さとうつぼに蟻 3
腹が減った。休み時間の間に学校を抜け出し、仁王は近所のコンビニへ走る。レジに立つ店員が若いアルバイトであるのを確認して中に入り、パンやおにぎりを適当に掴んで素早く買い物を済ませた。一応学校へは戻ったが、教室に戻るのはうっとうしくて屋上へ向かう。途中ジャッカルとふざけあっている丸井と目が合ってしまい、ビニール袋を隠して逃げた。
――3日前、丸井と二度目のセックスをした。ふざけて近づいてきた丸井をベッドに押さえつけて、お遊びでもなんでもなく、あれは強姦だ。抵抗の言葉を叫んで泣く丸井に構わず自分の感情だけをぶつけて、好きだと言わないようにするだけで精一杯だった。本当に気持ちがよくて、それなのに鬼になりきれない仁王は後悔を繰り返している。あれからキスはおろか会話もしていない。それなのに反省しない体は丸井を欲し、隙を探して視線を巡らせている。理性はこれでいいのだと叫ぶ。これがあるべき形だ。
腹は鳴るが食欲はなくなり、袋を開けたパンを手にパックジュースのストローを噛む。考えがまとまらない。自分がどれほど丸井に依存していたか思い知って、鼻がつんとして泣きそうになった。視界がぼやけて涙に溺れていく。好きなだけでいられなくなったのはこのおかしな体のせいで、キスを交わすような関係を作ったのは自分で、それを壊したのも自分だ。授業は始まったようだが、見られて構う相手は今更いなかった。うつむいたまま流れる涙に感情を任せていると、近づいてきた足音は近くで立ち止まる。
「……なんでテメーが泣いてんだよ」
「……ブン太」
「ばかじゃねーの。泣きたいのはこっちだっつの。……泣いたけど」それは知っている。泣きながら出ていったし、きっと家に帰ってからも泣いただろう。今まで戯れにキスをしていた相手が突然あんなひどいことをするとは考えてもいなかったはずだ。正面に座り込んだ丸井にまっすぐ見つめられ、居心地の悪さに目をそらす。どうして、今、嬉しいのだろう。丸井が顔を寄せてきて、戸惑っているとぺろりと頬を舐められた。
「お前涙も甘いのな」
「……そう」
「どうしてそんな体なんだろうな」それはきっと、丸井に近づくため。離れるためではなかったはずだ。
「なんで泣いてんの?」
優しく触れたキスに甘えて繰り返す。合間にこぼれた言葉に迷って口づけで時間稼ぎをした。
「――ふられた」
「好きな子に?」
「うん」
「可哀想に。俺にもふられて、どうすんだよ」抱きしめていいのか迷う。触れ合うだけの唇がもっとほしい。キスを中断した丸井の唇が頬に触れ、まぶたに触れて涙を吸う。頬に添えられた両手はあたたかい。
「どうしよう。どうしたらいいかわからん、こんなん初めてじゃ」
「じゃあ俺が決めてやるよ」離れた唇が動く。こんなに怖いと思ったことはないかもしれない。恋なんて愚かな感情だと思っていた。今でも思う。こんなバカなことしか考えられない、恋の病なんて厄介なだけだ。
「とりあえず俺に謝れよ」
「そしたら許してくれる?」
「さあな」
「もう嫌じゃ、ほんまに……」
「仁王」
「……俺の体が食えるなら、ブン太に全部食ってもらうのに」お前ほんとにばかやろうだな。呆れた声はそれでも優しい。いっそ好きだと言ってしまえばいいのに、のどで引っかかってそれ以上上がってこなかった。
「可哀想なやつ」
ちゅ、と唇に吸いつかれて舌が入ってくる。濡れた舌は歯列を割って仁王の舌を絡めとった。くちゅりと水音を立てて口づけは深くなっていく。鼻から抜ける声にあおられてどんどん体が熱くなっているのに、壊すのが怖くて指先も動かなかった。
「ん、はぁッ……」
「ブン太……」
「……じっとしてろ。あと喋るな」何をするのかと思えば丸井は仁王のスラックスに手をかけ、止める間もなくベルトが払われる。止めようとした手も叩き落とされ、何かに取り憑かれでもしたかのような真摯な瞳が仁王をとらえた。じっと見つめあいながらも丸井の手はファスナーを下ろして前を寛げる。
「ブ……ブン太?」
「慰めてやるよ、最初で最後。だから謝れよ」
「……ほんまに、悪かったと思っとる。ごめん」
「俺がどんだけ好きな女に似てんのか知らねーけど、俺は俺なんだよ」
