卒業式が来ても丸井の気持ちは落ち着くどころかざわめいて、ちょうど式が終わって解散した後のグランドのようだ。生徒や父兄や教師で入り乱れる中に、地元紙の取材まで来ているらしい。狙いは運動部だろうから、明日かもしくは夕刊には新聞に幸村の一言ぐらいは載るかもしれない。
誰もいない教室、中央辺りに立ちぐるりと見回す。掲示物はきれいにはがされ、何年分も蓄積された画鋲の穴は何が貼ってあったか思い出させてはくれなかった。黒板はみんなが好き勝手に書いては消してを繰り返していたので白っぽく、中央に卒業おめでとう!と誰かが書いたのだけははっきりと残されている。

憂鬱だった。適当な机に腰掛けてうつむくと、視界のほとんどを髪が覆う。卒業式が来ても憂鬱だった。丸井にとっては何も変わらない。制服が変わり校舎が変わり、せいぜい切原が欠ける程度でテニスをしてきっと幸村が中心なのはこれからも変わらないだろう。何も変わらないのだ、2年間胸で温めたこの思いも。肩を落としてうなだれていても仕方ないとわかっているのに、どうしようもなく体が重い。
――いや。
思い出したくないことを思い出した。正確には一時も離れず胸に引っかかっていたのに見えないふりをしていただけではあるが。
仁王。
変わることがあるのならひとつ。

入学した頃から仁王と言うのは特殊な存在で、普通でありたくないけれどみんなと一緒は嫌だった思春期の丸井にとっては憧れだったのかもしれない。気まぐれで奔放で、それでいて愛されている人。2年の春に彼を意識してから、いつの間にか恋をしていた。恋にしてしまったのかもしれない。悲観的な恋をしたかったのかもしれないと思うほど、自分を追い詰める恋だった。

話せるだけでよかった、少し親しくなって彼の世界を知りたかった。しかしそれに留まらなかった丸井は貪欲に関係を深めようとして、今では仁王のそばにいない方が不自然だ。何もせずにそばにいても仁王は受け入れてくれる。多少の甘えもわがままも。
だから恋が終わらなかった。なんでも仁王のせいだ。可愛くない、と自分を責めて泣きそうになる。違うのだ、きっと。仁王は自分をかわいがっていただけで、ペットのようなものだったに違いない。一番近くにいるような錯覚さえ起こしたのに、……知らなかった。本当に、疑いもしなかった。今朝聞いたばかりの言葉が甦る。

「あれ、ブン太じゃ」

世界が止まった。首が動かないまま、赤い髪に覆われた視界にボタンのないブレザーが映り込む。耳に馴染む名前を呼ぶ声のせいで、こらえていた涙が浮かんだ。

「どうしたん、ひとりで」
「……仁王こそ」

声が震える。仁王がわずかに焦りを見せたのは、泣いていると思ったからだろう。今更泣いていないと言い張る気はない。……ああ、また甘えているのか。自分の浅ましさにうんざりする。慰められたい、なんて。
俺は忘れもん、と仁王は今は誰のものでもなくなった机の中を探っている。

「幸村が探しとったよ、写真撮りたいんじゃと」
「うん」
「なんか、早かったのう。こないだまで、夏やったんに」

一瞬であの暑い日差しを肌に思い出す。全力を注いですべてを捧げたあの日々は、一瞬だった。風のように過ぎてしまったあの時間の中にいた自分たちはもういない。テニスばかりしていたときでも丸井は仁王を見ていた。仁王がいたからこそ前に進めたのかもしれない。進もうと思えたのは彼の存在があるからでもある。

「終わってしまうと思い出になるもんじゃな」
「……仁王が負けて、幸村くんが負けてさ。まさかだよな」
「ピヨッ」

あのときもそうだ。自分の知ってる仁王はまだ一部でしかなくて、あんな力や強さを持っているなんて知らなかった。ついに涙がこぼれて膝にしみを作る。この2年間で、自分は一体仁王のどれぐらいを知ったのだろう。長い時間に思うのに、未だに仁王がわからない。――そう、彼女がいることも。

「仁王、彼女、いるんだってな」
「……幸村か?……別に、隠すつもりじゃなかったんじゃけど、ブン太こういう話したがらんし」

それは避けていたからだ。仁王の口から女の話を聞きたくなかった。好みの話も、告白されたという話も、誰が好きだとも。仁王の彼女もやっと安心するね、と幸村が言ったのは、卒業式の始まる前だ。結局式の間集中できず、終わってからも逃げるように教室にきた。仁王がここに来ては意味がない。

