春眠暁を覚えず
桜吹雪、丸井が呟いたのを仁王が聞き返す。
「桜吹雪」
「ブンちゃん知っとる?」目の前を飛び交うピンクに五感を奪われ、仁王の声がよく聞こえない。姿も隠される。
「何?」
聞こえているのだろうか。もう一度大きく口を開けて問うと、花びらが口に飛び込んできた。それは甘い、
*
布団から体を起こすと裸の肩から毛布が滑り落ちた。
妙にはっきりした目覚めで、時計を見るともう昼過ぎだ。 確かに寝たのは遅かったが、それにしても長い眠りだったように思う。ずいぶん贅沢をした気がした。
うつぶせのまま頬をつき、隣を見ると布団から白い髪がはみ出ている。するすると毛布を引っ張ってやれば、まさに惰眠を貪るとばかりに気持ちよさそうに眠る仁王が現れた。恐らく起きないだろうからと、その頬に軽く唇を当ててまた頭まで毛布を被せる。自分はそのままベッドをおり、適当に服を羽織って台所へ向かった。くしゃみがひとつ。まだ裸で寝るには少し早い。それでも春の気配が近づいて、花粉症の仁王は天気がいい日を恨む。冬の寒さに泣いたあとに春、その後は夏の日差しに嘆き、唯一彼が許せるという秋まではまだ遠い。
秋には、自分たちはラケットを手放している。いや、ラケットは握っているだろう。それでも準備された場所がない。その頃には自分たちの関係がどうなっているのか、想像できなかった。どこに、いるのだろう。丸井家は昨日から誰もいない。それをいいことに仁王を連れ込み、いかがわしいことをしていた。お互いしか知らない姿を見せ合って普段聞かない吐息を耳に、罪悪感があおる快感に酔う。
冷蔵庫を開けたが、昨日買い物に行く予定が流れたので特に何もない。わずかに残されたチャーシューを見つけ、レタスと卵、冷凍していたご飯を取り出す。仁王が食べるかはわからないが二人分のご飯を解凍しながら、フライパンを準備した。卵を落としてさっと炒ってからご飯を落とし、ほぐしながらチャーハンの素を出す。丸井家長男のためのストックであるから、探すまでもなく数は把握している。チャーシューは1センチ角に、レタスは大きめに。チャーシューもフライパンに落として火を通したら、一番最後にレタスを入れてもう火を止める。あとは余熱で十分だ。ふたり分をお皿に盛りながら、少し思案して仁王の様子を見に行く。やっぱりさっきのまま身動きひとつとらずに眠っていて、布団をめくると規則正しい寝息が辛うじて生きている証拠のようだった。今日の予定は何もない。起こすのも悪い気がする。
布団を直して台所へ戻り、片方の皿が少し冷めるのを自分のを食べなから待ってラップをかけた。インスタントでいいからスープでも添えようか、考えながらも気になるのは仁王で、他に人がいるのにこんなに静かな家と言うものが少し怖いからかもしれない。
自分の家なのに妙に落ち着かず、食べかけの皿とレンゲを持って部屋へ戻った。勉強机の椅子をベッド脇まで運び、それに座ってベッドに足をかける。寝癖のついた仁王の頭を見て、なんとなく安心した。チャーハンを口に運びながら、親の留守にセックスをするよりもよっぽど悪いことをしているような気分になる。食に関してはしっかりしつけられたから、こんな姿勢での食事は少なくとも家ではしたことがない。
布団の山がもごもごと動き、突き出た白い腕が頭をかきむしり更に乱した。あくびが聞こえる。顔を起こしてこっちを見た仁王の目がまだ眠そうだ。「おはよう」
「んー……おはようさん……何時」
「1時過ぎ」
「よう寝た」そう言いながらも仁王は再び枕に顔を埋めた。しばらくすると肩を揺らしてクックッと笑い出す。
「何だよ」
「夢ん中でいい匂いしたんじゃ」
「……食うならお前の分あっちにあるぜ」空の皿を机に置いて、ベッドに移って隣に座り込む。丸井を見上げてきた仁王がにやりと笑って、腰に手を伸ばしてきた。膝に頭を乗せてそのまま腕が巻きつく。
「まーくんどうしたんでちゅかー」
「匂いのせいで腹減った」
「チンして食え」
「うん」仁王が体を起こし、行くのかと思えば正面にぺたりと座っている。覚醒に体がついていけていないようだ。気になる寝癖を撫でつけるとされるがままになっている仁王が妙に幼く見える。
「つーか、起き抜けにチャーハンて」
「食えるだろ。そんなにこてっとしてねえよ」
「うーん……」
「何なら食えんだよ。インスタントのスープぐらいあるぜぃ、コーンとわかめ」
「うーん」
「何だよ」
「ブン太がいい」虚ろだった目がぱっちり開いた。にやりと笑い、真っ直ぐ丸井をとらえた視線に顔が熱くなる。どろどろに溶け合った昨日を思い出した。
「バカ、お前夜も食ってねえじゃん」
