石の上にも三年 1
「子どもができた」
「その程度の嘘で俺を騙せるとでも?」その瞬間絶望した。なるほど、絶望というのは自らのミスによってもたらされたものほど深く落ち込む。
――4月1日……どこのバカが、こんな日を作ったのだろう。とりあえず丸井にできたのは、勝ち誇った顔で笑う仁王をただ見ることだけだった。その話をするうちに、目の前の切原の顔がどんどん変わっていく。最終的に目を大きく開いてすっと息を吸った。
「バッカじゃねえの!?」
「だって頭ん中真っ白になっちまったんだよ!」
「ないない、マジありえない!もう言うチャンスないっすよ!絶対信じねー!」
「わかってんだよ!」
「バカだー!」
「うるせえ!」
「アイテッ」机の下で切原を蹴り飛ばす。自分でもそんなことはわかっているのだ。どうしてこいつしか相談相手がいないのか、大体バカなのは仁王の方じゃないのか、色々と考えながら頭を抱える。ジャッカルはブラジルへ行ってしまっているし、だからと言って他にこんなことを相談できるような相手は思いつかない。肝心の恋人は相変わらず楽しそうに、ふらふらと人生を謳歌している。
「いつ言うんすか」
「……わかってる」
「言えるんすか」
「言うよ!」それでもあの一言を言うのにどれほど勇気がいったことか。泣きそうになりながらじっとしていると、切原が溜息を吐く。
「その指輪。仁王先輩にもらったんすよね」
その言葉に反射的に手を隠す。――これはもう、中学の頃にもらったものだ。部活を引退して最上級に太っていた頃、もらったはいいが指に入らなかったというひどいオチ。それでも何年か前に取り出してみるとぴったりだったので使っている。先もわからない頃にもらったような安物だから、意味があってつけているわけではない。それでも外せなくなってしまった。
「丸井先輩、俺と結婚しよう」
「……は?」
「仁王先輩よりはよっぽどいい父親になるよ」
「な……なんて?」
「結婚、しませんか。食欲のないあんたなんて見てられないし」
「同情なんかすんなよ!」
「しないよ。あんたが気づかなかっただけ、俺はずっと好きだったのに」
「赤也……」
「なんか変な告白になっちまったな。仁王先輩にふられてからでいいよ。嫌な顔されたらさっさと切り捨てて、 俺と結婚しよう」
「……つうかお前、学生じゃん」指輪は、最近指から転がり落ちる。こんなときだというのに、体重が落ちたのは知っていた。
*
「お前痩せた?」
「引き締まったと言え!」久しぶりに会うジャッカルを叩いて笑い合う。次にきた幸村と抱き合って、俺とずいぶん態度が違うじゃねえかとまた笑った。OBでの集まる機会を企画したのは幸村だった。まだ学生の柳生や切原ならまだしも、すでに働いているはずの人間まで集まってしまったのは流石だ。
「赤也留年したんだって?」
「やー、ちょおっとだけ間に合わなかったんすよね、寝坊して」
「相変わらずだな」呆れるジャッカルがどうせ英語だろ、と言い出し、その通りなので全員で笑い飛ばした。仁王はまだ?誰かが丸井に聞く。まあ普通俺に聞くよな、心中で思いながら、少し遅れるらしいことを伝えた。
「丸井先輩いけます?」
「……いや、ちょい微妙」簡単な食事が出ているので少しずつ食べていたが、気分が悪くなってきた。いち早く気づいたのが切原で、ようやく先日の爆弾発言に納得する。人がいいだけのジャッカルや、体もあるからついてきているような仁王とは違う。
「……お前、それやめて」
「え?」
「揺らぐ」小さな声は聞き取れたのだろうか。切原は隣を陣取って、黙りはしたが動く気はなさそうだ。そうしているうちに仁王が着いたらしい。寝坊した、と言い訳をして真田に怒られている。変わらない。彼はいつも同じだ。手を下げて軽く振ると指輪は簡単に落ちてくる。
「……言ったんすか」
「まだ」
「知らないっすよ」
「……言えねえよ」
「じゃあ言うまで没収」
「あっ」丸井の手から指輪を奪い、切原はポケットに押し込んだ。どうしてだか、一瞬安心した自分に驚く。仁王に目を向けると先輩の連れてきた小さな子どもを難しい顔をして見ていた。わっと泣き出され、幸村があやすと静かになる。
――ダメだ。絶対に言えるわけがない。切原の視線を感じながら頭を抱える。仁王が子ども嫌いなのは自分の弟だけでわかっていた。それでもわずかに期待したのだ。自分の子ならばもしかして。「……それ、ちゃんと病院行ったんすよね」
「……行った」
「ひとりで行ったんすか」
「そう」
「呼んでくれれば一緒に行ったのに」
「……バカ」
「ブーンちゃん!」
「……久しぶり」