「わかっとる。何であんなことしたんか……ブン太!」体を倒したブン太の手が性器を取り出し、そうかと思えばそこに唇が触れる。一気に背筋を駈け上がっていく快感と、何が起きているのかわからない困惑とで夢を見ているのかと疑った。しかし仁王のものに舌を這わせている丸井は確かにそこにいて、この快感は間違いなく仁王を現実に引き止めている。浅ましい体はすぐに熱を集めてかたくなり、丸井の吐く熱い吐息がかかって震えた。
「ん、ちゅ……は、ばかみてぇ、男に舐められておっ立てて」
「う……」
「はぁ……しかもこないだは、人のケツに突っ込んでデカくして」
「ブン太、やめ……」
「ん、ふ……出てきた」
「ッ、あ……!」先走りを舐めとり、先端が口にくわえられる。頭の中が真っ白で、あのときお互いに触れ合ったときの手つきよりも先日強引にセックスに持ち込んだときよりも気持ちいい。丸井の手の中でびくりとふるえたものは早くも限界を訴えている。
「ブン太やめ、どうして……」
「ん……甘い」
「ッ!」
「……いいよ、ふぁ……出せば?」くぷ、と音を立てて丸井の口が熱を飲み込んでいく。かっと熱を増した体は抑えがきかず、丸井を引き離そうとしたのも間に合わずに口の中で達した。肩を揺らした丸井は軽くむせたようだが、ゆっくりとのどを鳴らして飲み込んでいく。思考が置き去りにされたままの仁王は状況が理解できないまま、荒い息をこぼした。甘い匂いが鼻につく。
「んん……遠慮なく出しやがって、誰でもいいのかよコイツは」
「うッ」
「しつけのなってねえちんこだな」萎えたものを指で弾かれて体が強張った。薄く笑っていた丸井はすぐに頭を下げて口元を拭う。
「……ブン太……なんで……」
「……ほんとに甘いのな。俺が女だったら、喜んでお前とつき合ってやんのに」どきりと胸が痛む。どうして少し違うだけなのに、こうも擦れ違うのだろう。このときはっきりと、自分たちはこれからもこうして交わらずに行くに違いないと確信した。元々大きさの違う輪は決して重なることはない。男同士で体を合わせても気持ちよかっただけで、あとに残るのは罪悪感ばかりだ。
丸井の顔が見れなかった。どんな顔をして仁王に触れたのだろう。丸井がいなくなった屋上で、久しぶりに土の匂いを感じた。
*
学校に行くのが嫌だった。どうして昨日あんなことをしてしまったのか、訳がわからない。何かに取り憑かれていたに違いない、強引に言い訳をしながら鏡を覗き込んで寝癖を直す。赤い髪が今日は心なしか元気がない。
丸井はもう何度目ともわからない深い溜息をついた。溜息をつくと幸せが逃げるなどと聞くが、そんなものとっくに失われてしまった。どんな顔をして仁王に会えばいいのだろう。仁王の体がおかしくなって、他に誰も知らない秘密をふたりで共有していたのはそう長い期間じゃない。角砂糖に集まる蟻のように甘い体についていき、誘い込んでキスを繰り返していた。言葉通り甘い行為で、仁王は食べてしまいたいほど甘かったが何より丸井を喜ばせたのは仁王の温もりだった。あの仁王が自分を抱きしめて、まるで恋人にそうするように優しいキスをくれた。今まで生きてきた中で、あんなにも満たされていた時間があるだろうか。
――ずっと、彼がほしかった。飄々として正体が掴めないのに愛される、あの男を自分だけのものにしたかった。(……目、腫れてる)
また泣いてしまった。――好きでいるだけでいられない自分はきっとわがままなのだろう。繰り返されるキスがどれほどもどかしかったことか。好きだと言ってしまえば、仁王も自分が好きだと言ってくれる気がした。それをできなかったのは、仁王が時々悲しそうな表情を見せたからだ。
それでも、キスを嫌がらない仁王に惑わされていた。喜んで騙されていたのかもしれない。告白しようと決めた日に、冗談のつもりで言った言葉の返事に打ちのめされた。仁王に好きな人がいるなんて思いも寄らなかったのに。あんなに甘いキスをくれる男は、丸井を抱きしめながら他の女のことを考えていたのだ。どうして、自分ではなくて。姿も名前も知らないその女を恨んでみても、思い浮かぶのは自分だった。その日、仁王のうちに泊まった夜。できるだけ仁王を避けて先に眠ったのに起こされて、ヤケクソで交わす言葉の何が琴線に触れたのか、仁王の欲望を見せられた。合宿などでちらと見たことがある程度の性器に触れさせられ、この手で彼を追い込んだ。甘い匂いの中で達したときの仁王の表情に泣きそうになりながらキスをして自分も仁王の手の中で果てた。
