女心と秋の空
「降っちゃったな」
「そうやのう」部室のドアを開けてみて、仁王は空を仰ぐ。曇天だ。ひさしから雨が落ちてきた。丸井は窓から外を見て、コートが雨に打たれるのを眺めている。それを振り返って、丸井に帰る気がなさそうなのでドアを閉めた。
柳生の置き傘があることを知っていたが、それは丸井も知っているはずだ。ぼんやりとしている丸井は何かを考えているのだろうとは思う。薄暗い部室、雨音の入ってくる窓を見る横顔を近くで見たくてそばの椅子を引いた。少し仁王へ視線を移し、丸井はまた窓の外を見る。「あのさー」
「何?」
「俺この間、藤原に告白されたの」
「知っとおよ。返事したん?」
「んー、しようと思った」
「は?」
「好きじゃなくてもいいって言うから、つき合おうかなーと思ってたら、あっちから取り消しって断ってきた」
「……はあ」
「なんかー、告られたんだって。2年の、サッカー部の木下ってやつ」
「あー、ブンちゃんより男前やね」
「……わかんねー」
「へこんでんの」
「へこむっつーか、何つーか」
「ブンちゃんのファンアホ多いけんな」
「お前に言われたくねえよ」部室にはふたりきり。テニス部は顔でテニスすんのかと冷やかされることもある程度に男前がそろっているが、女子と親しいといえば仁王と丸井ぐらいだろうか。幸村や柳生、柳あたりも紳士であるから女子から人気はあるが、告白するのははばかれる雰囲気があるらしい。女子の間で抜け駆けしない同盟、なんてものがあるという噂もある。仁王や丸井は適度に遊んでいる顔を見せるせいかもしれない。
自分の気持ちをもてあました丸井は困っているようだ。起こるタイミングを逃してしまい、すっきりしないのだろう。――ああ、思わず椅子の上に足を上げて無理やりひざを抱え、そこに顔をうずめる。仁王からは何も言えない。好きじゃなくてもいいからつき合ってほしいだとか、ましてや好きだとか。そんなことは一言も口にできない。仁王?問いかけに顔を上げて笑ってやる。「大分好きやったんちゃうの、藤原のこと」
「……そりゃ意識はするだろ」
「かわえーしな、ムネもおっきーしな」
「へんたい」
「見るやろ。あいつんち金もあるぜよ。完璧やったのに、おしかったのうブンちゃん」
「もーそれはどうでも、いいよ」
「そ?」
「……仁王は?最近静かじゃん」
「俺?俺はまあ、……秋やけん」
「は?」
「男心と秋の空っちゅーやつ」
「女心だろ。……女心ねえ」溜息をついて丸井は再び外を見た。少し雨も落ち着いてきている。そのうちやむかもしれない。やまなければいい。やむと帰る流れになるだろう。まだもう少し、どんな話でもいいから、ふたりきりの時間が惜しい。
好きだ。丸井のことが、どうしてだか。こんな初恋はごめんだった。こんな忍ぶ恋もごめんだった。女なんてひとりもほしくない。丸井が手に入らないのなら、テニス一筋で生きていく。――そんな大人になれればいいのに、たかだか生まれて15年、ペテン師と呼ばれようとも自分を偽ることは難しい。ほしい。雨の中を飛び出して帰ればよかった。今、丸井の時間は自分のものだと思ってしまえるこの時間が、記憶に深く刻まれる。この瞬間にも深く深く、えぐるように。「仁王は、好きな人でもいんの?……って、柳が言ってた」
「……アホー。あの奥手に悟られるような恋などせんわ」
「あっそ、言うねえペテン師」
「帰らん?」
「……もうちょっと」
「そ」――誰かとつき合おうか。好きなふりで告白して、遊びのように女の子とつき合う。そうして何が変わるのだろう、丸井が手に入るわけでもないのに。丸井といる時間が減るだけだ。好きだ。もうどうしたらいいのかわからない。再びうつむいて、涙さえ出てきそうな感情を押さえ込む。
「ブンちゃんは好きな人おらんの」
「いたら藤原とつき合おうって思わねえよー。あえて言うなら幸村くん?なぁんつって」
「笑えんわ気色悪い」今そこに自分の名前が挙がっていたらその瞬間に心臓が止まっていたかもしれない。戯れにひどいことをする。女々しいことだ。雨がやんだ、丸井の言葉がまるで自分を否定したように聞こえてうんざりした。――こんな恋。恋とはどうやって終わらせることができるのだろう。告白して、ふられて、「失恋」?その程度のことで失われる恋ではない、と、よけいな自信がある。そんなことをできるわけもない。誰がそんなことを。俺は仁王雅治だ!