「いきなり嫌味か」仕事の関係で急に海外へ行っていた仁王と、こうして向き合うのは本当に久しぶりだ。あとでお土産渡すから一緒帰ろ、黙って頷くと切原が睨んだ。――仁王は切原の気持ちなどとっくに気づいていたのだろう。俺の気持ちにも気づいてくれればいいのに、と溜息を吐きそうになった。指輪をつけていた位置を思わず撫でる。
「ブンちゃん指輪どうしたん?いつもしてたやつ」
「……なくした」
「あらら、残念じゃの」
「……そんだけっすか?」切原の静かな声に仁王は首を傾げる。ああ、こいつはこういうやつだった。切原の怒りを感じながらも、不思議と丸井は落ち着いている。理由なんて今更わからないけれど、こんな男を確かに好きだ。もう恋だ愛だなんて思いは忘れたけれど。
「俺が代わりの買っちゃろか。もうすぐ誕生日じゃろ?」
「――赤也が買ってくれるからいい」
「えっ!」
「買ってくれるんだろ?」
「えっ嘘、まじっすか!?いいの!?俺学生っすよ!?」
「自分で言ったんだろうが」
「嘘、え、嘘?」
「早くしねえと気が変わるかもしんねえぞ」
「だって、え?」きょとんとしている仁王を見て、切原は丸井と見比べて手を取る。指輪をなくした手を。
「ほんとに結婚してくれんの!?」
「俺は誰かと違って嘘はつかねえ」
「何の話じゃ?結婚って」
「俺赤也と結婚する」
「な……なんでいきなり!」慌てた。その表情が少し意外で、丸井が首を傾げたくなる。エイプリルフールだからと言って、恋人のあんなセリフを真っ先に嘘だと判断したのはお前だろうが。
「何でって、お前とじゃ子どもなんて育てらんないだろ」
「子ども?」
「俺がエイプリルフールにお前を騙したことがあるかよ」
「ブン太」
「……ダメだ、赤也トイレ」
「あ、はいっ」手を借りてトイレに立つ。追いかけてこない仁王に呆れた。変わらないにもほどがある。もう何もわかっていなかった中学生じゃないと言うのに。
「悪い、変なこと言った」
「なんか軽いもん食べに行きましょーよ、肉とかじゃなくて、そばとかうどんとか」
「……お前そんなに気の利く奴だっけ?」
「成長したんすよ」
「ごめん」
「あ、幸村さーん、俺ら先帰ります」
「えー?」
「見たかった映画今日までだったんすよ!また今度絶対埋め合わせしますんで!行きましょ、丸井先輩」
「おう、ごめんな幸村くん」名残惜しむ声と分かれてふたりで抜け出す。仁王がどうしているかは知らない。嘘つき、隣の切原につぶやくと彼は笑った。
「仁王先輩よりはましでしょ?」
「はっ、そりゃそうだ」
「……先輩、さっきの話」
「……俺とお前で仁王の子ども育てるってぞっとしね?」
「確かに」遠まわしの返事にも切原は笑うだけだった。洒落になんねえな、自分にうんざりする。今夜仁王に連絡しようと決意した。同時に切原の成長にも驚いた。子どもだとばかり思っていたのに、仁王の方がよっぽど子どもに見える。
「丸井先輩、指輪買いに行きましょー。ごっついやつ、絶対丸井先輩に似合うっての前見つけたんすよ。多分親指のやつ、5000円ぐらいの」
「安ッ!」
「だから代わりにこっちはもらっていい?」ポケットを叩いて切原が顔を覗き込む。多分その指輪は2000円もしてないようなものだろう。すっかりくすんでしまったおもちゃの指輪。
「……ごめん、返して」
「……じゃあ言ったら返します」
「わかったよ。今夜仁王捕まえる。……捕まればな」
「捕まるっしょ。あの人今絶対あんたのことしか考えてないよ」
「今更だな」
「……俺にすればいいのに」
*
「ブン太!」
「……走ったの?珍しいじゃん」呼び出したファミレスで、仁王は着くなり前のソファーへ滑り込む。さっきまで桐原がそこにいた。スープをすすりながら仁王を見ると本当に息が切れていて、なんだか滑稽だ。丸井のことでここまで慌てた仁王を見たことがない。
「ブン太」
「子どもができてんだって。なのに体重減ってやべーだろって思うからさ、やっぱり言わなきゃじゃん」
「子どもって、お前?俺?」
「日本語整理してから喋ってくんない」
「……俺の子?」
「言うに事欠いてそれかよ。お前以外に生でヤらせるほど俺は安くないぜぃ」
「えっ」
「……別に他の誰ともヤってねえけど」思わず膨れっ面になる。仁王はそれどころではないらしく、なぜか立ち上がってまた座った。頭を抱えてうなったかと思うと再び席を立つ。丸井の腕を取って立たせ、まっすぐレジへ引っ張られた。この際だからと何も言わずに着いていく。――これからどうなるにしろ、話を続けるにはこんな場所はふさわしくない。忙しい時間帯らしくレジは無人で、いらいらした仁王はお札とレシートを置いて店を出る。