何がほしかったのかわからなくなっていた。好きな女がいると言った仁王は自分とセックスをしたのだ。女とするようなものではなかったけれど、ほとんど裸になって互いの唾液でベタベタになるほどキスをして急所をさらして。気持ちが通じていれば恋人同士だ。その肝心の、丸井が一番ほしいものがなかった。目ににじんだ涙を拭い洗面所を出る。目ざとく見つけてきた弟がどうしたの、と心配してくれるが、今は少しうっとうしい。八つ当たりをしてしまう前に寝不足、と端的に答えて突き放し、今はあまりほしくない朝食を口にした。母親にまで心配されたくない。仁王に会いたくないのに会いたくて仕方がなかった。体が甘くなった仁王とキスをするようになってから、ほとんど毎日そうしていた。丸井にとっては麻薬と似たようなものだったのかもしれない。まるで丸井のためのように甘くなった体は、丸井を仁王につなぎとめた。仁王のことしか考えていなかった。ずっと。
「あんた何のんびりしてんの、寝坊してるんだからさっさと食べて!」
「あっ、じゃあ包んで!支度してくる!」
「もう!歩きながらは食べないでよ!」弁当と別に作ってもらったおにぎりを持って家を出た。腹が減ってそうなら仁王に、と思ってしまってからうろたえる。果たしていつものように振る舞えるだろうか。仁王に無理やり犯された日からはさすがに顔を合わせられず、そして昨日、仁王のそばに行きたくてあんなことをした。思い返して血の気が引いてくる。仁王はなんと思っただろう。自分の気持ちがばれたんじゃないだろうか。そうでなくとも軽蔑されているかもしれない。仁王のものをくわえて自分も興奮し、それに気づかれないうちに逃げ出した。そんな別れ方をしていて、今日どんな顔をすればいいのだろう。怖い、と思う。
先を望まなければよかったのか。ほしいときに気持ちのいいキスをもらえるだけで満足していれば、こんな思いをしなくてもよかったのだろうか。それでも好きなのだから仕方なかったのだと自分に言い訳をする。好きと思うだけでいいだなんて丸井には思えなかった。ほしい。キスをして抱きしめて、一緒にいようと誓える仲になりたいと思って何が悪いのだろう。
どうして好きと言うことさえはばかられるのだろう。男同士でだって男女のようにセックスはできた。仁王は乱暴で気持ちよさよりも痛みばかりの行為だったけれど、丸井に残ったのは喜びだった。泣きそうになって奥歯を噛む。学校へは行きたくない。通学路を外れて学校近くの公園へ向かう。朝のこんな時間には誰もおらず、それでも隠れるようにトンネルの形をした遊具の中に入り込む。砂っぽい地面に座り込み、膝を抱いて小さくなった。女になりたいわけじゃないが、対等でないことが悔しい。膨らみのない胸を触られても感じたのに仁王は戸惑いを見せ、行為の間中ほとんど口も聞かずに丸井の顔も見なかった。どこで得た知識か知らないが排泄器官に指を入れられた行為も急いていて、仁王が興奮していることは同じ男としてわかったけれど悲しかった。しかし異物感の中に快感があった。ねじ込まれた暴力的な熱に与えられたものは苦痛であったけれど気持ちよかった。好きだというだけで自分が何でもできるのだと知って、それなのに女の代わりにしかなれないことが悔しがった。
――空の見えない場所にうずくまっている自分が惨めだ。全身で仁王を求めるほど会いたいのに呼び出せる立場ではなくて、したいときにキスができてもそれは丸井のものにはならなくて。じわりと涙がにじんできてすぐにこぼれだした。昨日屋上で泣いていた仁王のように、失恋の涙は痛い。今すぐ誰かに抱きしめられたい。誰かじゃなくて仁王がいい。抱きしめてあの優しくて甘いキスがほしい。ぐずぐずと鼻を鳴らしているうちに膝が濡れていく。「ブン太?」
