灯台下暗し
「えっ!」
思いがけず大きな声が出てしまった。職員室で注目を集めた丸井は、それでもそれどころではなくただ目の前の仁王を見つめた。珍しく眼鏡をかけた姿は職員室と行う場所でなぜか浮いている。目つきの悪さが助長されているせいだろうか。 そばの教師が珍しそうに丸井と仁王を見比べている。仁王がテニス部、と端的に告げると納得したようだ。
「嘘」
「いや、流石にこんな嘘ついてもしゃーないし」
「え、マジで?」
「マジっす」
「……嘘」
「違うって」
「……あれ?だって、お前、……テニスは?」
「続けるよ」でももう満足。仁王の声に頭がくらくらした。どうしてこんな大事なことを、こいつは今まで黙っていたのだろう。――中3の夏、まさか転機が訪れるとは思ってもいなかった。仁王が、外部進学?
提出のために持ってきたノートを機械的に教師に渡し、挨拶もなく丸井はふらふらと職員室を出ていった。残された仁王は担任と顔を見合わせる。「だってな、言うタイミングがわからんのじゃ」
「まあ今年は今のところ外部行くのは少ないしな。お前みたいにわざわざレベルの低いところに行くやつは他にいないが」
「だって俺勉強嫌いぜよ。金もないしの」
「テニスのこと考えるともったいない気もするがな」とりあえずこれ課題な、渡された原稿用紙に、仁王は初めて顔をしかめた。
*
「仁王」
顔を上げると机の向こうに丸井が立っている。不機嫌かと思いきや表情には不安が浮かび、仁王は苦笑して隣を薦めた。素直に従った丸井が回り込んでくる間にシャーペンを手放し、眼鏡を外して目をこする。
「……作文?」
「おう。推薦で受けるからの、練習なんじゃと」
「お前、ほんとに立海には行かねえの?みんな行くのに?」
「うん」
「……何で言わねーんだよ」図書室は静かだった。周りに誰もおらず、司書からも死角になったその場所で、しかし丸井の声は小さい。手を取って、黙って唇にキスを落とすとごまかすな、と避けられる。
「……ブンちゃんうち見たらわかるじゃろ、うち俺が私立通ってるの不思議なぐらい金ないんじゃ。いや、俺のせいで金ないんか」
「……」
「柳がうちの近くじゃろ、俺は柳に会ってテニス始めたんじゃ。そうしたら柳が立海行くって言うからな、俺も行きたいってわがまま言ったんよ。あの頃はなーんも知らんガキじゃけん。俺が珍しくしつこいから、親が実家に頭下げて通わせてもらっとるんじゃ。うちの親一度は勘当されとるからの、知らんかったんじゃけど」
「……初めて聞いた」
「言わんじゃろこんな話。じーちゃんは大学まで行かせちゃるって言いよるけど、これ以上親に肩身狭い思いさすのもな。でも高校は出ろって聞かんから、公立受けようかと」
「……俺あんまよくわかんねーんだけど、私立と公立ってそんな違うの」
「違うな」
「……どこ行くんだよ」
「西高の、今んとこは工業の予定じゃな」
「工業ってうちにもあるじゃん」
「まあ、受からんかったらそこ行くってじじいに約束させられた。でも西高落ちたら恥じゃのう」
「……テニス」
「するって。わかるじゃろ?まあ立海でやるようなレベルとはいかんじゃろうが」逃れられるわけがない。あんなに自分を興奮させる、生き物のようなボールとラケット。今度は丸井は逃げなかった。キスをすると手を振り払われてその手が首に回る。丸井の手に応えるように抱き返して、優しく頭を撫でながら口づけを繰り返した。
「黙っとって悪かった。みんなにはまだ内緒な」
「……全国が、お前とする最後のテニスなんだな」
「そうじゃな」
「……やだ」