「まあ、言いそびれてるうちに言うんやめた俺も悪かった。高等部やし会わんからええかと思って」
「……そう、まあ、いいけど」

もう十分打ちのめされた。これ以上聞きたくない。耳を覆いたくなって拳を握る。

「ブン太行かんの」
「……仁王は?」
「嫌じゃないなら一緒に行く」

嫌などと言えるわけがない。怒りさえ覚えそうな優しさだ。鼻がツンとして涙がにじむ。そういえば、仁王の手が頭を撫でた。ブレザーのボタンは誰に持って行かれたのだろう。

「来月やの、ブン太の誕生日」

その瞬間に決壊したように涙がこぼれた。手を伸ばして仁王にすがりつくと戸惑った声が名前を呼ぶ。今まで押し殺してきた苦しみが涙を後押しするかのようにとめどなく流れては制服を濡らしていく。嗚咽を上げる丸井を優しく胸に抱くように抱きしめられ、いっそう涙を誘った。

どうして。
どうしてこんなに辛い思いをしなくてはならないのだろう。好きになっただけなのに。仁王が優しいだけで泣きたくなるのは、自分が不毛な恋愛をしているとわかっているからだ。

エスカレーター式に高等部へ進学するのが大部分を占める中等部の卒業式はあっさりとしたもので、人気のあった教師の担任クラスや他校への進学が決まっている友人などは泣いていただろうか。どうして丸井が泣いているのかきっとわからないまま、仁王は背中を撫でる。
すがる手は仁王のブレザーを掴んでいた。ボタンのないブレザーは、捨てられるのだろうか。泣きすぎてむせてしまうと仁王が顔を上げさせようとしたが、振り払って袖で涙を拭った。惨めだ。駄々をこねても仁王は手に入らないとわかっているのに涙が止まらない。

「……もう、ヤダ」
「ブン太」
「やだぁ……」

どうすれば恋を忘れるのかわからない。仁王の隣に立ちたいのにそれが叶わないのなら、忘れてしまいたいのに。

「ブン太どうしたん?」
「ごめん、ほっといて」
「ええけど……大丈夫か?」
「……もう、ちょっと、いて」

しゃっくり混じりの情けない声を仁王はどう聞いたのだろう。精一杯のわがままがこれだ。俺は丸井ブン太なのに。変わらず優しい手が頭を撫でる。
時が進むのが怖い。春からは違うクラスかもしれない。仁王は彼女と帰るのかもしれない。だんだん好きになるから怖い。仁王から離れられなくなったらどうしたらいいのだろう、仁王は自分のものにはならないのに。汚い感情が渦巻く。別れないのだろうか、自分を見ないだろうか、好きだと言わないだろうか。

「死にたい……」
「おお、どうしたブン太。大層やのう」
「消えたい」

恥ずかしい。こんな姿見せたくないのに涙も鼻水も丸井の意志では止まらなくて、こぼれる声は喘ぐようだ。

「仁王」
「なに?」
「……ばか」
「……ひどいわこの子」

笑いながら仁王は抱きしめる。涙が止まらないのだから、時間も止まるはずがない。

「ほれ、飴やるから泣きやみんしゃい。あ、泣きながら食ったらのどにつめそうじゃの」

丸井の手を取った仁王の手は冷たかった。手のひらに落とされた飴は小さい姿で主張する。これは仁王に恋をしている証拠だ。ひとつの飴が今に至ってこんなにも丸井をさいなむ。きっと違うのだ、こんなものがなくても丸井はいずれ仁王を好きになり、いつか今日のようにみっともなく泣く日が来たのだろう。ようやくポケットにハンカチがあったのを思い出して顔を拭いた。ひどい顔をしているだろう。敗北を知った夏だってこれほど泣かなかった。ゆっくり息を吐く。
仁王を好きなまま過ぎた2年は、楽しかった。それに満足できない自分はわがままなのだろうか。

「……泣きたいときって、あるだろ?」
「そうやね」

俺はお前が好きなんだよ。そう言ってみれば時間は止まるだろうか。何がどう変わるだろう。顔を上げると仁王が笑っている。目が真っ赤、とからかう顔が好きだ。俺はお前にキスしたいんだけど言ったら引く?嫌いになる?落ち着いた涙がまた零れそうで、ハンカチで痛いぐらいに目を押さえた。
何回唱えても伝わらないのなら、せめて何回でも撫でてほしい。好きだと思った分優しくして。 3年後も同じことを思っているのだろう。明日のことのように想像できた。

「お、行く?」
「うん」
「ほんじゃ。あ、そうじゃ。やかましいから取ったんじゃけど、ブン太にやる」

渡されたボタンが手の中で光り、丸井は涙をこらえきれなかった。

 

 

080326