秘すれば花 5
桜の花びらが散るのを目で追いながら学校へ向かう。仁王と一緒に行く約束をするのを忘れてしまったのが悔やまれた。携帯を持たない仁王には今すぐ連絡ができずもどかしい。今年は買わせてやろう。仁王のことだから 入学式なんて面倒だから、と寝ていそうな気もする。新しい制服に身を包み、新たな環境へ向かう丸井の足取りは不安と期待で頼りない。
仁王と花見行きてえなあ、などと考えながら通学路の桜並木を通り抜け、今日から通う立海大付属の高等部の校門をくぐった。見かける面々に初々しさはほとんどなく、知り合いではないにせよ見たことある顔ばかりでおかしくなる。制服も校舎も違うのに、人はほとんど変わらない。目立つ頭を見つけて駆け寄り、背後からぱしんと叩いた。「おっはよーハゲ!」
「お前なあ……まともに挨拶できねーのかよ」
「おはようブン太」
「あ、幸村くんもおはよう」にこりと笑う顔を見つけて頬が緩む。この1年彼と同じクラスだ。中学のときは一緒になったことがなかったので素直に嬉しい。仁王は?と聞かれて肩をすくめてみせる。
「知らねーんだ。あいつ4月入ってから実家帰るって行っちゃって、連絡もねーし。事前登校もいなかったからクラスもわかんない。みんな一緒じゃないって言ってたから誰もいなかったAじゃねーかなって思うんだけど」
「今日も来ないのかな」
「あいつ式典嫌いだもんな」
「卒業式も抜け出して屋上で寝てたよね。今日も屋上にいるんじゃないの?」笑い合いながら向かった講堂にもあの目立つ銀髪頭はいなくて、やっぱりサボりだな、とこっそり肩を揺らして笑う。つまらない入学式を抜け出して探しに行こうかとも思ったが、柳が代表挨拶をすると言っていたのでそれを聞くために残った。かたい言葉も柳の口から聞くと結構聞けてしまえる。あいつは教師になればいい。
くだらないことをつらつら考えているうちに式も終わり、教室で簡単に始めのホームルームをした。その間も頭を占めるのは仁王のことで、しばらく会っていなくて今日こそ会えると思っていただけに落ち着かない。仁王はもしかしたらこれを狙っているのだろうか。走って会いに来る丸井を笑うつもりだろう、そういう男だ。それでもいいから仁王に会いたい。ほったらかしにした罰に散々甘やかしてもらうのだ。ホームルームが終わって教室を飛び出し、まだ生徒で溢れかえるあちこちの教室を覗いてみたが仁王は見つからない。それなら、と屋上へ向かう。少々迷いながらもたどり着いた場所はしっかり施錠されていて、ほこりもかぶっているから使われていないのだと知った。「丸井」
行き場に困って廊下をうろついていると真田に捕まった。彼はだんだん外見と年齢が近づいている気がする。真田が要件を言う前に口を開くと、真田はわずかに顔をしかめた。凶悪な表情だと思う。今度は先輩たちが真田を知っているから大丈夫だろうが、中学のときはそんな表情だけで損をしていた。誰よりも不器用なんだろう。
「なあ、仁王見てね?」
「それがだな……」
「ん?」
「……柳が言うには、仁王はいないと……」
「じゃあやっぱ家か」
「いや、そうではない。1年に、仁王雅治という生徒がいないらしい」
「……は?」
「クラスの名簿を全部見たと言っていた。他のクラスのやつにも聞いてみたがやっぱりいない」
「何で?」
「俺は知らん。……誰も知らん。仁王以外はな」
「じゃあ仁王はどこにいんだよ」
「丸井」
「意味わかんねえ」嘘をついているわけではないのはわかる。それでもそうですかわかりましたと信じることはできない。ぐっと拳を握り、朝から丸井を浮かれさせていた不安が大きくなる。卒業前から様子のおかしかった仁王になんとも知れない不安があった。春休みに入ってから毎日のように一緒にいた間に薄れてしまっていたが、今になって蘇る。それはあってはならないことだ。
「……俺、今日部活行かない」
丸井の言葉に真田は何も言わなかった。入学式から練習があると知って幸村と盛り上がっていたのがずっと前のことのように感じられる。仁王がいないだけで不安になる。どこにも行くなと言ったとき、仁王は笑っただけだった。
