窮鼠猫を噛む 2
「……予想外じゃ。口の悪いやっちゃ」
「……仁王、これは何?」呆然とするレギュラー陣を見て、それ以上に硬直している『彼女』を振り返る。つき合っている、のは口だけだ。キスぐらいはしたが、この日のためだけの繋ぎで好きという感情はない。丸井と同じだ。幸せそうな日常に、修羅場を起こしてみたかっただけ。できるだけややこしいものを。
「小林ごめん、別れて」
「……は?」
「俺ほんまは男が好きなんじゃ」仁王がこの日に初詣に行くと言って、はぐれたふりで合流しようと誘った。私服で会う機会はほとんどなかったから新鮮で、かわいいとは思ったが、これならまだベッドの中の丸井の方がましだった。状況が読めないなりに理解したらしい彼女はさっき殴られたのと逆の頬を叩き、走り去っていく。涙が見えた。恋という感情の狂いで泣けると言うことが、仁王には理解できない。
「……さて、あとはブンちゃんを片づけんとな」
あまり痛くなかった頬をさすり、歩きだそうとした仁王を幸村が捕まえる。……怒っている。賢い彼らのことだから、仁王が何をしていたかぐらい大体予想がつくのだろう。
「ちゃんと説明して」
「……ブンちゃんがな、俺のこと好きなんじゃと。笑えるじゃろ?気持ち悪い。まあそうそう体験できることでもないけん、ちょこっと遊んでやったんじゃ」
「……そう。お前はいつも、自分勝手だね」
「なんでもかんでも部活のため、なんてやってられっか。団体戦ったって戦うんは個人、他人の恋愛沙汰に動揺して負けるようなやつなんざ、立海にはいらんじゃろ?」
「仁王」歩きだした背中に幸村が声を投げてきたが立ち止まらない。幸村もそれをかまわなかった。
「自分が世界の中心だと思ったら大間違いだよ」
「……俺の世界の中心は俺じゃろうが」様々な視線を浴びながら頬を押さえて丸井を追う。とは言えゆっくり歩いているのだから、追いつくつもりがないことぐらい誰が見てもわかる。歩きながら試しに携帯にかけてみたが、当然のように丸井は出ない。本当にからかいがいのある人物に好かれたものだ。これが丸井でなければこうも面白くならなかっただろう。
これからどうしていこうか。今までの様子から考えると多少揉めはするだろうが穏便にすませることができる気がする。あの丸井を手の上で踊らせただけで満足だ、多少のリスクなど初めから覚悟している。あの丸井は神に何を願ったのだろう。今年も楽しくなりますように。
*
そのまま冬休みが終わった。休み中の練習に参加はしていたがまともに顔を合わせていない。……それは今までとあまり変わらない。丸井がこっそり笑いかけてくるのをやめたぐらいで、まるで気にしていない様子だ。むしろ切原やジャッカルの方が当人たちより気に病んでいる。始業式、明日は課題テストのため部活はない。帰り支度をする丸井がこっちを見ていたのに気づき、目が合う前にそらされたが近づいていく。
「ブンちゃん、一緒に帰らん?」
「あ、パス!先約!」
「……あら、そ」もう少し動揺でも見せればいいのに。あっけらかんと仁王を切り捨て、丸井は鞄を肩にかけた。じゃあな、と簡単に別れていく後ろ姿を、どこか名残惜しげに見ている自分に気づく。……面白くない。丸井なんて簡単だと思っていたのに、思い通りになってくれない。
「あれ丸井じゃね?」
「うっわ、一緒に歩いてるの芦田先輩じゃん」窓際のクラスメイトの声に、見せて、と便乗しに行くと場所を開けてくれる。どこにいても目立つ赤い髪、隣にいるのは、……以前自分が丸井から遠ざけた、女子テニス部の。
「やっぱそうか〜、噂マジだったんだな、芦田先輩彼氏できたって」
「でも丸井に彼女がって噂流れたの冬休み前じゃね?その頃からなのかな」
「なあ仁王、あのふたりマジ?テニス部だろ?」
「……知らん。初めて知った」いつの間に。この数日で、さっさと自分のことを忘れて女に乗り換えたとでも言うのか?あんなに時間をかけて確実に落とし込んだのに。あんな体を抱いてやったのに。……どうして自分が惑わされなくてはならないのか。笑い合う横顔は見慣れたものだ。それは。それは俺のものだ。俺が捨てるまで、離れるなんて許さない。
*
「……何?」
呼び出したらのこのこ出てきた。好きなくせに、当てつけのつもりか。マフラーで顔を半分隠した丸井に一歩近寄ると一歩引いた。夕方の、しかし真っ暗な公園に人気はない。カップルが来るにはまだ早く、子どもが遊ぶにはもう遅い。この時間に何度もふたりでここに来た。初めてキスをしたのも。どうでもいい記憶も丸井をほだすために覚えている。
