飴と鞭 2
「……ブン太、髪は乾かしておいで」
幸村の呆れた顔なんて久しぶりに見た、なんとなく珍しいものを見た気がして思わずぼんやりしてしまう。時間があると思いさっとシャワーだけ浴びたが、乾かす時間まで考えていなかったのだ。もちろんシチューの続きを作る時間などないから、仁王の出方によっては早めに抜けて戻ってやってもいい。今のところ連絡はなしだ。
「一応乾かしたんだけど。あっ、ジャッカルそのニット貸せよ!」
「なっ……俺だって頭さみぃんだよ!」
「俺が風邪引いたらどうすんだよ」
「……俺が風邪引いたらどうすんだよ」
「そん時に謝る」
「……」
「仁王先輩マジでこないんすか?」
「こないんじゃねーの?それより幸村くん、マジで真田呼んだの?」
「うん」
「彼女も?」
「うん。迎えに行かせた」
「えげつなー!」切原があっさり笑い飛ばす。真田が否定し続けている片思いの彼女が女子テニス部であったため、幸村が一緒に誘いをかけた。元々交流はあったので難しい話ではなかったが、いつも仲介をするのは幸村か柳生だ。向こうも真田が来るとは思いもよらないだろう。
「さっ、ブン太も来たし行こうか」
「副部長たちは?」
「現地集合」
「ぎゃっ!幸村くん鬼畜!」
「もっと誉めてよ」人の恋愛を笑い飛ばし、一行……とは言え幸村、丸井、ジャッカルに切原の4人は電車に乗り込む。途中で真田からかかってきた電話に、もう電車乗っちゃった、と笑う幸村に恐怖し、真田に同情する。現地集合とはさっき幸村が決めたらしい。一応柳生と柳も一緒にいるはずだが、もちろん彼らも幸村サイドの人間だ。
「大体さ、ほっといて真田の恋愛が進むと思う?」
「わかんねえだろ、向こうが真田が好きだったらさ」
「えー、ないない。ジャッカルは甘いよ」
「……そうか」
「それって、けっこー脈アリなんすか?」
「前に幸村くんと見たときは、嫌そうな感じではなかったぜぃ」
「なんか真田副部長に先に彼女つくられんのやだなー」
「ま、つきあえるならね」
「幸村は真田に恨みでもあんのか」
「面白いだけ。ところでブン太はどうなの」
「何が?」
「仁王。今日誕生日じゃない?」
「あー、さあ。一応祝ってやったからもういいんじゃね?」
「……俺、男とつきあうことになっても幸村部長と丸井先輩はゴメンっす」
「俺も」
「何でよー」ぷんぷん、と擬音を足したくなるようなかわいらしい様子の幸村だが、その腹の内が真っ黒だということはわかっている。実際ついでに隣のジャッカルの臑を蹴り飛ばした。切原が一歩引く。その切原に文句を言いかけた幸村が動きを止め、携帯を取り出した。下車駅に着いたところだったので、着信に出ながら電車を降りる。
「もしもし?何で俺なの?うん……ブン太、仁王が返してって言ってる」
「は?」
「ブン太を返せって」
「電車代出すか聞いて」
「電車代出す?往復。……いくらでも出すって」
「じゃあ帰ろうかな」
「鬼!」
「だってもう着いたんだぜ。……あ、ちょっとぐらい見て帰るけど」
「ひっでーの。仁王先輩かわいそー、誕生日なのに」
「いいんだよ、あいつがイベントに興味ねえのは俺の誕生日のときにわかってんだ。あいつは甘えてるだけなの。あ、真田と合流したら帰るって言っといて!」
「みんなそろったら帰るってさ。じゃあね」あっさり通話を切ってしまった幸村だが、隣にいたジャッカルにはまだ向こうが喋りかけていたのが聞こえてしまった。つくづく敵に回したくない男だと思う。そうこうしているうちに真田たちが追いついた。中学生には見えない男子中学生3人と可愛らしい女子中学生5人のグループが異様で、真っ先に幸村が吹き出す。まさか狙ってのチョイスではなかろうかと疑ってしまう。
「ゆ……幸村、よけいなことはしないでくれ!」
「何が?好きなわけじゃないんでしょ、関係ないじゃん。家が近い人に迎えに行ってもらっただけだもん。あ、 ごめんね、エスコートがむさ苦しいのばっかりになっちゃって」テニス部のきれいどころとでかけることもあり、女子にも気合いが見られる。真田って結構面食いなんじゃねーのかな、何気なく彼女を見ていると目が合った。
「……丸井くんこんばんは」
「こんばんは。かわいーな」
「え?」
「マフラーきれいな色じゃん。似合ってる」
「あっ、ありがとう……あの」
「あ、待って」ポケットで携帯が震えて舌打ちをする。ああやるんだよ、と真田を叩いて幸村が指さしてくるのを横目で見ながら携帯を引き抜くと仁王からだ。面倒くさい男に惚れたのは自分だが、心底うんざりする。それには出ずに幸村を振り返った。
「ごめん幸村くん、帰るわ」
「そう?近くまで行かない?」
「いいや」
