いとしいとしというこころ
真田くんが好きです。でも、自分の方が、もっと好き。
部室でぼんやりしているうちに、仁王はひとりで残されてしまった。よくあることなので特に気にせず、膝を抱えた姿勢で椅子に座ったまま並べられたトロフィーを見ていた。テニスを始めて三年経つ。他のメンバーが小学生の頃から始めているのに比べれば、中学でテニス部に入って初めてラケットを握った自分の努力は相当だったに違いない、と自画自賛してみる。それもこれも、彼と同じ場所に立ちたかったというかわいらしい理由なのだがら笑えない。まめな人間がいるので埃を被っていないトロフィーが光り、仁王は笑われた気分になる。
足音が聞こえてきてドアに目を向けた。目的もなく時間を過ごしていたわけではない。この時間が、ときどき欲しくなるだけだ。ドアが開けられて真田の姿が見えたとき、胸が高鳴るような気がする。哀れな詐欺師だと、誰も知らないから自分で笑った。「なんだ仁王、まだいたのか」
「ちょっと環境破壊と恋愛の関係性について考えとったんじゃ」
「なんだそれは、どう関係しているんだ」
「しとるじゃろ。特に女は。化粧すりゃティッシュ使うし落とすのにも水使うし髪を洗うのだって男みたいにはいかんじゃろ」
「そんなことを考えている余裕があるなら柳生と仲直りしたらどうだ」
「やかましい」柳生と揉めたのはつい昨日だ。冷静になっても自分に非があったとは思えないから、少なくとも謝ってやるつもりはない。靴箱に入っていたラブレターを丸井と切原で回し読みしていたら、君は日頃から女性に対する配慮と言うものが欠けています、と柳生が怒り出したのだ。配慮も何も嫌いなのだから気を使うつもりは一切ない。しかし俺はホモなのだとその場でカミングアウトする度胸は流石になく、仮に言ったところで柳生ならそれとこれとは別だと言いそうだ。
「ラブレターは資源の無駄じゃ」
「お前の場合嫌なのはラブレターだけではないだろう」
「うんそう。喋るのも酸素の無駄」
「むちゃくちゃだな」仁王に背を向けて、汗で濡れたユニフォームを脱ぎ捨てた真田は軽く溜息をついた。お前の背中にかじりつきたい、酸素の無駄でも精子の無駄でもいいからお前とセックスがしたい。そう言ってやったらどんな反応が返ってくるのか、想像するだけで恐ろしくなる。ぎゅっと体が絞られるようだ。いくら絞られても、嘘しか出ない。
「オナニーすりゃ紙使うしの」
「……お前はどうしてそうなんだ。今度こそ柳生に愛想尽かされてもしらんぞ」
「ええの、俺ドMやけん」真田を好きでいると本当に殴られる痛みさえ快感に思えることがあるから重症だ。殴られたくなって部活をサボった挙げ句指導室行きの騒ぎを起こしたことが何度かある。そうして何度も容赦ない制裁を下しても、真田は自分を見捨てないのだ。認めてもらえていることが後ろめたいほどに、真田が好きだ。
「仁王、お前は、好きな人がいるのか?」
殺す気か、と思った。椅子に載せていた踵がずるりと落ちて、その勢いで思い切り机を蹴ってしまい爪先がじんじんと痛む。大丈夫か、と顔をしかめた男は、誰かに何かを吹き込まれたのだろうか。
「な……何で?」
あまりにも気の利かない返答に後悔した。これではまるで動揺しているみたいじゃないか、頭を抱えたくなりながら代わりに膝を曲げて小さくなる。この手の話題に慣れない真田は、いや、と言葉を濁した。
「その……他のやつらは、楽しそうに恋の話をするだろう。お前はいつも、恋の話でも憎らしいように言うから」
「だって恋なんざ楽しくない」
「……仁王?」
「苦しくないときなんかない。いっそ死ぬか、殺してやりたい」
「お前は極端だな」殺したいのはお前だ。顔色が悪いぞ、と頬に触れた指先にようやく真田が近寄ってきていることに気づいて、ぞっと鳥肌が立った。
「熱はないようだな」
「……そんな軟弱じゃなかよ」
*
真田で一発抜いて寝た次の朝、異常に早く目が覚めた。真田なら起きているかもしれないと思って死にたくなった。寝ても覚めても真田ばかりで、思春期の恋なんてろくなものではない。今日は部活も休みで、丸一日休みと言う珍しい日だ。友人に遊びに誘われていたが返事を忘れていたなと思い出す。今更面倒で、充電の切れたままの携帯をほったらかしにしておいた。今日をどう過ごそうか考えながら階下に降りると早朝から仕事に出る父親が息子を見てぎょっとした様子を見せる。
「早いな、部活か?」
「目ェ覚めただけじゃ。暇」
「着いてくるか。東京まで出るんだ」
「んー……」
「近くに水族館があるんだと」
「……ひとりで行けって?」
「デートの下見にいかがですか」