「ブン太」言い聞かすように名前を呼ばれ、仁王を乱暴に引き寄せて口を塞ぐ。唇の隙間から差し込んだ舌を絡めあい、仁王の手が頭を抱いた。大したことないと言い聞かせようと思うのに、どうしてだか無性に悲しい。涙だけは必死でこらえる。
「……ずっとそばにいると思った」
「……難しいな」どれほど大人びていても、結局自分たちはまだ中学生だった。自立しているわけでもなければ義務教育も終えていない。揺れた仁王の目を見ると枷が外れそうで、その首にすがりつく。興奮した声に名前を呼ばれて思わず掴む力が強くなった。離れた唇が首に落ちて、ネクタイが引かれたのを知りながら拒否しない。震えた体を強く抱き締められる。
「あ、仁王ッ……」
「……帰る?」
「イヤ、」
「こっち」腕を引かれて立ち上がる。図書室の隅、書庫のような場所らしい部屋の前で仁王はキーケースを取り出す。急くような手つきで鍵を開けて丸井を引っ張り込み、入るなり唇を奪った。閉めたドアに丸井を押しつけて、キスを繰り返しながら鍵をかける。
「仁王」
「自分で脱いで」ネクタイを捨てる仁王の目に余裕はない。ボタンを外すのをもどかしく思いながらもシャツの前を開けると仁王の唇が降った。図書室とは違いクーラーの届かない部屋で、一気に汗がふき出す。
「仁王」
胸に触れる髪のくすぐったさに身震いする。ベルトも外さずに制服の上から熱を持ち始めたものを掴まれ、急いでベルトに手をかけた。体に力が入らない。
「にお、待って」
「無理。こんな可愛いのに」
「誰のせいだよッ」
「俺のせいじゃけん、たまらんのじゃ」
「あっ、……待て、って!」ベルトを払ってファスナーを下ろす。すかさず仁王の手が下着の中に入ってきて、勢いだけでキスを交わして歯が当たった。このまま息ができなくなるんじゃないだろうか。快楽の海に溺れて胃が浸されて、もう助け出す人もない。
「濡れとる」
「ばかっ」
「変態」
「変態相手に腰振って、悦んでんのはどこの変態だよッ」
「俺」
「ばかやろっ……!」丸井を気遣う様子もなくただ獣のように荒々しい。欲情したこの男に欲情する。目の前の首筋にすがりついて舌を這わすと声を漏らした。そうしながらも簡単に衣服を払い、仁王の手は丸井をほとんど脱がしてしまう。荒い息を隠さずに自分を求めるこの男を、――手放すなんてことは考えたことがなかった。知らずにこぼれた涙はキスで壊れる。濡れた頬を舌が這い、余すところなく丸井に触れた手はまだ足りないとばかりに背中を撫でて双丘の間に落ち着く。触れているだけで動かないのに、浅ましい自分の体がそれを求めたのがわかった。仁王にも筒抜けに違いない。
「仁王ッ」
「可愛い……」お互いもっと大人ならよかったのに。意識のどこかで思うのに、大人ならばきっとこんなバカなことをしないのだろう。
*
「ぱんつがねえ……」
「あ、あったあった」
「ケツ痛い。頭痛い。あちこち痛い」
「ブンちゃんが急に盛るから何も準備なかったんじゃ」
「頭はお前のせいだろ!見ろ、こぶができてる」
「あらら」ぶつけたところを撫でる仁王は呑気だ。すっきりしやがって、毒づいても涼しい顔をしている。汗の引いた体に仕方なく制服を着直した。
「……つーか、お前なんでこんなとこの鍵持ってんの」
「拾った」
「嘘つけ」どうせ答える気はないのだろうからキスひとつで誤魔化してやる。離れて仁王を見つめ、思わず溜息をつく。
「落ちればいいのに」
「やめたげて」
「お前は平気なのかよ」
「ブンちゃんと離れて?」
「そう」
「まあ、毎日は会えなくなるな」
「……無理」
「可愛いこと言うのう。そんなに愛されてるとは思ってなかったぜよ」
「失礼なやつだな、俺の愛情を理解できねーのかよ」
「ちょっと難しいわ」笑って自分の肩を指差す仁王の手を叩く。思い切りつけた歯形には恨みを込めた。