「……用ねえなら、帰るぜぃ。寒ぃし」
「つれないのう、あんなに俺に会いたがっとったんに」
「まあな。あ、そういや言ってなかったっけ」
「何を?」
「『別れて下さい』って。ま、お前がつき合ってると思ってたのかしらねえけどよ」
「好きじゃなくてもええって言ったのブンちゃんじゃろ」
「わかってるよ。別れてくれんだろ?今までアリガトーゴザイマシタ」
「あの女とつき合うん?」
「……さあ、そうなるかもな」
「あんな性格悪そうなん選ばんでもいいのに」
「はっ、知ってんだろ?……俺はそういうやつが好きなんだよ」違いない。自分を省みて鼻で笑う。頭の回るやつだからこそ、楽しかったのだ。このゲームじみた恋愛ごっこ。じゃあな、と今度こそ帰りかける丸井を引き止める。
「さよならのキスは?」
「……いらねーよ、気持ち悪い」顔をしかめたその表情に腹が立つ。衝動に任せて丸井を捕まえ、無理やり唇をふさいだ。抵抗は一瞬、すぐに脱力したその体を抱きしめる。強がってはいても、結局俺のことが好きなんじゃないか。笑いたくなりながら体を離すと丸井も笑っていた。口角を上げただけの、人をあざ笑うかのような。
「満足か?」
もしや踊らされているのは自分ではないのか――ぞくりとする視線の意味は、この違和感は。
「バイバイ、仁王。楽しかったぜ」
「待ち、……もう俺はどうでもいいんか」
「……引き留めるみたいなこと言うなよ、白々しい。好きに決まってんだろ?じゃなきゃ大人しく引かねえよ。お前の暇つぶしになったなら満足だ。……ほんとに、殺してえよ」仁王から視線をそらした、その横顔に惹きつけられる。今のこの感覚は、なんだろう。これではまるで――丸井の顔は好きだ。女顔ではあるけれどその強い瞳。体つきも好きなかたちをしている。だからこんな遊びをする気になったのだ。気に入ったおもちゃを、簡単に手放せるような性格をしていない。
「……安心しろよ、俺何も言い触らしたりしねえから。じゃあな」
離れていく後ろ姿をどう引き留めればいいのかわからなかった。どうして引き留めたいのかさえ。学校の食堂はおいしいものを出すが毎日食べたいかと言われたらまた別の話で、丸井はその程度のものだと思っていたのに。
「ブン太」
「ッ……やめろよもう!なんでンな未練あるふりみたいなことすんだよ、また騙されそうになるからやめろ!……名前で呼ぶな」未練があるのはそっちのくせに。優しいことばを待ってるくせに。その証拠に丸井の足は動かない。鼻をすする音がする。
まだだ。まだ逃がさない。小さな傷を増やしながらなぶって、最後に一口で食べてやる。
*
君が考えていることぐらいわかりますよ、眼鏡を外しながら気取って言う柳生に腹が立つ。やかましいと一言で切り捨てて、このために準備した度の入っていない眼鏡をかけた。鏡を見ながら前髪を調整していると、横から伸びてきた柳生の手がきれいに七三に分ける。目の前に立つ柳生は、あとはほくろさえ書き足せば十分自分に見えた。ふたり分のかつらも眼鏡も自前だ。無駄遣いだと柳生は言う。
「――君に私の何がわかると言うんですか」
眼鏡を上げる仕草をしながら聞いてやると柳生は仁王の顔で眉をひそめた。我ながらいささかお上品すぎる。自分のナリで笑顔を振りまかれないことを願うばかりだ。
「君は」
「気持ち悪い喋り方すな」
「……これはただの実験じゃのうて、丸井をからかいたいだけじゃろ?」
「お見事」流石は推理オタクだ、こういうことは嫌いではないだろうと踏んでいたが当たりだったらしい。以前爪を噛む癖を指摘されてからずっと狙っていたのだ。観察能力のあるタイプは厄介だが、味方にすれば邪魔ではない。柳生の顔に手を添えて口元にほくろをつける。姉のポーチからかすめてきたアイライナーだが、落ちないとうたっているからには信用しよう。姉を見てれば大体の効果はわかる。
「しかし推理は外れです。丸井くんの話が出てくるのは的外れですね」
「どうだか」
「話は終わりです。君はともかく、私が遅刻するわけにはいかないのでね」
「はいはい」使われていない旧館のトイレを出て部活へ向かう。自分の姿をした柳生は承知しているのでまだ残っていた。足早に柳生の荷物を手に部室へ向かう。途中で真田に会ってわずかに怯みはしたが、普通に挨拶をした。同時に部室に入ると残っているのは切原だけだ。