そのままどうにか鞄は忘れずに学校を出る。学び舎は賑やかで、丸井は追い出されたような気分になった。どうしてここに仁王がいないのだろう。抱きしめたい人がいない。ネクタイの上から胸に触る。仁王からもらった鍵は首から下げた。鍵っ子じゃ、と笑っていたのはつい最近だ。それでも「最近」は「昨日」じゃない。制服の上からぐっと握って走り出す。向かう先は迷うまでもなく仁王の部屋だ。残っていれば賑やかな放課後になるはずだったのにと思ってみても、そこに仁王がいなければ意味がない。
全速力で走るには鞄は邪魔だったが、新学期早々なくすわけにもいかない。脇に抱えて桜並木を走り抜ける。マンションが見えて角を曲がった瞬間、何かが飛び出してきてぶつかった。何か白っぽい動物だったがそれに構う間もなくマンションに飛び込んで階段を駆け上がる。仁王が部屋に入れてくれるようになるまで、人目から逃れて階段の途中で話し込んでいた。触れ合っていたのはお互いの手だけで、欲張りな丸井は満足できなかったけれど幸せだった。ここだって仁王がいなければ意味がない場所になる。
いつものように入ろうと飛びついたドアには鍵がかかっていた。丸井が何度言っても面倒だと簡単に済ませて、施錠していなかったのに。渡された鍵がスペアキーではないと知ったときは驚いて、返そうとしても受け取らないのでこっそり置いて帰ったこともある。それは気づけば制服のポケットに入れられていた。混乱する頭で考えて、しかし鍵がかかっているのなら仁王が中にいることになると気づいてかっと怒りがこみ上げた。真田も引き込み丸井をからかっていたに違いない。ネクタイやボタンをもどかしく思いながら鍵を引っ張り出し、ドアを開けて飛び込む。「仁王ッ!」
待っていたのは策略が成功して笑う仁王でも体調が悪くて寝込んでいる仁王でもなく、誰もいないと言う静寂だった。必要最低限しかものがなかった部屋はこの半年で色々と増えている。ふたりで買いに行ったものや丸井が持ってきたもの、丸井が喜びそうだからと仁王が手に入れてきたもの。いつの間にか増えていたことに今更気づき、そして仁王がいないこともわかる。自然に閉まったドアが丸井の背を押して、そのまま歩みを進めて中に入った。仁王の部屋にはクローゼットもベッドもない。隠れることができる場所はトイレぐらいだ。確認するのが怖くて立ち尽くす。ここは、確かに仁王と自分の場所だった。仁王が自分を受け入れてくれた証で、ふたりきりの時間を一番長く過ごした場所だ。
玄関から見える部屋の隅には布団がたたんで積んである。枕はひとつ、ふたりでいるときはいらなかった。真ん中に置かれたローテーブルはホームセンターで安くなっていた傷物で、ふたりで囲んで食事をした。作るのはいつも丸井だったから、台所をそれらしくしたのは丸井だ。窓を飾る青いカーテン、いつだったかの早朝、海みたいだと仁王が呟いたことがある。風ではためいて波のようで――ベランダが開いていることに気づく。仁王、呼んだ声が思いがけず小さく情けない。首にかかったままの鍵を握りしめて靴を脱ぐ。電気の消えたトイレを覗くが浴槽の中にも仁王の姿はない。足音を殺して入っていく丸井を歓迎するようにカーテンがひらめいた。狭い部屋ながらについているベランダは仁王のお気に入りで、夜中に目が覚めてみればそこで空を見ていたこともある。ゆっくり足を進めて、急に凪いだ風で重く垂れ下がったカーテンを掴んだ。息を飲んでカーテンを引けば、その青の向こうには誰もいない空間があるばかりだ。魔法がとけたようなあっけなさを感じているとまた風が吹いて丸井の頬を撫でる。
「仁王……」
ベランダに出てみても何も変わらない。手すりに手をかけて下を見下ろしても真下の部屋の洗濯物と駐輪場が見えるだけだ。仁王がここにいないだけなのにどうしようもなく嫌な予感がする。買い物に行っているだけかもしれない。まだ実家にいるのかもしれなかった。実家がどこなのか、教えてくれなかったけれど。秘密ばかりの男だった。真っ直ぐに自分を見つめて好きだと囁いてくれる姿は嘘をつかなかったけれど、言えないことがたくさんあるとも言った。