「ブンちゃん」
眼鏡外したからよう見えん、顔を寄せてくる仁王の目をまっすぐ見る。照れると笑いながらキスをされて、――どうしてさっきから、こいつは笑えるのだろう。離れたらもうダメになる気がするのは自分だけなのだろうか。耐えられない、気がする。
「……なってみんとわからんじゃろ?春まではそばにおるし」
「その先は?ダメになったら別れるわけ?」
「うーん……うち弟もおるけん、あんまりわがままばかり言ってられんのじゃ」
「なんだよ」首にすがりついて離さない。勝手に大人になっていく。体が、周りが、世界が、心を置き去りにして。優しい手に泣きそうになる。こんなに悲しくなるなんて思ってなかった。
「ブンちゃん、今日は先帰って」
「……何で?」
「可愛すぎてたまらん。どこにいても襲いそうじゃ」
「変態!」
「ほんとやけん」丸井の髪を軽く引き、引き寄せるようにキスが降る。優しく触れるだけのそれに目を閉じて、はやる心臓を抑えた。――一瞬期待した、浅ましい自分を目の当たりにする。このままもう一度、ここで獣のように抱き合っても構わない。そう思うのに、わずかな理性が下校時間の音楽を聞き取った。ネクタイを結ばれて、その結び目に唇が落ちる。
「また明日」
「……お前、3年毎日やっててもネクタイ結ぶの下手だな」
「一言多い」笑い合い、ためらってから丸井は立ち上がる。座ったままの仁王に見上げられ、一瞬にして視界が緩んですぐに部屋を出た。仁王がそれに気づかなかったわけがない。丸井の背中を見送って、溜息をついて俯く。
「……なんでこうなるんじゃろ」
するのはいつも、後悔。嘘がうまくなっていく。丸井に続いて図書室へ戻り、鍵をかけて机に向かう。眼鏡をかけて、帰る支度をした。その動作は機械的。――丸井がここまで反応するとは思っていなかった。もちろん考えなかったわけじゃない。そばにいたいなんて、――まともな恋愛みたいじゃないか。
*
「丸井ー、サッカーしねえ?人数足んねーんだ」
「あー……悪ィ、帰るわ」友人と別れて隣のクラスへ向かう。クラスメイトと話していた仁王を見つけ、ためらっているとこっちに気づいた。優しい笑みを向けられたので、しっぽを振る犬の姿を自覚しながらそばへ寄る。最近部活のない日は仁王はコンタクトをせずに来るので今日も眼鏡だった。ようやく見慣れてきたが、時々別人のような表情に見える。
「帰ろ」
「うん、ちょい待って」どうやら数学を教えていたところらしい。説明しながらノートにペンを走らせ、友人の顔をのぞき込んで確認する。丸井はさっぱりわからないが彼は理解したようで、頷きながらそれを聞いていた。
「わかった。ありがと、やっぱ数学は仁王だな。お前数学教師になれよ」
「絶対イヤ。俺子ども嫌いなんじゃ」
「はは、また頼むぜ」
「次は高いぜよ。よし、ブンちゃん帰ろっか。どっか寄ってく?」
「ん〜、どうすっかなあ……」支度をして立ち上がった仁王をちらりと見上げる。視線の意味に気づいた仁王は、それでもにやりと笑うだけだ。わかってるくせに、
「……仁王」
「あ、今日飯当番じゃった」
「……」
「食ってく?手伝ってくれるなら」
「……しょうがねえなあ」最近ふたりの関係が少し変わった。他の誰にも気づかれない程度に、少しだけ。仁王が優しくなって、丸井が大人しくなった。今まで通りでいたいと思うのに、仁王の優しさに泣きそうになる。まだ先の話だと思っても1日が短い。
「何すんの、晩飯」
「肉」
「アバウトだな〜」
「ブンちゃん何作ってくれんの?」
「俺かよ」
「俺ブンちゃんのご飯好き」
「ご飯?」