「……どこ行くんだよ」
「俺んち」手を引かれるままに歩く。こうして手をつないで歩くのは久しぶりかもしれない。最近はお互い忙しく、会えば抱き合ってばかりだった。普通にデートがしたい、とふと思う。――別れることになるのなら、その前に一度デートをしてもらおう。学生の頃にしたような、無茶で馬鹿なやつを。
道中仁王は黙り込んでいて、一度だけ歩みは早くないかと聞いただけだった。その表情にはまだ動揺が見えて、この男はなんと言うつもりなのだろう、と考える。おろせと言うのならひっぱたいて別れよう。丸井にはそれしか選べない。まだ遊びたい盛りの仁王を引き留めるつもりもない。大人びているくせに子どもっぽいという困った男だから、子どもなんて迷惑だろう。親になった姿も想像できない。(つーか、こいつのまいた種だけど……ゴム徹底させてなかった俺も悪いか)
一人暮らしの部屋の前について、仁王は鍵を探して焦り出す。バカじゃねえのこいつ、と何気なくドアノブに手をかけるとあっさり開いた。え、と間抜けな声を漏らした仁王をおいてさっさと中に入る。のどが渇いてきたので勝手知ったる他人の家、台所へ向かい冷蔵庫を開けた。せわしなく奥の部屋に向かう仁王を呆れて見送る。戸締まりのできない癖は相変わらずだ。大切なものだって平気でなくす。高校の頃だろうか、遠征先にラケットを忘れたことがあった。リビングのテーブルで鍵を見つける。
――切原のことも考えなくてはならない。いつから自分のことを見ていたのかまで聞いていないが、まだ学生で、おまけにプロを目指す相手に余計な確執を与えたくない。「ブン太」
「なんだよさっきから」
「なんでこんなことに……俺がまいた種じゃけんしゃーないけど」
「種って言うな」
「……手出して」
「何」何気なく出した手のひらに、冷たいものが落ちた。わずかに仁王の体温を移した銀のリング。じっとそれを見つめて喉を鳴らした。どうしたらいいのか、状況が飲み込めずに硬直していると仁王がうなり、頭をかきむしった後指輪を取り返した。左手を引いてそれを所定の位置におさめる。
「わかったか!」
「……へ?」
「……ほんまはブンちゃんがプーやったときに渡そうと思ったんじゃけど、すぐ就職決まったけんやめたんじゃ。楽しそうやったし」
「……」
「……なんか文句あるか」
「ちゃんと言え」
「……結婚して下さい」ふてくされた声。子どものようにすぐすねる。顔をしかめた仁王を見て、そんなプロポーズってあるか、と思いながら、左手をかざして指輪を見た。そこに初めて指輪をする。
「本気?」
「俺そんなに信用ない?」
「だってお前子ども嫌いだろ?」
「ブンの子なら別じゃろ」多分、と付け足したのは聞かなかったことにしてやる。バカやろうと一言投げると仁王が肩を震わせた。妙にびくびくしている。
「お前の子だ」
「……なおさら好きになれそうにないわ。生まれる前から俺の邪魔しおって」引き寄せられて久しぶりにキスをした。急に体の力が抜けてきてそのまますがりつく。安心したのだろうか。
「――捨てられると思った」
「誰が手放すと思ってんの。こんなに好きやのに」
「仁王」
「……ブン太、ひとつ」
「ん?」
「妊娠中のセックスっていつまでアリ?」
「……さあ」
「すごい」
「何が?」
「俺の奥さんじゃ」強く抱きしめられてそれに応える。考えなければならないことはたくさんあるのに、今は仁王のことしか考えられない。
「仁王」
「……ちょっと奥さん、それはないじゃろ」
「……お前の名前なんだっけ?」
「おい!」
「嘘、雅治」顔を上げてキスをねだる。表情を緩めた仁王の手が優しく頭を抱いて、そのお望み通りのキスが落とされた。軽く触れ合うだけのキスを繰り返し、熱い息を吐いて首にすがりつく。髪を乱すように自分を引き寄せる手がどうしようもなく愛しい。
「大好き」
「……あー、もう……いつ子どもに取られるんじゃろ」
「そんなこと言って、案外お前の方が子どもに好かれたりしてな」
「嫌じゃ、邪魔くさい」
「……お前虐待とかしないよな?」
「するぐらいなら生まさん」
「雅治」強く抱きしめる。――1日だけ、この指輪を借りてもいい?1日と言わず一晩だけで十分だ。ありがとうの気持ちを込めて精一杯のキスを贈る。明日には返すから、今夜だけ。自分勝手な俺を許さなくていいから。
こみ上げてきて耐えきれずこぼれた涙に笑いながら仁王に優しく抱きしめられて、どんなささいなことも忘れたくないと強く思った。幸せだったと言えるように。
070920