拭いきれない不安が怖くなって部屋に戻り窓を閉める。鍵をかけて振り返ったとき、ローテーブルの上に何かがあるのに気づいた。眠る仁王を起こさずに帰るときなどに使っていたメモと、いつも髪をまとめるのに使っていた紐だ。もらいものだと笑って言いながら、決して手放さなかったもの。ふらふらと近寄って座り込み、メモを手に取る。変な持ち方をするせいか癖のある字は仁王のものだ。丸井が筆跡偽造したみたい、と笑ったのはカクカクとしていたからで、あのときは柳に字を習うほど傷ついたとは知らなかった。あまり上達の見られない字を追う。目に映るのに理解ができない。『またいつかどこかで』
ほしいのはそんな言葉じゃない。今ここで抱きしめて、涙を止めてくれる温かい手だ。あやしてくれる唇だ。メモを握りしめて机に伏せる。溢れてきた涙にもう仁王はいないのだと思い知らされた。どこへ行ったのかどうしていなくなったのか、何もわからないけれど、こんな日が来るとわかっていた気がする。いつか仁王はいなくなるのだと、ずっとヒントをくれていた。同じ年のはずなのにもっと大人びていた仁王に呆れられたくなくて物わかりのいいふりをしていたのは、気づいていないとアピールしたかったからだ。
「なんでだよぉ……」
たくさんの物が欲しかったんじゃない。求めていたのは仁王だけ。
「ばか、ペテン師、さいっあく……ああああ!」
仁王がいない。ずっとごまかしていたくせに、最後にこんなメモで嘘をついた仁王が憎い。殴ってやりたいのにここにいない。机に突っ伏したまま泣き続ける。胸元の鍵がぶつかって音を立てるのもうっとうしくて、真新しい制服が濡れていくのも仁王のせいにして涙は溢れた。どうしてこうなるのだろう。そばにいてほしい以外に、望んだことは他にないのにそれだけが叶えられない。
幼い子どもが駄々をこねるように机を叩いて散々泣いて、少しおさまってから顔を上げる。仁王が残したメモは手の中で握りつぶされていて、鉛筆で書かれた文字は汗でにじんでいた。どうせいなくなるなら、俺がお前を嫌いになれるようにしてくれればよかったのに。涙は止まらないが立ち上がり、台所へ向かって顔を洗う。丸井が来てから増えたタオルは全部洗濯してあって、一番上のもので顔を拭った。大嫌いだと言えればいいのに、自分の好きな匂いがする。
頭が痛い。泣きすぎだろう。仁王が屋上で女とキスをしていたという噂がたったときも散々泣いた。しかしこの思いはあのときとは比べものにならない。仁王が誰かのものになるのと、そこに存在すらないのでは違う。狭い部屋の真ん中にローテーブル、ベランダ側にカーテン、衣装ケースに教科書類の入ったカラーボックス。布団に近づいてみると、たたまれた布団の上に何かが乗っていたような窪みがある。そこに仁王の髪が落ちていた。ずっと短い毛だったが、見間違えない。
「……怒んないから出てこいよ」
言葉は広くなった部屋に四散した。ぐずと鼻を鳴らしてカーテンを開ける。いつの間にか日が落ちて、目の前で揺れている夕日が目に痛い。日を受けたフローリングの床が反射して無数の動物の足跡があるのを見つける。見つけはするがよくわからない。あいつは俺に会わずに犬でも飼っていたのだろうか。腫れたまぶたをタオルで押さえ、深く息を吐く。
少しだけわかった気がした。きっと、仁王が実家に帰っていると嘘をついているときにこの鍵を使うべきだったのだ。そのときに来れば、全てがわかったのだろう。ずるい。人を泣かせてばかりで、重たい気持ちばかり残して、自分は髪を一筋残しただけで消えてしまえばさぞ楽だろう。ふらつく足で部屋を出る。鍵をかけてマンションを離れた。しまわないままの鍵を揺らしながら、あてもなく歩き出す。足が向かった先は桜が咲いたら花見をしようと約束した公園で、春の風に花びらが踊る景色に足を止める。俺結構嘘つかれてるな。少しだけ寂しさが増した。
「丸井先輩」
声が違う。振り返ると切原がいて、少し前まで自分も着ていた制服姿が妙に懐かしく見えた。最後にしたセックスは制服のまま、卒業式のあとだった、なんてよけいなことを思い出す。
「……あの」
「何?」
「……仁王先輩、いました?」
「……お前なんか知ってんのか?」
「いや、何つーか」かっと頭に血が上り、切原に歩み寄って胸ぐらを掴む。丸井の様子にわずかにひるんだが、切原はきゅっと唇を噛んだ。