「……ブンちゃんが」ぷっと吹き出して仁王が歩き出す。その後ろを不満げに追いかけた。家で多少やるので簡単な料理はできるが、そう披露する機会があるわけじゃない。ほめられるようなレベルでもないと思うのだが、仁王の母親が苦手にしていることは先日わかった。言っては何だが自分が作ってやった方がましだ、と思う。
「……じゃあハンバーグしようぜ」
「そんなめんどくさいのすんの?」
「カレーこないだしたじゃん」
「ブンちゃん他何作れんの?」
「俺に期待すんな!俺の基本は創作料理なんだよ。火ィ通しゃ大抵のもんは食えるんだから」
「男らしいのう……」
「家になんかねーの?」
「ワンタン」
「……とりあえず、買い物行こうぜ」
「うん」嬉しそうに顔を寄せてきて、額が一度頭に当たる。身構えた丸井を笑うように離れていった仁王は意地悪だ。――料理ぐらいで喜んでくれるからいつだって作ってやる。弱くなっている自分を感じる。
「……お前嫌いなもの多すぎてめんどくさいんだよな」
「俺がプロポーズするまでに覚えてな」
「バカ!」尻を蹴ってやって先を行く。未来の話は今悲しくなるだけだ。どうしてこんなに不安なのか自分でもわからない。仁王が離れたからと言って丸井を忘れると限ったわけではないのに。
「泣かんといて」
「……泣かねえよ」家に夕食はいらないと連絡し、ふたりで買い物に行き、人のうちの台所に立つ。初めにあった抵抗も今はなくなってしまった。もう何度この場所に立っただろう。
「チーズ何に使うん?」
「乗せる」
「ふーん?」
「嫌いか?」
「いや。ブンちゃんちのご飯って面白い」ふたりで並んで玉ねぎを切る。ふと見たお互いの目に涙がにじんでいて笑った。ただいまの声に涙を拭い、お帰りなさい、と迎えるのは仁王の母親。
「あ、丸井くんいらっしゃい」
「お邪魔してます」
「またブン太くんのご飯だ。ごめんね〜?この子わがままで」
「育てたんお前じゃー」
「でもブン太くんのご飯あたしも好き。あたしもブン太くんぐらい料理できたらよかったんだけどねー」
「料理だけじゃのうて掃除もできんぜよ」
「お母様に向かって生意気ね。あたし今日はまだ仕事だから、今日中には帰る」
「飯は?」
「ブン太くんご飯なら食べるから残しといて」
「なんか腹立つのう……」バイバイ、と手を降る彼女に同じように降り返す。仁王は玉ねぎをフライパンに落としながら行ってらっしゃい、と声だけで見送った。
「あれ、今お母さんいなかった?」
「もう行ったわい」
「あーあ」入れ替わるように顔を覗かせたのは仁王の姉で、丸井を見つけて笑顔になった。材料を見てメニューを言い当てて仁王の手元をのぞき込み、口を挟んで嫌な顔をされている。
「そうだ、またおじいちゃんから電話あったよ」
「しつこいのう……」
「金出してくれるって言ってんだから行けばいいのに。おじいちゃん娘が行けなかったから孫に立海行ってほしいんだよ」
「余計嫌じゃ」
「ブン太くんも寂しくない?」
「あ、」仁王家では彼女だけがふたりのことを知っている。なんと言えばいいのかわからず、手を動かしながら誤魔化した。卵を割ってなぜか拍手が送られる。
「だって不安にならない?こいつ前の彼女とだって遠恋になって別れてるのにさ」
「あっバカ!」うろたえた仁王をさっと見て、こっちを向いたその表情に不安の理由がわかってとっさに台所を飛び出す。荷物を掴んで挨拶もなしに家を出て、全速力で逃げ出した。――以前噂でそう聞いたことがあったのに、どうして忘れていたのだろう。離れるわけがないと、無条件に思っていた自分を恨む。今こんなに悲しいのはそのせいだ。
「ブン太!」
「離せ!」追いかけてきた仁王の手を振り払い、勢いで鞄が落ちる。息を弾ませた仁王を俯いたままそっと見上げれば、怒ったような表情をしている。怒りたいのはこっちなのに、
