胡蝶の夢 4
「キスマーク!」
切原が喜々として声を上げた。何ごとかと振り返りかけた丸井を止めて背中を見ている。これ、と指でつつかれても、自分の背中が見えるわけがない。
「先輩手ェ早ッ!」
「ちげえよ、このドスケベ!してませんー!打ち身かなんかだろ」
「えー」心当たりはばっちりある。昨日の仁王はバックからしかしなかった。しかし今までキスマークなんて残したことはない。もっとも丸井が知る限りでは、の話だが。やたらと背中に噛みつかれていた記憶はあるが、もしや毎回つけられていたのだろうか。仁王のことだから誰かに見つかれば面白い、と冗談でつけたのだろう。寒いんだよと切原を払ってユニフォームを被る。
「ちーっす、切原おるか?」
「あ、仁王先輩」振り返ると仁王と目が合った、気がした。仁王はすぐに切原のそばへ行く。手にしたビニール袋の中は漫画だろう。
「ほれ」
「あっ、やった!」
「その前に返せ。貸した分返してからの約束じゃ」
「あ〜……忘れてきました」
「帰る」
「あっやだっ仁王せんぱぁい!続き気になってんすから!」
「何冊お前んちに溜まっとるか言ってみろ」
「えーと、5冊?」
「その倍じゃ。ふざけんなよ」
「明日こそ持ってきますから!」
「つーか赤也、おれが貸したのも返す気ねえだろ」
「ジャッカル先輩のはなんかいいかなと思って」
「よくねえよ!返せよ!」
「赤也俺にも返せよ!」
「丸井先輩には借りてない!つーかドラクエ返してもらってない!」
「赤也のはなんかいいかなって」
「よくないっすよ!」
「引退しても騒がしい奴らだな!」突然降った怒号に切原が肩をすくめた。部室に入ってきた真田がまったくお前らは、と溜息をつく。けらけらと笑い声がして、その後ろからひょこんと幸村が顔を出した。
「俺も赤也に貸しがあるよ」
「へ?」
「まだ俺に勝ってないだろ」笑う幸村に切原がにやりと返す。今からやりますか、楽しげに言う切原の前に立ちながら、やはり笑顔で幸村が応えた。
「いいよ?ただし、俺は真田のラケットを使うけど」
「え?」
「だってみんな来るって聞いてないもん!ラケット持ってこなかったよ!真田もちゃんと言ってよねッ」
「いや、こいつらを呼んだのは俺ではない」
「あ、ジャージも貸して。真田は今日体育あっただろ」
「……変わらんな」
「数ヶ月で変わるような性格してないからね。仁王は?着替えないの?」
「俺やらんもん。しんどいわ」
「なまっても知らないよー。変な運動ばっかしてるから疲れてるんだよ」さらりと爆弾発言を残し、幸村は真田の鞄からユニフォームを引っ張り出す。本気でそれを使う気らしい幸村に真田は溜息をつくだけだ。意味しーん、にやにや笑って覗き込んでくる切原の顔面を手で覆って仁王は彼を引き剥がした。――ひやりとしたのは丸井だけなのだろうか。幸村がどういう意味で言ったのか、追求すると墓穴を掘る気がする。先に出てるぜぃ、ジャッカルを捕まえて部室を出た。また仁王と目が合った気がしたのに、巧みに逃げられてよくわからない。
体に染み着いたアップをこなし、終わった頃に学校ジャージの真田とサイズの合わないジャージを着た幸村がコートに現れる。切原の爆笑に続いて丸井も吹き出した。ジャッカルはツボにはまったのか、地面に膝をついて悶絶している。
「すっげえ……見たことあるのになんでコートに立つだけでこんなに学校ジャージの真田が面白くなるんだ?」
「帽子被るからだろ」隣の真田を冷静に観察しながら幸村は袖を伸ばす。これが悔しいなあ、と余る袖を垂らして眉をひそめた。袖を折り上げて幸村はラケットを構える。軽く素振りをしてみて、ジャージの重さに舌打ちをした。
「幸村くんなんか可愛い」
「……彼ジャー的な?真田が彼氏とか気持ち悪いなあ」
「ならば返せ」
「やだよ、制服汚れる」ここまできてテニスをしない、という選択肢はない。参加する気のない仁王も帰るのは惜しくなったのか、ベンチに座ってコートを眺めていた。こっちを見ている気がするのに視線は合わなくて、なんだか妙に居心地が悪い。携帯の着信拒否について聞きたいが、今聞くわけにはいかないだろう。丸井が落ち着かないのがわかったのかジャッカルが顔を覗き込んできたが、すぐにごまかすつもりでラケットを振る。ジャッカルに当たりそうになって彼が飛び上がった。
「あぶねーな!」
「幸村くんに見とれてねえでやるぞ!」幸村に気を取られていたのは自分だ。一度仁王のジャージを着てみたことがあったが不評だった。自分でもいまいちだったと思う。どうせなら体のラインの出る服の方が好きだ。胸があればもっと可愛く着れるのにと何度思ったことか。――仁王との関係が終わりなら、スカートをはくことはもうないだろう。家に帰ったらすぐにスカートとブーツを捨てようと思う。ふと見た仁王のそばには後輩が近寄っていて、親しげに談笑している。丸井は名前を知らない。なんとなく、あれは一度ヤったな、と感じた。恋わずらいなんて段階は過ぎているようだ。丸井が心配することは何もない。