「なんで俺が知らなくて、お前が知ってんだよ!」
「知りませんよ!誰も仁王先輩の考えてることなんてわかんないんすから、あんただってわかんないくせに!」
「う、る、……うるせえよばかッ!」止まったはずの涙がまた溢れ出し、そのまま切原にすがりつく。よろけた切原も踏みとどまり、じゃあ、と震えた声で言った後一緒に泣き出した。
「やっぱり仁王先輩いないんすね……」
何もわからなかった。何を考えて笑うのか、何を考えて泣くのか。仁王はいつだって自分の行動を見越していて、抱きしめてほしいときに抱きしめてくれて優しい言葉をくれた。甘えていた自覚はある。でも仁王のことをわかろうとしなかったわけじゃない。仁王のことを全部知りたかったのに、仁王は許してくれなかった。どんなに心を開いても最後の一歩だけ進ませてくれなかった。
切原は案外あっさりと泣き止み、まだ肩を揺らしている丸井を引っ張ってベンチまで連れていった。薄暗くなる中、涙越しに桜がぼんやりとしていてきれいだ。仁王にも見せてやりたい。このみっともない姿と一緒に、お前のせいだと。「仁王先輩言ってたんすよ、高等部行かないって。口止めされてたのもあるけど、卒業しても誰も言わないから騙されたのかなって思ってて」
「……なんでお前なんだよ……なんで俺じゃなかったんだよ、なあ」
「わかんないけど、でも、泣き顔見たくなかったんじゃないですか?ずるい人じゃん」 「……何よりお前ってのが腹立つ」
「はあ……いいですけどね。……俺はなんとなくわかる気がするんすよ。俺以外の人って信用ならないっつーか、傷ついてる隙にさらって自分のにしちゃいそうじゃないっすか。俺だったら丸井先輩が揺らぐこともなさそーだしね」髪にかかった桜を振り払って切原は笑う。自分はまだ笑えそうにない。
「仁王先輩が言ってた。俺はずっと2年エースじゃいられないんだって。レギュラーから俺だけ中学残って、俺が高等部行ったときに俺の場所が絶対あるわけじゃないって。ちゃんと考えたら怖くなった」
「……俺は、お前になりたい……」
「丸井先輩?」
「俺に言えないことを聞いてるお前にむかつく。俺に言えないことをお前に言った仁王にむかつく。でも言ってもらえない俺が一番むかつく」
「……丸井先輩すぐそうなるからさ、仁王先輩だって俺らと同じガキだし、見たくなかったんじゃねえの。あんた機嫌損なうと笑わなくなるもん」
「……そうさせてんのは仁王じゃねえかよ……」気持ちの整理ができない。不満はあるが仁王にいなくなると聞かされていた切原の気持ちを思うとそれも耐え難い気がした。仁王がいなくなるまで、1日が終わっていくのに耐えられなくて頭がおかしくなるかもしれない。
「そういや全然関係ないんすけど、さっき俺狐見たんすよ。狐って初めて見た。狐色じゃなくて真っ白だったけど」
「……関係ないにもほどがあるぜぃ」
「なんか食いに行きましょうよ。泣いてたら腹減るばっかっすよ。補給しなきゃ泣けませんって」腫れたまぶたは熱を持っている。仁王の部屋から持ってきたタオルで顔を覆ってうつむいて、深く息を吐く。こんなところで後輩に慰められなくてはならないのも仁王のせいだ。空腹に気づかないのも時間が過ぎるのが早いのも。
次の日高校へ向かうと教室で幸村が待っていた。あまり寝れなかったせいで腫れたまぶたもバレてしまったが、何も言わずに笑った。やっぱり仁王はどこのクラスにもいないようだ。昨日部活何やった?口を開くと仁王の話をしないつもりの丸井をくんでくれたようで、基本だったよ、と返してくる。幸村の近くにいると安心するのは、自分を大事にしてくれているのがわかるからだ。仁王との違いは説明できないのに、仁王がいい。どれほど泣いても尽きない涙がこぼれて、すぐに拭ったが幸村に見られただろう。
これから仁王はずっといないのだろうか。ひょっこりと帰ってきて、泣いている自分をからかったりしないのだろうか。それは願望で、きっとないだろうとわかっている。その日は授業も部活も出たが上の空で、休憩のたびに周りに心配された。仁王がいればいいだけなのに。「私の妹が、昨日狐を見たそうですよ」
「狐?こんな町中でか」
「小学校の近くでと言ってましたから。しかも仁王くんみたいに真っ白だった、なんて言うんです」