「ブン太」
「やだ」
「ブン太」
「立海行けるなら行けばいいじゃんか、甘えてりゃいいじゃん、……なんで俺から離れようなんて思うんだよ」
「違う。確かに形はそうじゃけど、ブン太から離れようなんて思っとらん。毎日会いに来いってんならそうしちゃる」
「そんなの欲しくねえ。俺が欲しいのはお前なんだよ!」
「……ブン太にはわからん」
「仁王」
「俺はあのじじいにこれ以上借りを作りたくないんじゃ……」はっと顔を上げると仁王が顔を覆っている。そっと近づいて手に触れると丸井を見た。泣いてはいないが眉を寄せて、見たことのない悲痛な表情をしている。
「俺はこれだけは譲れん」
「……わかったよ」わかってるよ、泣きそうな丸井が荷物を拾い上げて立ち去るのを黙って見送る。見たことのない後ろ姿だ。追いかけようか迷って、結局家へ戻る。台所では姉が続きを作っていた。青春ね、と冷やかされても返す気にならない。
「ね、チーズって何に使うの?」
「……乗せる?」生まれてすぐに死にかけた。幼い頃海で死にかけた。物心ついた頃交通事故で死にかけた。丸井には何もわからない。親が周りに何と言われてきたか。自分がどう評価されてきたか。恋をする資格がないと、柳生は言う。どういう意味なのか未だによくわからない。一生懸命恋をしているはずなのに、大切にしているのに傷つけてばかりになる。口論はしても殴り合ったことはないし、いつだって問題があれば真剣に向き合った。どうして柳生なんかに資格がないなどと言われなくてはならないのだろう。
「……あんたは遠恋で切れてもしょうがないよ。小さいときしばらく会わなかったお父さんが帰ってきたとき怯えてたもん」
「フォローは?」
「青少年は勝手に傷ついてなさい。相手してたらキリないわ」
*
「丸井さん?」
振り返ると立っていたのは仁王の弟だった。あまり仁王と仲がよくないらしく、家に行ったときもほとんど顔を合わせないので声をかけられたことは意外だった。
「――丸井さんは、プロを目指してるんですか?」
「え?」
「テニスの」
「……まだわかんねえ」
「……優雅ですね。うちのバカと一緒か」
「は?」
「本気じゃねえくせに金かけてテニスやってさ。親がどんな思いだと思ってんだよ」
「……どういう意味だ」
「丸井さんにはわからないよ」
「さっきお前の兄貴にも同じこと言われた。どういう意味なんだよ」
「……あのバカはうちの中じゃお姫様なんだよ」
「は?」憎々しげに吐き捨てた彼は丸井を睨む。その鋭い目は仁王とは似ていない。どちらかと言えば母親に似ていた。尤も、こんな表情の彼女は見たことがない。丸井と会ったときはいつもにこやかな笑顔を向けてくれる。
「昔のことは俺は詳しく知らないけどさ、うちのじいさんはとにかく雅治贔屓なわけ。幼稚園ぐらいのとき雅治が勝手に車の前飛び出して事故ったとき、任せてられないっつっていっぺん実家に引っ張られてんの。そのままあっちにいりゃいいのに抜け出して警察呼ぶ騒ぎになってさ、そんなんも全部お前の教育が悪いって母さんが責められるしさ。あいつなんか帰ってこなきゃよかったのに」
「……ほんとか?」
「嘘ついてどうすんだよ!高校は立海行かないって聞いて俺は心底嬉しかったね、あいつが外行きゃクソジジィが出てきてあいつは分家に間借りだ。母さんに会う時間なんかねえよ」
「……」
「……雅治とどういう関係か知らないけどさ、あいつは甘いよ。母さんもジジィもあいつを甘やかしてきたんだから」
「余計なことを」声の方を見ると一度いなくなったはずの仁王が立っている。乱れた息をそのままに近づいてきて丸井の手を取り、弟を振り返った。