「早いじゃないか」
「失礼っすねー。真田副部長こそ、いつもより遅いじゃないっすか。もう丸井先輩たち行ってますよ」
「切原くんは置いて行かれたわけですか。仁王くんは?」
「見てねーっす」
「柳生は本当にあんな奴とダブルスでいいのか。あいつをダブルスにすると厄介だからな」
「さあ、向こうからのご指名ですからね、今のところは順調ですよ。真田くんは苦戦してましたからねえ」
「あいつとのダブルスは疲れる。味方まで翻弄してどうする気だ」
「疲れますよねー!仁王先輩なんっもしないんですもん!俺こないだ2対1でしたよ」
「それでも勝っていたじゃないですか」まあね、とそれでも不満気に口をとがらせ、着替え終えてからも話し足りないといった様子の切原だったが真田に追い出されている。間違えそうになりながらも隣の柳生のロッカーを開けた。
「……柳生はどう思う」
「何がです?」
「仁王と丸井だ」
「……どう、とはどういうことでしょう」
「このままでいいのだろうか。事情はよくわからぬが……」
「……他人の恋愛ごとに首を突っ込むのは野暮と言うもの。本人たちに変化はないんですから、きっと時間が解決しますよ」
「だといいが」珍しい。真田が気にしているとは思っていなかった。主に切原などが恋愛などの話で盛り上がっているとまるで敵意か恨みでもあるかのように怒っていた男が。そのうち仁王に扮した柳生が入ってくる。目を合わせたが問題はなさそうだ。
「遅いな」
「開始時間には間に合うじゃろうが。赤也がジャッカルいじめとったぞ、行かんでいいんか」
「赤也のやつ、またか!」肩をいからせて真田が出て行き、思わず肩を震わせて笑ってしまう。からかうような目つきで柳生がこっちを見た。
「その調子ではすぐボロが出そうですね」
「抜からんわ」
「……先ほど、丸井くんとすれ違いました」
「なんじゃ、丸井の話をしたがるのう。それがどうした」
「変な顔をされましたよ」
「変な顔?」
「もしかしたら気づいたのかもしれませんね。恋の力は偉大ですよ、馬鹿にしてはいけない」
「……はっ、あほらし。あの鈍感が気づくかい」柳生を置いてコートへ向かう。ともかく真田と切原はクリアだ。柳には実験として前に変装したとき見せに行ったからわかるだろう。幸村がいればどうかわからないが、ジャッカルや丸井を騙すなどわけないことだ。コートで丸井に出会ったが特に何も言われない。柳生の言う「変な顔」もされなかった。どうせ柳生がそう思い込んだだけなのだろう。
特に変わったこともなく部活を終えて、最後に柳と少し話す。課題はふたりとも姿勢だと指摘されるが、そこまではなかなか難しい。そもそもそこまでする必要があるだろうか。気づくのはどうせ柳ぐらいだ。「せっかくだから試合で使ってみたらどうだ?俺たちも騙せるほどなのだから他校の生徒にわかるわけがない」
「試合〜?アリなんかそれ」気を抜いて自分のロッカーを開けてしまい、空なのに気づいて乱暴に閉める。この後仁王として先に帰った柳生とまた合流して荷物を交換するはずだったが、仁王がロッカーに入れていたガラクタ類をきれいに持ち帰っている。
「面白いんじゃないか、仁王はレーザービームを割といいところまで使えそうだしな。仁王が本物のレーザービームを打ったら面白い」
「待て待て、どれが誰の話じゃ」ドアノブが回って仁王が背筋を伸ばす。柳が笑うのを横目で睨んだが、眼鏡のおかげで見えなかったようだ。入ってきたのは丸井、柳に聞かれて忘れ物、と答えている。ロッカーから出してきたのはコンビニのビニール袋に入ったスナック菓子で、柳が苦笑した。
「……なあ、」
丸井の目が仁王に向く。どうしました、意識して喋るが、我ながら完璧だと思う。演劇部に入っていれば主役間違いなしだろう。そんな人生ほしくもないが。
「みんな気づいてないみたいだから言わない方がいいのかと思ったんだけど、お前仁王だよな?」
「……何を」
「丸井はわかるのか」
「あ、柳はわかってんのか、そうだよな……柳生の仁王ははっきりとはわかんなかったんだけど、仁王の柳生は……ん?俺どっちの話してんだろ」
「仁王は見間違えないってことか」
「……うん、そうかな?なんかさあ、お前の中の柳生ってどんなイメージなのか知らねえけど、なんか上品すぎて気持ち悪い」
「それは上品な仁王が気持ち悪いということだろう」
「それはそうかも。何?テストの替え玉でもすんの?」
「それなら俺は反対するがな」