「死なん程度に食ってりゃ十分よ」
「あのなあ」口では言いながら、それでも伸びてくる腕に抵抗できない。くるりと絡め取られてベッドに倒れ込む。キスをしかけた仁王が一瞬ためらった。それに気づいて自分から引き寄せて唇を合わせる。
「……色気が、ない」
「どうせ俺にあるのは食欲だけですー」
「腹膨れそうじゃ」開き直った仁王が覆い被さってきて上唇を吸った。そのまま深くなる口づけにもう意識が引き込まれていく。溺れていくようなイメージを浮かべながら目を閉じた。
*
温めてきたチャーハンのラップをはがし、椅子に座って食べていると仁王が体を起こした。目をこすってはいるが寝ていたわけではないだろう。鼻を鳴らし、丸井を見てチャーハンに気づく。
「一口ちょうだい」
「流石に腹減っただろ」レンゲにチャーシューもレタスも乗るようにチャーハンをすくい、肘をついて上半身を起こしただけの仁王の口元に運ぶ。ぱくりとそれを口にした仁王に鳥の雛を連想する。ふわふわとはねた髪のせいもあるかもしれない。どうせ仁王の分であったからと、もう一度レンゲを運べば口を結んで、唇に当てても開かない。黙って丸井を見上げている。呆れてそのレンゲは自分の口に持っていくと、仁王は不満げに唇をとがらせた。
「今何時」
「んー、4時ぐらい。晩飯どうする?」
「ブンちゃん食ってばっかじゃの」
「こんなの食ったうちに入んねえよ」
「俺は飯よりブンちゃんといちゃいちゃしたいんじゃがのー」
「俺が作った飯が食えねーってか」
「……寄越せ」起き上がってあぐらをかいた仁王が皿を奪い取る。しぶしぶレンゲも渡してやると大人しく食べ始めた。自分たちの決定的な違いは食にあると思う。恋愛にしろテニスにしろ、考えていることは大して変わらない。
「まずそうに食うなよ」
「まずかったら食わん」
「素直にうまいって言えよ」
「うまい!ブンちゃんええ奥さんになるわ、仁王ブン太でシクヨロ」
「俺長男だから、丸井雅治で」ふざけた掛け合いをしながら食べるのを見ているとぽろぽろと米やチャーシューがこぼれている。隣に行って太ももを叩くと嫌そうな顔をしたが、足に落ちたチャーシューを指さすとつまんで食べた。
「うるさいおかんじゃ」
「俺が親なら箸の持ち方から教えるね」フンと鼻を鳴らして皿を空にし、椅子に置いて口を拭う。子どものように頬につけた米粒に気づくかどうか見ていたが、微妙にそれた場所を指が過ぎる。ひょいと手を伸ばしてそれを取れば、仁王はどこか妙な顔で丸井を見た。
「ガキみたい」
「……ガキで十分」トンと丸井の肩に手をかけて、そのままベッドに倒す。真顔で見下ろしてくる仁王がなぜか遠く見えた。体を任せるままにキスを受け、深まる口づけと一緒に下着ごと下半身を露わにされた。仁王がうちに来てから、衣服を身につけていた時間はわずかだ。すんの、離れた唇にささやくように、瞳を覗き込みながら言う。真顔でする、と返す仁王は今度はひどく近い。抵抗せずに脚が開かれるのを見て、間に入った仁王を見上げる。
もう夕方だと、さっき自分の口で言ったのに実感がない。今日の天気は悪く、一日中窓の外が暗かったせいだろうか。こんな天気では小学生はチャンスとばかりに家でゲームをしているのだろう、マンションの廊下に面した丸井の部屋に今日ははしゃぐ声が聞こえてこない。「……夢みたい」
「ん?」隠すようにつけたキスマークをなぞるように仁王の唇が胸に落ちた。くすぐったい前髪をかき上げてやり、上目がちにこっちを見る仁王と目を合わせる。
「なんか、現実感なくて」
「知っとる?覚めない夢は現実なんじゃ」
「……ああ」耳に心地よく流れ込んでくる仁王の声にうなづき、胸の上の頭を撫でる。なんだか自分が本当に母親になったような気がした。
「ブン太」
「ちょっと眠い。いいよ、やって」
「……起こしちゃる」
「うん、ッ……でも」
「何?」
「あ、ん」腿を滑る仁王の乾いた手がそのまま臀部におりた。尻の肉を掴むように触れ、自分の熱を押しつけるように丸井の体を持ち上げる。
「……ゆっくりして。気持ちいい」
閉じた目に優しいキスが落ちた。覚めない夢が現実ならば、覚めてほしい。いっそ悪夢だ。こんなに都合のいい、気持ちいい悪夢はあり得ない。いつか覚めるからこその夢だ。
「……ブン太、帰ってくるん、何時やっけ」
「……予定は、8時」
「ん」
「でも、あ、待って」ゆっくりがいい。緩く仁王を抱きしめて、子どものようにだだをこねる。まるで今日だけ時間がゆっくり流れているのだと言わんばかりで、滑稽だとも思う。それでも、例えこれが現実でも。
「春なんだから寝坊ぐらいいいだろぃ」
080228