「はよ帰りんしゃい」
「……食事当番雅治じゃねえの」
「代わった」
「……あっそ」ぷいと行ってしまった弟を見送り、仁王は深く息を吐いて丸井を見る。まともに見返せなくてうつむいてしまった丸井の手を引いて仁王は歩きだした。どこへ行くのかわからないまま着いていく。
「……俺だけ方言喋ってるじゃろ。これでもこっち来てからましになった方なんじゃけどな」
「仁王」
「あんまりよう知らんのじゃけどジジィんちは結構立派な家でな、未だに男が継がなあかんのじゃと。それが俺しかおらんらしいわ」つないだ手に力がこもる。足下が暗くなってきたのが心許なく、丸井も握って返した。結局自分たちが無力であるということなのだろうか。
「ずっと、言おうとは思っとったんじゃけどな。早く言った方がいいのはわかっとったし」
「におう」
「……ブン太、俺な、」
「聞きたくない」
「ブン太」
「聞きたくない!俺から離れていくつもりなんだろ!?変に優しくしやがって、ふざけんなよ……」
「ブン太、泣かんで」誰が、と思ったが実際頬を涙が流れ、慌ててそれを拭う。様子を伺いながら歩き続ける仁王に手を引かれるままに歩きはするが、この手が離れる瞬間に怯えているだけだった。
「もっと子どもだったら、面倒なことに構わんと逃げるんじゃけどな」
それは多分、さよならと同義だったのだ。好きだと囁いた唇から、いつでも見つめてきた瞳の訴えを伴って。強引に手元に引き留めておけるぐらい大人だったらよかったのに。あくまで優しい笑顔を傾ける仁王を見ながらただ泣いた。どうして一度たりとも別れを考えたことがなかったのだろう。後になって、幸せだったんだね、と幸村がことばにした。
*
「受かったぜよ」
「え〜っマジすか?ショック、初詣のとき仁王先輩が落ちますようにって願ったのに」
「……こら、赤也」
「だってジャンプ貸してくれる人がいなくなるじゃないっすか」
「自分で買え。もっと感動させるようなこと言いんしゃい」柳生にも失礼ですよ、とたしなめられている赤也から離れ、仁王は丸井のそばへ寄ってくる。合格の字が踊る、そっけない紙を見せられて仁王を見上げた。笑っているので笑い返す。
「これで解放じゃ。思う存分ブン太といちゃつける」
「大して変わらないだろ、お前たちどこでもいちゃついてた癖に。おめでとう」
「どうも」丸井の手から通知を抜いて、幸村がそれを眺める。ちらりと仁王を見て溜息をついた。
「何」
「別に。……戦力が減るなあと思ったんだけど、誰かさん負けてるしいっか」
「わざわざ傷口えぐるな」
「俺もあそこにいたかった、と一生後悔するような試合をしてやるから覚悟しててよ」
「……怖いねえ」
「俺の下から抜けるんだからそれなりの覚悟はしてもらわないとね。さっ、合格祝いに試合しよっか!」
「はっ!?」
「ここから出たかったら俺を倒してみな」悪役ぶって幸村が笑い、ふたり分のラケットと仁王を引きずって部室を出ていく。赤也が見逃してたまるかとばかりに続いて飛び出した。そうかと思えば幸村が戻ってきて顔を出す。
「ブン太、審判しない?」
春休みはもうすぐだ。笑顔の幸村にどう反応したらいいのか迷ったが、後で行く、とだけ答える。肯定でも否定でもない返事にそう、と微笑みを残してドアは閉じられた。
「柳、予測しろよ。仁王が勝てる確率」
「……22%、といったところか」
「微妙!」立ち上がって背筋を伸ばす。赤也のばか笑いが聞こえてきて、その明るさに誘われた。外へ出ようか。この狭い、部室を出て。
「丸井、お前背が伸びたんじゃないか?」
柳を振り返ると笑っている。恋愛相談をできる気はしない。
「俺も大人になるんだよ」
071202