――夢を見ていたことにしよう。もう中学卒業も近い。進学すれば部活も更にハードなものになるだろう。レースやらシフォンやらにうつつを抜かしている時間はない。何よりも坂本を思うとそんなことができるわけもなかった。仁王は一度姿を消したが、部活が終わる頃にまた現れた。いつぞやのようにトランプでもしていたのだろう、巻き上げたらしい千円札を胸のポケットに隠しながら後輩が来るのを待っていた。からかうように尻尾をなびかせて歩き出す仁王のあとを、後輩が慌ててついていく。あの男は少しでも自分の彼氏だった時間がある。複雑にもなるが、そんなことを思いながらふたりを見ていた。
*
気持ちがいい。丸井とのセックスはしょせんオナニーだったのだと思い知った。気持ちがあるだけでこうも変わるものかと思うと笑える。まだ息の荒い後輩の頭を撫でてやると気づいてすり寄ってきた。
「――吉田、ええよ。つき合おうか」
「ほんとにっ!?」
「好きじゃなくてもセックスできる男じゃけどそれでいいなら」
「好きになってもらえるように頑張る」
「……うん」丸井の体と違ってかたい体を抱きしめる。甘い匂いもしない。変態とも言わないし痛いと大騒ぎもしない。従順すぎるなとも思う。引退してから時々切原との貸し借りで部活を訪れ、そのたびにベンチで暇を潰していたらいつからか寄ってくるようになった。仁王が見ればあまりにもわかりやすくて、以前の自分ならばうっとうしいだけだっただろう。テニスはうまいし話題も豊富。幸村系の綺麗な顔をして、こんな男にひっかかりさえしなければ可愛い彼女を作るのも簡単だろう。そわそわし始めたので時計を見る。
「帰るか?」
「……仁王先輩、明日も来ますか?」
「さあ……いや、いいよ。会いに行っちゃる」
「!」
「時間じゃろ、はよ帰りんしゃい」
「……もうちょっと。部活って言う」
「悪い奴じゃ」髪をかき乱しながらキスを送る。くすぐったさに笑いながらもそれを受けて、前髪を乱した彼は顔を上げてキスを返した。
「……仁王先輩、好き」
「……うん」可愛い奴だ。きっと好きになる。丸井を忘れられるとは思わないが。
「先輩、このまま高等部進むんですよね?」
「予定は」
「え〜!今になって変えないよね!?」
「さあのう。――お前のことも、騙してるだけかもしれんぞ」
「……いいもん。それでも今は、先輩のことしか考えられない」苦笑しながら体を起こし、彼に服を押しつける。そうか、気づかれないように溜息をついた。彼に心を許すのは、自分も同じ気持ちだからだ。――丸井のことしか考えていない。名残惜しそうな後輩を見送り、頭を抱えて嘆いた。どこで間違えたのだろう。欲しいものを今まで手に入れてきたのは、手に入るものしか欲しがらなかったからだ。坂本を恨むわけじゃない。それでも、彼女さえ出てこなければと思わざるを得なかった。いつ丸井を忘れられるだろう。どうやって忘れればいいのだろう。こんな思いをしたくないから、恋をしてこなかったのに。
――初恋だった。思い出したくもない。携帯を手にし、勢いだけで設定した丸井からの着信拒否を解除する。丸井は気づいただろうか。データを削除する勇気はない。――まだ期待すると言うのか。己に絶望して布団に潜り込む。最低だ。最悪の気分だ。携帯が光って体を起こせば切原からで、借りてた漫画何でしたっけ、なんて呑気な内容。日常的な話題にほっとする自分がいる。
もうキスマークを残すこともない肌を思い出して、体が熱くなった自分を殺したくなった。
*
無人の教室でひとり、卒業生で賑わう階下を眺める。――あっと言う間に卒業だ。輪の中に入れる気がしなくて抜けてきて、案の定仁王がいない、とジャッカルが言ったのを最後に誰も気にしなかったのを上から見ていた。雰囲気に流されて泣いているジャッカルの頭をばしばし叩きながら大笑いしているのは丸井だ。彼女を見つけ、ジャッカルを突き飛ばして駆け寄っている。
最後まで丸井から目を離せない。最後と言ってもこのまま高等部へ進学するのだから大した違いはない。またテニス三昧の日々が戻ってくるだけだ。他のことを考える間がないほど忙しければいいのに。欲しいという奇特な女子がいたので髪のゴムをあげてしまい、首元に髪が絡まる。ジャッカルにつられて泣き出した切原が幸村に爆笑されていた。相変わらず笑いのツボがわからない男だ。「仁王は?」
丸井の声に、思わず窓から離れて柱に隠れた。自分を呼んだ。探した。女々しすぎて嫌になる。セーターの袖で目を押さえた。――どうして無理やり引き留めなかったのだろう。脅すこともできた。関係を続けることもできた。こんなに辛いのなら。今更言ったってすべてが遅い。いつからこんなに気弱になってしまったのだろう。嫌われるのが怖いだなんて、思ったことがない。
「おいジャッカル、仁王探してこいよ」
「案外ひとりで泣いているのかもしれませんよ」
「ないない!どこ行ったんだろ。幸村くん知らない?」
「ほっとけば?可愛い子とお別れしてるんだよ」
「あー、そっか。妬けるなあ」
「ブン太そんなに仁王のこと好きだっけ?」
「知らなかった?俺仁王大好きよ!」――ああ!
