一寸の虫にも五分の魂
恋を歌う男はうるさい。それは人も虫も変わらない。蝉の鳴き声にうんざりしながら、まだまだ夏の様子の空を見上げた。空気を裂く大合唱。立海大の立地は一年中恨めしい。何よりこの心臓やぶりの坂が晴れだろうと雨だろうと生徒を憂鬱にさせる。サボろうかな……額の汗を拭って坂を見ると、歩く生徒の中に誰一人として元気のある人はいない。朝だというのにこの厳しい夏の日差しとお門違いの蝉の求愛に魂を抜かれている。
直に着たカッターシャツが背中に張り付く。家を出て15分と経っていないのにすでに汗だくだ。帰ろう、心の中で決意して、首に巻いたタオルを結び直す。こんな日はクーラーをかけた部屋の中でかき氷に限る。「ブン太!」
帰るのも面倒だと立ち尽くしていた丸井を呼んだのは、このクソ暑い中で更に体温を上昇させる人間で。反射的に振り返ればおはようさん!と突撃されて抱きつかれた。バカやろう、熱い。苦しさに押し返すと満面の笑みを浮かべた仁王がいる。弟を思い出す汗の匂い。このバカは学校が大好きだと言う。新学期が待ち遠しいと言い続けて、ようやく来た今日を喜んでいる。ああ、このバカやろう。なんでそんなに楽しそうなんだ。俺はこれから憂鬱な日々が始まるのに。
「元気だなお前……」
「先行ってるぜよ」笑顔を残し、仁王は軽快な足取りで坂を上っていく。今の一瞬で心臓を打ち抜かれた丸井のことになど気づかない。後ろ姿を見送って、心臓の辺りを掴んでその場にくたりとしゃがみこむ。うつむいて露わになった首筋を日差しが焼いた。
毎日恋をする。毎日同じ人を好きになる。毎日苦しくなって、毎日嬉しくなる。虫の一生のような、短い恋を繰り返す。――今日もやられた。出会って恋をして別れて帰り、部屋の中で自分を落ち着かせると思いは冷める。あるいは冷めたような気がしている。まだ朝だというのに、今日はもう好きになった。また1日、仁王のことを考えていなくてはならない。
(顔、熱い……)
追い打ちをかけるように蝉の声が大きくなる。それが止まない雨のようで頭を抱えた。学校に行きたくない。こんな暑い日にこんな坂を上って、暑い時間に部活もある。宿題も本当は全部終わっていない。行きたくないのに、行かなければ仁王に会えない。
(嫌すぎる……キモい……)
暑さとともに自分も溶けてしまえばいいのに。女々しい自分にうんざりする。仁王が笑わなければいいのに。誰にでも向けられるあの笑顔にどうしてこんなに心惹かれるのだろう。のろのろと顔を上げると周りに生徒の姿はない。他人を気にせず生きてる人間ばかりのなかで、蝉のように誰かを呼び続けられたら幸せだと思った。
仕方なく立ち上がって一歩二歩と坂を上っていく。この調子では教室にたどり着く前に始業式が始まるだろう。面倒くさいことこの上ない。これだから嫌なのだ。恋愛なんてろくなものじゃない。たったひとつのためだけに全てが狂う。この道が動く歩道になればいいのに、そうすれば帰りに転ける生徒も減るだろう。自分も何度転けたことか。赤也を追いかけていたり、急いでいたり、そう言えば仁王に見とれて転けたこともある。一生の恥だ。あの後丸井をバカにして笑った顔まで覚えている。そうだ。丸井が死ぬ前に是非、道を作り替えてもらわなくてはならない。このままでは仁王に心拍数を奪われて、すぐに死んでしまう。重い足取りで校舎に着いた頃には既に静かで、最後らしい集団が講堂へ飲み込まれたところだった。どうしようかなと迷ったのは一瞬、丸井はそのまま体を引きずるように教室へ向かう。校長の長い話など聞きたくもないし、サウナのような講堂にも行きたくない。学校へ来ただけほめてもらおう、誰にだかわからないがそう決めて階段に登る。上からの足音に何気なく顔を上げた。
「あれっ、丸井来たんじゃな」
「……な……に、してんだよお前」
「サボり以外の何に見える?」にこりと笑った仁王にくらくらして手すりを掴む。神様は意地悪だ!足が止まってしまった丸井のところまで降りてきて、仁王は丸井の頭を撫でる。それだけのことなのに、心臓が鷲掴みにされたかのようにキュッと痛い。
「嫌そうな顔してたからあのまま帰ると思っとったぜ。いい子いい子」
「……やめろよ」
