コンドームの処分に困っている仁王の背中に消しゴムを投げつける。ぐったりと机に頬を当てて、仁王が近づいてくるのを見てすぐにベルトを締める。ひどい!と泣き真似をされるが、泣いているのはこっちだ。鼻をすすって睨み返す。

「ばか」
「ごめんなぁ泣かせて。でもよかったろ?」
「イテーよ。誰だよ入れねーって言ったのは!」
「どこの詐欺師が俺の可愛いブンちゃんにそんな嘘ついたんじゃ」
「……お前」
「しゃーないって、穴があったら入れたくなるのが男じゃろ」
「穴って言うな!俺一生処女とは付き合わねえ」
「あらあら。いきなり別れる宣言?」
「ふん」

隣に座った仁王の足を蹴る。痛くなさそうに余裕の表情を見せるのでもう一度蹴ると苦笑混じりで止められた。その表情を見ていると溜息が出る。

「……面白かった」
「はあ?」
「お前の余裕ない顔なんか滅多に見れるもんじゃねえからな」

顔を上げて笑ってやるとなぜか仁王が顔を赤くする。目を疑ってのぞき込むがその目を覆われてしまった。見んといて、動揺した声にいい気になる。

「ブンちゃん余裕……」
「俺ってもしかして仁王の扱いにかけては天才的なんじゃねーの?」
「ほんとに……かっこいいな、ブンちゃんは」
「ちゃんと呼べよ」

手を払うと少し驚いた様子の仁王と目が合う。困ったように視線を泳がせるので、また視線の先が丸井に戻るまで待った。面白い。こんな仁王は見たことがない。

「……ブン太」
「雅治」
「……それは、サービスしすぎ」
「お前数学の問題知ってるだろ」
「……何の話?」
「うちの担任数学できる奴大好きだから、贔屓の奴には緩いだろ?どの辺出るか知ってんじゃねえの?」
「……ブンちゃん立派な詐欺師になれるわ」
「頭使えねえから体使わねえとな」
「思考が援交と一緒ぜよ……」
「でも好きだろぃ」
「大好き」

仁王は苦笑しながら問題集を取り出し、範囲のページを開くといくつかに印がついている。それを受け取って自分の問題集にもメモをした。数字変えるだけで出すって、仁王の言葉に頷く。溜息を吐いた仁王を見ると前髪を留めていたピンを外された。大分乱れて落ちていたのをまとめて留め直される。

「まあブンちゃんが嫌じゃのうてよかった」
「初めはビビってたけど、やってみたらまあこんなもんかーって」
「……あ、そう……ブンちゃん素質あるわ……」
「気持ちよかった」
「……ブン太」

声に応えて口づける。唇を舐めて上顎をつついて舌を吸って、本気のキス。からかうような動きを追って、仁王が手に触れるのに肩を上げた。膝がぶつかって指先から熱が伝わり、幸せだと感じる。どんなお菓子より甘い時間。

「あ」
「何?」
「腹減った」
「……ブンちゃん燃費悪い」
「なんか買ってこいよ」
「えー」
「あのね、俺口は動くけど体はだるいの、痛いの」
「はいはい……その代わり数学やっときんしゃい、進んでなかったらお預けじゃ」
「げっ」

財布だけ掴んで仁王が出て行き、周到にも鍵をかけていたことに気づく。そういえば隣には誰もいなかったのだろうか。我慢だとかそんな余裕は全くなくて、仁王にすがりつくだけで精一杯だった。今更恥ずかしくなって顔が熱くなる。最低、ありえない、初めてが部室でおまけに机とか。

(そりゃ中学生がラブホとか言えねーけどさ……)

とりあえずシャーペンを手にして、出るところから始めていく。さっき一応説明を受けたから、基本ぐらいはわかりそうだ。仁王は見ただけで解き方がわかるらしいが丸井はそうもいかない。式を目で追って確かめながら判断する。
――例えばこうして、数学にしても真逆だし丸井の得意な国語は悔しいことに仁王もそれなりにできる。甘いものは特に好きというわけじゃない、それどころかあまり食事自体しているイメージがない。生活環境も考え方も違うのに、今一緒にいることが不思議に思えるときがある。

(なぁんであんなに手慣れてんだ……なんでコンドーム持ち歩いてんの、つか買ったの?うわあ……)

本音を言えば痛いばかりだった。それでも仁王の優しい声だとか、熱い手にほだされた。それは結局、好きだからということに落ち着くのだろうか。シャーペンを回しながら考える。仁王の手癖を真似して覚えた。あんなに指は長くない。

(……恐ろしいところまで、指入ったな)

人体の不思議だ。指どころかもっとすごいものまで入ってしまった。痛みの中にあった快感のかけらのようなものは、仁王相手だからなのだろうか。そうだったら好きすぎて笑える。シャーペンを転がして、ふんぞり返るように座ると古いパイプ椅子が軋んだ。

「好きだぜぃ」

いない人に呟く。言葉にしてみると好きという気持ちがなんなのかわからない。この体の中にあるもの、渦巻く感情が、伝わっていたら嬉しい。言葉では伝えきれない。行為の間にそれだけは漏らさず見ていた、情欲に駆られた仁王の瞳を思い出す。あいつ余裕なかったからダメかもな、鈍感だし。

(あいしてる、は違う)

愛してると言うと凄く大人な気がする。中学生が人に対して使うには重すぎる。好きと言うしかない。気だるい疲労感が睡魔をつれてやってきた。どれぐらいの時間かかったものなのかわからないが、体力を消費したのは実感としてわかる。形だけのノックがあって仁王が戻ってきた。

「ただいまぁ」
「おっせえ」
「センセうろついてて大変やったんやから誉めて」
「……じゃあ、何時間並んでもいいから食べたいラーメンぐらい、好き」
「……きゅんとしかけたけどよく考えたら嬉しくない」
「腹減った」
「数学は?」
「ずっと仁王のこと考えてたからやってない」

手を伸ばして待つと真顔の仁王がコンビニのビニール袋を渡した。心臓に悪い、小さく呟く。

「俺も、時々ジャッカルになりたいぐらい好きじゃ」
「いつでもパシらせてやるぜぃ」
「ちょっと違う」
「わかってるって。バイキングおごりたいぐらい丸井くんが好きなんだろ?」

諦めたように溜息を吐き、唇に笑みを乗せて仁王も座った。これは俺の、と袋からペットボトルを出す。

「……さっきまでセックスしとったのに、変な感じじゃのう」
「そうかあ?」
「もうちょっと、怒られるかと思った」
「……あー、うん、まあ、あれだけヤりたがっといてこのヘタクソ!……とか、思わなくはない」
「それ本音じゃろ」
「もちろん」

ドーナツにかぶりつきながらうなだれた頭を撫でてやる。丸井の好きなものがわかっていればジャッカルレベルだと誉めているつもりだ。ほんまに傷つくんじゃけど、か細い声に笑う。

「いいんじゃねーの?今日で終わりじゃねーんだし」
「……ま、とりあえずは場所の確保じゃの」
「部室はもうやんねー。シャワー室も」
「……同感」

窓を向いた仁王の顔が引きつっている。何気なく振り返れば、立っているのは皇帝・真田弦一郎。

「……あー、そういや、窓あったね。うん。……怒られるのお前ね」
「共犯じゃろこの場合」
「あれ何?普通に勉強しろって怒ってると思う?それとも部室で何してんだって意味?」
「いつからおったんかが問題じゃな」
「……あんまり笑えねーな」

 

 

 

070728