どうして2階にしたのか、やることなすことすべて裏目に出る。横着せずにもっと上まで逃げればよかった。廊下に足音がして、少しだけ顔を上げてみると担任だった。元担任と言うのだろうか。仁王の姿に一瞬意外そうな顔をして、元気でな、と声をかけて行ってしまう。それどころじゃない。頼むから誰か、この涙を止めてほしい。袖が濡れていく。
もちろんそんな意味じゃないとわかってる。ひどいこともした自覚はあるが、嫌われていなかったつもりでいる。それでも、そんなことばが聞けるなんて思ってもいなかった。みっともない。かっこ悪い。静かに涙だけが流れる。仁王探してくる、聞こえてきた丸井の声を心の中で必死で拒絶する。丸井が中に入ったのを確認し、すれ違わないように注意しながら逆に校舎を飛び出した。何食わぬそぶりで近づいていき、まだ泣いているジャッカルの背後から頭を叩く。「丸井先輩すれ違い……って、仁王先輩泣いてる!?」
「仁王が!?」
「……お前ら失礼じゃの〜。さっき田中に会ったんじゃ。田中のくせにいい仕事しよって」
「ああ、先生に挨拶したときは俺もちょっと来たなあ」
「仁王の場合は田中先生も解放されて喜んでるだろうな」
「真田に言われとうないわ。お前迷惑はかけとらんが圧迫はかけとるぞ」幸村が笑い出して真田が顔を覆う。どうも幸村に笑われるのが弱いらしいこの男は、多分この先も変わらないのだろう。――それは自分も同じか。きっと一生、丸井を忘れない。こんな苦しい恋をしたことを忘れない。ポーカーフェイスを気取って面倒なことから逃げ出して、頭で考えた道を選んで生きていく。
「赤也、頑張ってね。来年待ってるよ」
「……幸村ぶちょお〜!」
「うわっ鼻水つくからやめて!」
「自分でムードぶちこわすなよ」幸村の切り替えの早さに苦笑して、ジャッカルが突き放された切原を撫でてやる。丸井だ、屋上を見上げて柳がつぶやきどきりとした。仁王が顔を上げたときには姿はない。切原に続くように他の後輩たちが幸村に泣きつきにきた。元部長の存在は偉大だ。元副部長の人気のなさが際立つ。もちろん慕っていた人間がいなかったわけではないが、性格的な問題だろう。
「仁王!」
「早かったな」予想と違ったのか、柳が少し悔しそうにこぼす。後ろから突撃され、よろけたふりで丸井から離れた。どこ行ってたんだよ、と明るく笑う、その顔を両手で掴まえる。隙を与えずに唇を奪った。押し当てるだけの色気のないキスをして、手を離すと丸井を含めて周りが静かになっている。久しぶりに丸井に触れた。正面から見据えた。丸井が俺だけを見ている。この一瞬を、胸に焼きつけておこうと、口を開くまで時間をかけた。もう二度と戻ってこない時間を。
「……俺のこと大好きなんじゃろ?」
「――ッ……どこで聞いてたんだよッ!この変態!」久しぶりにそれを聞いた。怒鳴り返す丸井から逃げて柳を盾にする。坂本と、集まってきていた部員の中に吉田も見えた。つき合いはまだ続いている。後でフォローしなくてはならない。うんと可愛がってやろう、丸井には聞かせなかった優しい声で。これでもかとばかりに甘やかして、どうせ泣くだろうからゆっくり抱いて。丸井が行けなくなったと恨めしげに仁王を睨みながら行った、ディズニーランドにでも連れて行ってもいい。東京以外になら連れて行こう。
卒業証書の入った筒で殴ろうとしてくる丸井から逃げて、今度は幸村を盾にする。俺も大好きだと言ってやろうと思っていたのに、泣きそうになってしまい言えなかった。
070916