「……俺たち、狐に化かされてたのかもな」
「3年間も?」ジャッカルの言葉に返した幸村も呆れたような表情で、柳生の唐突な話に涙が引っ込んだ。ラケットのグリップを握り、自分がここにいることを実感する。そういや、丸井が口を開くと周りに緊張が走り、いつまでも甘えていられないと感じた。中学1年の後輩がいなかった頃、一番かわいがられていたのは自分だと思い出す。あの頃の仁王は怖いだけだった。平気で部活も学校もサボってしまうし言動も遠慮がなくて、小学校では大概ガキ大将だった丸井でも距離を置いていた。きっかけは何だったのだろう。
「赤也も昨日、狐見たとか何とか言ってた」
「へえ、じゃあやっぱりいたのかな」
「……赤也が、仁王から聞いてたんだって。高等部行かないって。あいつ、何がしたかったんだろう」
「……何をするでもない、気まぐれだったのかもしれませんよ」仁王。どれほど呼んでも報われない言葉は死んでしまうのだろうか。溜息をつくように幸村が呟いた。
「化かされてたなら悔しいな」
仁王がいないまま高校生活は始まり、何不自由なく回っていく。部活はハードで勉強も難しくなって、仁王がいないことが当たり前になっていった。丸井の首に掛かった鍵だけが仁王のいた証拠として、時々周りに思い出させる。羽目を外して遊んでみたり部活に打ち込んだり、ひとりで旅行に出たりいろんなことをしてみた。そうしている間に桜の木は色を変え、日差しは熱を持ってくる。
鈍く光る鍵を見つめて、切原から聞いた話を思い出した。空いたポジションはいつまでも空じゃない。ぽっかりと空いた仁王が占めていた部分は揺るぎなく丸井のほとんどだと思っていたのに、少しずつ別のもので満たされていく。一緒に昼食を食べる友人、放課後いつまでも話し込んでいる場所、少し背が伸びた丸井の笑顔の先。そのどこにも、今は仁王が入る隙間がない。時々空いた時間や寝る前に鍵を握りしめて念じても、だんだん何を望んでいるのかわからなくなった。あんなにも帰ってきてほしかったのに、今はどうしたいのかわからない。この数ヶ月で丸井は変わった。精神的にも肉体的にも成長し、仁王がいなくなってからも誕生日は過ぎた。きっと同じように変わっているであろう仁王に会うのは少し怖い。来週から水泳の授業が始まる。何でも器用にこなすのに泳ぎは不得手な仁王を思い出したのは、もう自分だけなのだろうか。ほとんどが中学からの持ち上がりの生徒であるから仁王を知っているはずなのに、彼らの日常生活に仁王は組み込まれていない。晴れた休日、仁王の部屋へ向かった。入学式のあの日から近寄ってもいなかったが、仁王がいないのならあの部屋はどうなっているのだろう。家賃を払っていないのならもう家財も出されてしまっているのかもしれない。
鍵を握りしめて恐る恐るマンションに入り、まずは郵便ポストを確認する。仁王は名前を入れていなかったが、今もプレートには何も入っていない。チラシがはみ出すほど差し込まれているから、少なくとも別の誰かが入っているということはなさそうだ。それでも部屋に向かうのははばかられて、一度出てベランダ側に回り込む。部屋を見上げればあの青いカーテンはすぐに見つかった。きっとまだ入れる。心を決めて部屋に向かい、震える手で掴んだ鍵をどうにか鍵穴へ差し込む。かちり、と鍵は回り、ゆっくりノブを引くと開いていた。廊下を人が歩いてきたので慌てて中に入る。しんとした部屋にはわずかに面した道路を走る車の音があるぐらいで、ことりとも音がしない。丸井の心臓ばかりがうるさかった。――窓が、開いている。下から見たときはそれどころではなかったが、カーテンがかすかに揺れて丸井を誘った。埃っぽい匂いが鼻につく。きっと泣きそうなのはそのせいだ。薄く埃をかぶったフローリングに、いくつかはっきりと汚れた足跡が残っていた。入り乱れる足跡は獣と人間がいたことを示している。しかしその足跡に埃がかかっているから、最近ではないのだろう。どきどきとうるさい心臓をなだめるために、前にきたあのときと何も変わらない部屋を見回してから中へ入った。ふと見た天井の電気には蜘蛛の巣が張っている。その真下にあるローテーブルに目を留めて、最近では流さなくなった涙がこぼれたのがわかった。