いっそ泣ければ楽なのだろうか。雨のにおいがしみこんだ、この男くさい部室でふたり、このささやかな時間が一生の思い出になるのだろうと思う。それは一方的な、自分しか知らない時間になる。いつまでこの思いを抱えて過ごすのだろう。中学を出てもお互い高等部へ進学する。その3年間に、この思いは変わるのだろうか?――ああ、あほらしい。たかが恋愛に頭を悩ませのどを詰まらせ、何も語らないくせにことばが頭を占める。足を投げ出して丸井を見た。帰りたくないのだろうか。思い出したようにガムを取り出して口に運ぶのを見る。告白したって、どうせ冗談だと笑い飛ばされるのがオチなのだろう。たとえば俺が柳生なら、と考える。仁王と柳生が似ていると気づいたのは柳だった。あの面倒くさい観察能力、仁王が抱えている思いぐらい気づいているのかもしれない。柳生が丸井に告白したら。冗談だと思われるのは同じかもしれない、彼は時々つまらない冗談を言う。しかし最終的に説得してしまいそうな気がする。君がいいのだ、君が一番好きだ、愛してるとさえ口にしそうな。
俺帰る、とささやくように零すと、俺も、と仁王をきっかけにしたように丸井も立ち上がり、窓を閉めた。「ブンちゃん」
「何」
「愛しとおぜ」
「……きもちわるっ」
*
ふられたことになるのだろうか、とセンチメンタルぶってみる。朝起きると目につき刺さる快晴、信じられないほど自分を裏切っている。雨が降ったら行こうと思った。昨日と同じ天気ならば昨日の気分のままでいけるのに、こんな快晴では自分の感情に耐えられない。白日にさらした言葉を丸井は表面だけ一瞥して笑い飛ばした。愚かにもその後笑い返した自分が恨めしい。
今日は学校へ行かないことにして布団にもぐりこむ。一度起こしにきた母親もすぐにあきらめた。鬼のように休むことを許さず怒鳴る日もある。彼女も丸井をふった女子と同じ女なのだろう。こうしていると丸井のことばかり考える。どこが好きなのか、どうして好きなのか、とりとめもなくスタートを探しても見つからない。ゴールもない。出かけるからね、と母親が出て行く声で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。携帯を探して時間を見ると、それより先に不在着信とメールに気づく。乱れた前髪の間から何気なく見た画面は、丸井の名を映した。ばかやろう――凶器を手放して枕に顔を埋める。高鳴った心臓が落ち着くまでに時間がかかった。それからかけ直した電話に出たのは留守番電話サービスだったが、よく考えてみると授業中だ。メールは幸村からだった。来れるなら午後からでもおいで、まるで見透かしているかのような内容に恐ろしくなる。 丸井が好きだ。キスがしたい。抱きしめて触れあって気持ちよくさせて、俺だけのものに。
(――キモい)
布団から起き上がって制服に着替える。昨日帰ってきてどうしたのか思い出せないが、ネクタイが見つからないのでそのまま家を出た。テニスバッグを肩に許可されていない自転車に乗って、掃除機の音がどこからか聞こえる静かな住宅街を走る。風が冷たい。何気なく空を見上げると、学校の方に暗雲が立ち込めていた。ひどいことだ。
雨が降り出す前に学校に着く。授業中の静かな廊下には教師の声だけが漏れていて、学校も住宅街も同じようなものだと思った。大声で叫んでみたい。例えば、丸井が好きだ、だとか。自分の頭のことながら心配になる。それほどまでにほしいのだから、誰か与えてくれればいいのに。「遅れましたー」
「……仁王……お前、もう4時間目だぞ。重役出勤にもほどがある」あきれた教師に給食費ちゃんと払ってるから食べんともったいないじゃろ?と笑いかけてみるが、給食じゃないという突っ込みはもらえなかった。よく考えると弁当も財布も忘れてしまったがどうにかなるだろう。食べ物の話題を出すと無性に丸井に会いたくなった。残り20分だけの数学を隣の席の女子に教科書を見せてもらいながら受けて、終わってすぐに教師につかまる前にさっきとは変わって賑やかになった廊下に飛び出す。
「ブーンーちゃん!」
「あッ!仁王ッ、お前死ね!」
「ウッ……な、何事?」恨みのこもった視線に心臓を鷲掴みにされる。吐き気がしそうだ。嫌われたらもうだめだ、と思う。何がだめなのかはよくわからない。
「お前のせいで携帯取られただろ!授業中に鳴らすんじゃねーよ!」
「ああ……つーかそれはブンちゃんのせいでないの?」
「るせ、お前のせいだ!昼飯おごれ!」
「えー、俺今日財布忘れたけんたかりに来たんに」
「使えねー!」ばしばし叩かれながらも足は丸井と売店へ向かう。貸してくれるつもりはあるのだろう。素直に嬉しいと思う。ふくれっ面の隣を歩きながら丸井を見る。どうしても好きだ、と考え直した。
「ブン太」
「何だよ」
「大好き」
「頼むからいっぺん死ね」雨が降り出して窓ガラスを叩いた。今日の部活はどうなるのだろう。丸井と少しでも長くいられるのなら、筋トレでも何でもあればいいと思う。どうしてだか好きなのだ。これが初恋なのだから、笑うしかない。泣きたくなってきたのをこらえる。
「本気ぜよ」
「言ってろバカ」
071223