「そう、気をつけてね。行こっか」手を振ってくる切原に振り替えして見送りをする。真田の観察ができないのは残念だが、それは柳に任せることにしよう。
「丸井くん行かないの?」
「ん?急用」
「……丸井くん行かないなら帰ろうかな」
「え、」
「……丸井くん、つきあってる人、いる?」思わず後ろ姿を追えば、頼りの柳や幸村は気づいていない。女子だけが残された二人を気にしている。やべー誉めちゃった。口が回るのは長所で短所だ。どうする?一度切れた着信が再び鳴り始めた。気づいた彼女が謝り、出ていいよ、と促す。ピンクのブーツを履いた足が動く気配はない。とにかくうるさい着信はまた仁王からで、彼女を気にしながらもボタンを押した。
「はい、何。……は?いや、まだ東京だけど……マジで?」
「マジで」ひょい、と携帯を引き抜かれ、焦って顔を上げると仁王が立っている。ダウンジャケットに学校指定のマフラーで、防寒目的のニット帽。微妙にダセェ、が第一印象。
「ブンちゃん?」
「……ほんとに出てきたわけ?」
「だってブンちゃん戻ってきても文句言いそうじゃろ」
「仁王くんも来たんだね」声をかけられて仁王が初めて彼女に気づいたらしい。ついでに他に誰もいないことにも。辺りを見回して、ようやく幸村たちを見つけた。いつの間にかこっちの状況に気づいて、男子から見れば修羅場、女子から見れば仁王はただの空気が読めない男だ。
「あー、お邪魔?」
「や、なんつーか」
「じゃ」丸井に携帯を返し、仁王が歩き出した。思わず袖を掴んで引き留めたがあっさり払われ、マフラーからはみ出たしっぽを揺らして後ろ姿は幸村たちの輪に加わる。女子がにわかに色めき立った。それは、俺のだ。自分が不機嫌になったのがわかる。触るな。見るな。丸井の目つきが変わったのに気づいて、彼女がのぞき込んでくる。
「……俺つきあってる奴いるから」
「あ、そうなんだ……」
「悪ィ、帰るな。楽しんでこいよ」じゃあな、と別れ、そのまま駅へ戻った。切符を買ってホームへ向かう間も、いらいらしてしかめっ面になる。仁王のああいう態度が気に入らない。恋愛に関して上から見るような、大人だとアピールするような、わかりきっていると言わんばかりのあの態度。丸井がいないと生きていけないなんて言ったのはどこの誰だったのだろう。腹が立つ。――出てきてくれたことを喜ぶ間もなかった。出不精な上にこの季節、仁王と遊びに出るなど不可能だと思っていた。うまく引っ張り出せたらふたりで抜けようなどと考えていた自分が哀れになる。彼女の気持ちに気づいていて黙っていたのなら柳を恨むばかりだ。
仁王からの連絡はない。追いかけてもこない。彼女に悪いことをした。きっとひどい顔をしていただろう。電車が滑り込んできて階段を振り返る。仁王が追ってきたら、なんて、女々しいことを。自分に嫌になりながら、立ち尽くして電車を見逃した。気持ちが整理できない。仁王が追いかけて来れば早いのに。乾ききっていない髪が冷たい。本当に風邪をひいてもおかしくないだろう。足元から体が冷えていく。いっそ風邪をひけばいいのだ。
まだ先の話ではあれど、クリスマス気分のカップルが目につく。落ち着いてくるとこんなことで怒っているのがばからしくなってきた。ついでに腹も減ってくる。さっさと地元に帰ってファーストフードなりファミレスなりに飛び込もう。そう言えば仁王に買ったケーキを食べ損ねた。
電車が入ってくるのを見て迷う。追いかければ追いつくだろうが、仁王に女が絡むのを見たくない。こんなときばかり仁王が好きだと実感する。欲しくてしょうがなくなる。携帯を覗いても着信はなくて、仁王に電話をかけるがつながらない。気づかないのか、出ないだけか。留守電につながったので口を開く。「戻ってこないとお前んちの前で凍死してるからな」
くしゃみをして携帯をポケットに押し込み、一本だけ逃して次の電車に乗る。携帯にダウンロードしてあるゲームで時間を潰して地元に着いた。仁王から折り返しがない代わりに、幸村から興味津々といったメールが来ている。苦笑しつつも返事は保留にした。幸村も不思議な人だと思う。前から自由ではあったが、退院してからいっそう自由になったように見える。隠していた仁王とのつきあいも、ばれたのが幸村でなければどうなっていたかわからない。彼はすぐさま笑い飛ばし、仁王相手ではあったから事実かどうかを入念に確認し、俺ホモって初めて見たな、とやっぱり笑った。
真田の恋愛はどうなるのだろう。丸井が好きなのだとしたら、期待は薄い。仁王が感じているほどではないだろうがぞくぞくと鳥肌の立つ寒さで、目についたファミレスに飛び込んだ。手っとり早くスープバーだけ先に頼んでゆっくりメニューをめくる。その間に何度も携帯を開くが、やっぱり連絡はない。
(何だよ!)