『誕生日おめでとう』
言わなきゃわからないと何度言わせれば気が済むのだろう。仁王のように物わかりがいいわけじゃないから、口にしてもらわなければわからない。来るなら来ると知らせてくれればよかったのだ。今更そばにいろとわがままは言わない。どうしてと責めたかもしれないけれど、仁王が離れることを選んだのなら丸井には何もできないとわかった。だからせめて、一言文句を言ってもう一度抱きしめられたかったのに。
窓を閉めて丸井が来た証拠にする。まだ仁王が来ることがあるかもしれない。ふと思いついて冷蔵庫を見たが、中身は空で電源も抜かれていた。冷蔵庫の前にしゃがみ込んだまましばらく泣く。仁王に会える「いつか」も「どこか」ももうないのだ。首から鍵を外し心なしか色が鈍くなったそれを握る。また泣いてしまいそうでメモには触れない。たくさんのいらないものを置いて部屋を出る。鍵をかけて、新聞受けから鍵を中に入れた。自分にためらいを許さずに押し込み、からんと響いた音の意外な大きさに驚く。これは、もうここへ来ない証拠として。マンションを出るとまぶしい日差しが降り注いだ。仁王が行ったことがないと言っていた海に、今年は行こうと思う。あんなカーテンでは海は作れないと確認しにいくのだ。ここを離れた仁王は海を見ただろうか。去年の夏が思い起こされる。遊ぶ暇も遊びたいという気持ちもなくテニスに打ち込んだあの暑い夏、隣に仁王がいた。試合に負けた彼が思った以上に落ち込んでいたように見えたのは、目指していた三連覇を目前に敗北を感じたからかもしれない。
時間を見たくて携帯を取り出すとメールが来ていた。仁王が持っていなかったのであまり使わなかったが、元々やりとりは好きであるから新しいクラスで登録されたアドレスはぐっと増えている。その中のひとつからのメールで、女子からの呼び出しだ。自分に好意があるのは態度でわかる。大事な話があるから会いたい、と言われては、どういう意味なのかわかってしまう。少し迷ってそれに応じた。その気がないのにごまかすようなことはしたくない。
駅前まで出て待ち合わせた出口で、丸井が少し遅れたせいで男に声をかけられていた。かわいい子だから仕方ないと思いながらも悪いことをした気になり、すぐに駆け寄って追い払ったが、嫌な男を演じた方がよかった気がした。ありがとうと笑う彼女は素直にかわいいと思う。仁王はすぐに自分をかわいいと言ったが、こんなにわがままで意地っ張りのどこがかわいかったのだろう。 移動したファーストフード店で告白をされた。初めてじゃない。頬を染めて真剣な目を向けられて、やっぱり申し訳なくなる。嘘でも好きだと言ってやれない。「ごめん」
「……幸村くんから聞いてる。好きな人がいるって。でも、……いないんでしょ?」
「うん」
「……なんで?」
「さあ。でも、これでもちゃんと、大事にされてんだよ」言葉の最後で声が震えてしまってうつむいた。なあそうだろう?俺は間違ってないだろ?誰かに問いかけてない答えを待つ。俺も好きだってちゃんと言いたかったよ。メモじゃなくてこの口で。狐に化かされているだけならよかったのに。ごめんねと謝られて笑って見せた。
「俺怖いんだ。少しずつ俺の中からあいつが抜けてく。ひとつも忘れたくないのに、もうあんまり覚えてない。……だからさ、全部忘れる日があったら、その日から俺はまた誰かを好きになるよ」
「……いつになるの?」
「さあ。でも、忘れる覚悟はしてきた」きっとそのための秘密だったのだと思う。全てを話せば仁王を忘れることができないような問題を仁王は抱えていたのだろう。自分を大事にしてくれていたことはよく知っている。温かい手も優しい言葉も甘い口づけも、忘れることはできないだろう。それでも自分の中ににじんで表に出なくなる日が来るはずだ。
紅葉を見に行くのを忘れてしまっていたと思い出した。彼が今年はきれいな紅葉が見れるように、丸井もひとりで見に行こうと思う。 季節は確実に夏に近づいていた。切原が優勝を手にする日は近いはずだ。自分もうかうかしていられない。
強くなりたいと願う。そしてどうか、仁王も泣いていますように。