名前を呼ばれてびくりと肩を震わせる。足音に気づかなかったせいだけじゃない。今一番会いたくて一番会いたくない、好きな人の声は耳に心地よく、何度だって呼ばれたいのにそんなわがままを言うこともできない。足元の砂を踏みしめて、仁王も潜り込んでくる気配がする。顔を上げずに涙が途切れるのを待った。やめろ、近づくな。ほしくなってしまう。
「どうしたん?」
「……ほっとけよ」
「でも」
「……俺もふられたんだよ」
「……好きな人、おったんや」黙り込んだ仁王が隣に座ったのがわかる。触れていないのにかすかに伝わってくる体温と埃っぽい匂いがミスマッチに思えて、どうしてこんなことになったのかと考えながら深呼吸をした。赤い髪は自信の証だったのに、情けなくうなだれている頭は仁王の目にどう映っているのだろう。仁王を好きになった日もこうだった。仁王は黙ってそばにいて、落ち込む丸井を慰めることも叱咤することもせずに接してくれた。不器用で愛しい。仁王がそばにいるときはこのままでいいと思うのに、離れた途端貪欲になるのはなぜだろう。思いを告げてもいないのに、失恋なんて。
熱く甘い口づけを繰り返すうちに、仁王を手中におさめた気になっていた。好きだと言われているような気がしていた。だってあんなに強く抱きしめるのに。同じ男の丸井を突き放さないのに。そう思った矢先に肩を抱き寄せられて、あたたかい腕に包まれた。顔を上げずに泣き続ける丸井の髪に顔を寄せて、仁王の呼吸が近くなる。「……ッ……ばか!」
手を伸ばして抱きしめ返した。ぎゅっと乱暴に抱いて、仁王の髪をそばに感じる。こんなに好きなのに、こうして抱き合えるのに!
せめて今だけは、仁王の目に映るのが自分でありますようにと願う。女々しくて嫌になった。どうして自分じゃだめなのだろう。「ブン」
仁王の両頬を捕まえて唇を奪う。一方的な口づけにも反射のように舌が絡んできて、しかし次の瞬間丸井は仁王から離れてしまった。きっとまぬけな顔をしているのだろう、丸井を見る仁王の顔は戸惑っている。
「ブン太?」
「お前治ったの?」
「え?」
「甘くない……」言ってしまってからはっとする。自分の手を舐めてみる仁王の動きが涙でにじんだ。――今のが、最後のキスになってしまったのだと悟る。甘いものを求めるふりで仁王に触れていたのに、その理由がなくなってしまった。
ぎゅっと心臓を鷲掴みにする痛みが体を襲った。ぽろりとこぼれた涙が頬を流れていく。また何も言えなくなってうつむいて、仁王もじっとしているのを感じていた。なんだよ、そんなに俺を代わりにしたいのか。これ以上情けない顔をさらしたくなくてまた元のように小さくなって隠す。うまくない。こんなやり方はよくない。俺のやり方ではないし、俺でもない。そう思うのに、どうしてこうなるのだろう。
本当に終わってしまった、どうしてあんなことを。何も気づかないふりをして、どうせ最後のキスになるのならずっと幸せなものにしたかったのに。めちゃくちゃだ。仁王の溜息を聞いてびくりとする。こんなのは嫌なのに。手に入らないのならもっと納得できるような。昔、砂糖の入れ物に蟻が群がっていたことを思い出した。仁王にとって丸井はその程度のものだったのかもしれない。仁王の甘さに誘われてベッドにしのびこんだあの小さな生き物たちよりは大きくて、好きな人に似ていたのだ。ダッチワイフじゃねえかよ、自分をおとしめることしかできない。さぞかし都合がよかったことだろう。甘いものを与えておけば言うことを聞いたのだから。
「ブン太、手、貸して」
優しい声に従って何も考えずに片手を下ろす。その手に触れたあたたかいものは多分仁王の手で、ゆっくりと指を絡めてつながった。ばかやろう。消えればいいのに。
止まらない涙を待って、落ち着いた頃には腹が鳴りだした。自分の食欲にうんざりする。格好悪い、鼻を鳴らしてごまかしてみてもしっかり聞こえていただろう。緩くつないだ手がじとりと汗ばんでいたけれど離したくなかった。自分から離すことはできない。「なんで、俺を好きにならねーんだろう。俺はこんなに好きなのに」
仁王はそうやのう、と小さな声で返しただけだった。お前のことだばかやろう。泣きたくて、泣くことしかできなくて。砂糖つぼに群がる蟻は、砂糖と一緒に水に流されてしまったことを思い出した。さっきしたキスの味をもう思い出せない。最初で最後の、甘くないキスだったのに。
080425