「お前さんもサボりじゃろ?図書室行かんか、涼しいはずじゃけん」顔を覗き込まれてフリーズ。仁王と、ふたりきりで?毎日繰り返してきた恋に、かつてない刺激が迫っている。部室でふたりになったことはあったが、雑談をしている間に着替え終えた仁王は先に出て行った。ふたりの帰り道もあったが、途中でたくさんの邪魔が入った。ふたりで、サボりなんて――
「い……行く」
教室暑いからな、と付け足すと仁王は先に階段を降りた。意を決してついていく。どんな話をすればいいのだろう。変な態度をとってしまわないだろうか。リズミカルに階段を降りる仁王の後ろ髪が動きに併せて跳ねているのを眺める。
図書室は蝉の鳴き声が充満していた。なぜか窓が開いていてダイレクトに音が飛び込んでいて、おまけに仁王が予想していたほど涼しくはなかったらしい。体が熱い丸井にはわからないが、仁王はしかめっ面をした。それでも場所の変更はないらしい。窓を閉め、仁王はクーラーの当たる場所を選んで座る。その正面に丸井も腰を下ろすと、にやり、と笑われた。「式終わった頃に起こして」
「……最初からそのつもりか」
「シクヨロ!」ばっちりポーズまで決めて、仁王は腕を枕に顔を伏せた。しょうがない男だ。丸井の気持ちに気づいていそうなものだが、気づいているとしたら相当タチが悪い。すぐに眠ってしまったらしい仁王の元を離れて窓のそばに立つ。
止まない蝉の合唱を聴きながら、こんなに大きな声で愛を叫べるような恋ならどんなによかったかと泣きたくなった。好きだと伝えてこっちにこいと誘いそばにいてほしいと懇願するような、そんな恋。きっと言葉ができたとき、人間は虫に負けたのだ。愛を歌うなら虫が、愛を踊るなら鳥が、愛を奪うなら獣が。人間が使える一番有効な、言葉と言う武器が、丸井にはまだ使いこなせない。蝉のように鳴いてみようと思っても、流行りのラブソングなんかじゃとても伝えられるものじゃなかった。だから夜毎この気持ちをリセットするのに、どうして思いは消えないのだろう。窓の外を蝉が横切る。その姿を凛々しく思った。
「丸井」
「……何」
「好きな人とかおるん?」
「……は?」
「学校来るの、楽しそうやけ」振り返った先の仁王は顔を伏せたままだった。それは、今のは、どういう意味で。体が緊張したのを感じながら、お前はどうなんだよ、と返す。うわずった声がさっきの問いの返事のようで冷や冷やした。
仁王とこんな話をしたことはない。恋愛してる余裕なんてありません、なんてふりでテニスをしているから、部員とは他の誰ともあまり立ち入った話はしない。せいぜいあの子お前のこと好きなんじゃねえの、とフェンスの向こうを見て冷やかす程度で。そういえば夏の間頻繁に現れていた彼女は、みんなの推測通り仁王を見に来ていたのだろうか。夏の間はよかった。今はまだ、恋愛はテニスに勝てない。そっちに集中しているとよけいなことを考えなくてよかったのだ。――仁王から返事がない。まさか、「仁王?」
「……丸井のクラスの中野って、彼氏おるか知っとる?好きな人とか」蝉の鳴き声が大きくなった。視線を巡らすと、壁に蝉がすがりついている。窓が開いていた間に入っていたのだろう。もしくは入ってきたから開いていたのか。――聞こえなかったふりをして、蝉を捕まえて窓から逃がした。だから今日は来たくなかったんだ、後付けの理由をぼやいて、窓に寄りかかって外を眺める。差し込む日差しが腕を焼いた。少しずつクーラーの効きだした部屋の中だと言うのに、背中を汗が伝う。
「なあ丸井」
「式終わったみたいだぜ」窓から見える講堂のドアから生徒が出てきた。久しぶりに会う友人と盛り上がっている声がここまで聞こえてくる。俺先に戻るから、自分の声が思いがけず冷たくなって、慌てて仁王に笑いかけて図書室を出た。真剣な視線が目に焼き付いている。――ただのバカだと思っていた。教師に怒られるまで友達と騒ぐようなバカ。人の気持ちにも気づかないようなバカ。
ああ。息を吐いて気を落ち着ける。この長い一日、胸の苦しさを抱えながら仁王のことを考え続けるのだと思うとうんざりした。どうして好きになったのだろう。蝉の声が耳につく。どうするつもりもなかった。気持ちを伝えるなんてあり得ないと思っていたし、仁王に好きな人がいるなんてことも考えなかった。一進一退しないはずの恋だったのに。
きっと明日も仁王を好きになる。少しだけ落ち込んだら、また明日のために涙を封印しよう。(好きだ、なんて……)
虫になりたい。一生をかけて恋を歌う。一心不乱に命をかけて。
070921