「まあ何でもいいけど。どうせ仁王のことだから楽しんでるだけなんだろ。じゃあ、俺帰るわ」
「ああ、また明日」
「バイバーイ」
「……っざけんな!」
「えっ!?」ふたりが何を言っているのか理解するのに時間がかかった。眼鏡を捨ててドアに手をかけている丸井を睨みつけるとさっと顔を青くして飛び出していく。柳の声も聞かずにそれを追いかけた。混乱しているらしい丸井は校外に出るという選択肢が思い浮かばないらしく、しかし裏庭の方へ逃げていく。管理が中途半端になっているそこは冬でも葉が茂っていて、捕まえた丸井を壁際に追いつめて更に奥へ追い込むと外から見えなくなる。仁王にとっては自分の庭のようなものだ。
「な、何で怒ってんだよ!」
「うるさい」逃げる手を捕まえて壁に押さえつける。これから強姦でもするような雰囲気にどこかあおられているような自分がいた。
「自分は見間違えないなんてそんなアピールしてどういうつもりじゃ、なあ。未練がましい男じゃの」
「な、に……俺はただ、」
「何」
「……柳生がこんなことしてていいのかよ」自分がまだ柳生の姿であることを思い出した。冷静なつもりでも周りが見えなくなっている。そんなことが、許されるわけがない。たかが丸井相手だと言うのに。
「……これは失礼しました。では何か言いたいことがあるのなら私から仁王くんに伝えましょう」
「何、しっ……」足の間に膝を入れ、股間を押し上げながら唇を塞ぐ。久しぶりのキスのせいか怯んだ丸井もすぐに押し返してきた。腿から足の付け根へと撫で上げて、震えた体を触って確認すると膝に押されたそこはすでにかたくなりつつある。鼻で笑うと顔を真っ赤にして視線から逃げた。
「どうしたのです、丸井くん。……こんなところで、はしたない。仁王くんに一度抱かれただけでしょうに、いやらしい体ですね。誰でもいいのですか?」
「ばか、やめろっ!」
「しかし、丸井くん」
「触んなッ……!」ほとんど悲鳴だ。楽しくなってこちらに向いている耳たぶを噛む。声を漏らす体に、たった一度抱いたあの日を思い出した。正直男の裸を見ても何も感じないし、手の中で達した丸井の気持ちもわからなかった。わかりたくもないが。それでも、言えば大人しく何でもした丸井には興奮させられた。柔らかい体を思い出す。
「私でよければお相手しましょうか?」
「……ふざけんのは格好だけにしろよ、この変態。今すぐ死ね」いつのまにか丸井の瞳には涙が浮かんでいる。赤い目元で睨みつけられても笑えるだけだ。
「……大体な、男のくせに男が好きとか、気色悪いんじゃ。俺に何求めとったん?」
「好きなだけだよ、俺はッ!つき合おうって言ったのお前じゃん!」確かに仕掛けたのは仁王だ。隠しているつもりらしいが仁王にはわかった恋心らしいものを手に取って、優しく声をかけた。俺のこと好きなんじゃろ、軽く聞いたら丸井は呆然としていた。今でもあの間抜け面で笑える。聞き直したらはっとして、否定も肯定もできずにうろたえていた。
「……気持ち悪いと思ってんならさわんじゃねえよっ……」
どうして今、仁王がうろたえる必要があるのだろう。追いつめているのは自分のはずなのに。
*
「やれやれ、ようやく鍵がかけられる」
「……中学生がやれやれって使うか?」部室に戻ると柳に加えて柳生がいる。急須など持ち出して優雅にお茶をしていたようだ。脱いできたカツラを柳生のそばにあった自分の鞄に押し込み、ついでに鞄ごとロッカーへ投げ入れた。派手な音に柳生は眉をひそめる。
「頬を冷やしたらどうです」
「やかましい!」
「今仁王の話をしていたんだ。お前は間違いなく、預かった子猫をそのまま飼ってしまうタイプだ」
「……誰が飼うか、あんな豚!」
「後悔しても知らんぞ。……もう遅いかもしれんな」タオルを濡らして殴られた頬を押さえる。畜生、わずかでも怯んだ自分が許せない。……恋などではないのだ。嘘偽りなくそれは確かだ。おもちゃにしか見えない。なのに反抗するから腹が立つ。
「丸井はどうした?」
「知るか、どっかで泣きながらオナニーでもしとるんじゃろ」絶対に許さない。もっと泣いて堕ちればいい。地面にすがりつかせて懇願させる。わかった風な柳たちにも腹が立った。この気持ちがわかるわけがない。簡単にわかってたまるか。
爪を尖らせ牙を磨いて期を待ってやる。絶好の瞬間を見計らい、確実に傷つけて息の根を止める。そのためにはまだ丸井を逃がすわけにはいかないのだ。
080112