遅れてきた仁王が主役になっているのが目に見えるようだ。自分が好かれている自信はあるが、仁王はああいう態度で遊ぶのを楽しむ。女子も楽しく会話ができることだろう。会話でごまかして見極めて、嫌な男だと思う。自分も仁王も嫌なところばかり似ている。ちやほやされるのも会話を遊ぶのも、相手にするには腹が立つばかりだ。面倒なことになってきた。
夏も暑いから嫌、とほとんど出かけなかった。そもそも泳げないという仁王は浮き輪持参で十分遊べるレジャープールに誘っても出てこなかった。夏はテニス以外ではクーラーのかかった部屋でアイスを食べていた仁王ぐらいしか思い出せない。常に日陰にいた気がする。健康的に日焼けした丸井と並ぶと色の差が目立ち、仁王は俺と一緒に入院でもしてたのかい、と幸村に言わせたほどだった。こんなに遊べない男とつきあっているのはつまらない。仁王でなければ、――仁王を、好きなのは自分だ。ちょうど一年前ぐらいだろうか、幸村が倒れたのは。あの時どれほど支えられたかわからない。セットを頼んで暖かいスープを喉に流し込む。テーブルに置いた携帯が振動した。仁王からの着信。少しためらって出方を考え、留守番に切り替わる前に手を伸ばす。
「もしもーし」
『どこ!』
「駅前のーファミレスー」舌打ちが聞こえたと思えばすぐに発信は途切れた。来ると考えていいのだろう。仁王より早く頼んだ牛すきのセットが運ばれてきて、いただきますと手を合わせる。なんて言ってやろう。どういう態度に出よう。考えながらも食べる方に偏った思考がデザートを考え始めた頃、目の前の椅子に仁王がどっかり腰を落とした。マフラーもニットも捨てて、ぐったりした様子でダウンジャケットを脱ぐ。黙って水を差し出してやると一気に飲み干した。いい気味だ。
「何の真似じゃ」
「そりゃこっちのセリフ。かわいい女の子の方がかわいくお誕生日おめでとう!って言ってくれるんじゃねーの?」
「いらん。ブン太がいい」
「あっそ」
「誕生日もケーキも冬もいらん」
「俺は誕生日もケーキも冬の夜景も、ついでに仁王も欲しい。全部いっぺんに手に入れられるのなんか、お前の誕生日だけだと思わねえ?」
「……かなわん」額の汗を拭い、パーカーも脱いで仁王は水を注ぎに行く。肉を口に運びながらメニューを眺めるが、仁王家の冷蔵庫にあるケーキが気になった。30分悩み、どうにか3つに絞ったのだ。ふたつ、と決めたルールをあっさりと決壊させたほど魅力的なあれらは、『お早めにお召し上がり下さい』のシールのついた、デリケートなものたちで。
戻ってきた仁王を見る。諦めたような表情。やっぱりふたりで夜景を見たかった。人混みの中で、暗い中で、そんな仁王が見たい。いつもと違う仁王が見たい。丸井は仁王のように日常に刺激を生み出すことよりも、刺激を探して動く方が好きだ。「学校行ってさ」
「は?」
「久保田さんちの庭見てさ、帰ろうぜ」
「……ブン太、ここおごっちゃるから、ひとつ、プレゼントに欲しいもんがあるんじゃけど」
「何」
「コンドーム」
「……しょうがねえやつだな」
「もちろんそれはおまけで、じゃ」
「わかってる。水風船で遊びたいんだろ?仁王はガキだなあ。俺がちゃんと作ってやるからな」
「まっ、ブンちゃんたら食事中にお下品!」
「テメーが言うな」ご飯を口に押し込んで、今更恥ずかしくなってゆっくり噛みしめる。お前はなんも食わねえの、と聞くとしかめっ面をした。
「はよ食って。俺は帰ってブンちゃんとケーキ食べるんじゃから」
「おー。選ばせてやるよ」
「何でもええよ。ブン太が満足で、俺も満足させてもらえるなら」
「仁王」
「なん」
「大好きって言ってやろうか?」
「……あとでゆっくり聞くわ」添え物の漬け物をつまむ仁王に笑いかけた。照れた様子は見えないが、少なからず動揺させた自信はある。
あと何年一緒にいるのだろう。もしかしたら次の冬には隣に別の人間がいるのかもしれない。どうなるかわからなかった付き合いが1年も続いていること自体、丸井にとっては驚きだ。これから冬を越えて春になり、丸井の誕生日の頃にはまたこうしてすれ違うのだろう。今回はこの程度だが、その時のお互いの機嫌次第だ。事実、夏に揉めたときはお互い別れる気になっていた。
意識してゆっくり肉を咀嚼しながら、毛先を弄ぶ仁王を見る。乱暴にニット帽を脱いだせいで髪が乱れているが、なんとなく言ってやる気になれない。かっこつけて澄まして詐欺師を気取る、そんな仁王も、丸井のために全力疾走してくるような仁王も、全部俺のものだ。今は。今は、それでいい。「……何にやにやしとん」
「俺って優しいよなあと思って!」
071209