「……デートね」どうせ真田とどうこうなるつもりはないのだから、さっさと開き直って他の誰かとつき合ってしまえばいいのかもしれない。女は気持ち悪い。部員なら切原ぐらいなら丸め込んでセフレぐらいにできるかもしれないなあなどと考える。そんなに簡単に行くわけがないとも思いながら、父親が朝食を出してくれたのでトーストをかじった。
「……ま、暇やし行こうかの」
家にいても真田のことを考えてしまうだけだ。魚でも見て少し冷静になろう。昨日頬に触れた指を思い出しながらそれだけで興奮して、真田を思い出しながら欲情した体から熱を吐き出した。真田と一緒にぐちゃぐちゃとした恋愛にもつれ込む夢を見たのはそのせいか。ビッチ、と自分を罵倒したのは柳生の声だった。胸がむかむかしてきて半分ほど食べたトーストを父親に渡す。
「ちゃんと食えよ」
「食った。着替えてくる」適当に着替えて財布だけをポケットに押し込む。中身は大して入っていないが父親が出すだろう。父親の車に乗り込んで出発する。彼がどんな仕事をしているのかよく知らない。早く起きたせいで車の中では熟睡で、着いたと起こされたときにどうにか金だけもらって車を降りた。熟睡しすぎて若干気分が悪い。
携帯を忘れてきたと言うと呆れた顔をされ、腕時計は持っていることを確認した後、迎えにくる時間と場所を指定された。家にいると母親の尻に敷かれている父親だが、しっかりしていることは確かだ。そうでなければ自分のような長男とこんな風につき合うこともできないのだろう。「じゃあなおっさん」
「おっさん言うな!」視界に入った海に近づき、潮風に当たっていると少し肌寒かったが頭はすっきりした。水族館の方を見遣ると家族連れが何組かいて、それを目当てに歩いて目的の水族館にたどり着く。自動の券売機でひとり分の入場券を買った後、少し虚しくなって入り口から離れた。少し高い場所に作ってある水族館の入り口ゲートからは海が臨める。
今年も神奈川の海へ行くのだろうか。去年部活をサボって丸井や切原と海へ行った。どんな女を見ても真田より魅力的には見えなくて、終わってるなあと思ったことはまだ記憶に新しい。絶望のようなものを感じていたことを思い出す。海風は強く、伸ばした髪が顔を叩いた。風を避けようと体の向きを変える。そのとき目の前をよぎったものを何気なく追いかけ、ひょいと跳ねて捕まえた。手にしたキャップは何となく見たことがあって眺めていると、仁王、と呼ばれて顔を上げる。どうしてこんなところで。鷲掴みにされた心臓がどきどきしているのを感じながら見上げると、困惑した表情の真田がいた。これは夢だろうか、思っていると真田の顔が更に歪む。
「どうした」
「いや、ほんまに海の似合わん男やなあと思って」
「……お前に言われたくないな」
「俺、海似合わん?」
「建物のないところが似合わん」思いがけず抽象的なことを言った真田に驚く。潮風が前髪を乱して視界を遮り、真田がよく見えない。神奈川をはなれたこんな所で偶然出会うなんて、運命的だなあ、と乾いた心で思った。嫌な予感がしてならない。真田がひとりで水族館へ来るなどありえないし、ましてや家族となんて考えられなかった。それ、と促され、キャップを持ったままだと思い出す。やはり真田のものか。何か言おうと思うのに口が回らない。役に立たない体だ。
「弦一郎さん」
どきり、とした。女の声が真田の名を呼んだ。真田はぎくりとして振り返る。女がいる。丸い瞳が仁王と真田を見比べた。
「すみません、すぐ行きます」
「お前の女?」
「ッ……お前はなぜそう下品な物言いしかできんのだ!」それは否定じゃない。解答にならない解答、真田の狼狽にめまいを感じた気がした。手にしたキャップを自分で被り、ぐいとつばを下げる。
「おい」
「女と会うときぐらい外しとれ。顔を隠すのはよくないぜよ。これは明日返しちゃる」
「仁王」
「ついでに明日いろいろ聞いちゃるけん覚悟しとれよ」顔を隠したまま言うと真田は溜息をついた。体を返した真田が行きましょう、と女に声をかける。影の下から様子をうかがうと仁王を気にする女に話しかけながら歩く真田の横顔があり、よそ見しながら歩いていた女はつまづいてとっさに真田の腕を掴んだ。それ以上見ていられずに踵を返す。ゆっくり歩いていたつもりがいつの間にか早足になり、気づけば全力で砂浜を走っていた。砂に足を取られ転けそうになって立ち止まり、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す。水族館の方を振り返っても真田の姿はなかった。
上品な声の、髪の長い女を思い出す。抱き締めたら柔らかそうだと思った。どっと体を襲う疲労に従ってその場に座り込む。湿った砂でじわりと服が濡れていった。きっと、真田が女とふたりきりでいるところを見たことがあるのは仁王だけだろう。あの堅物を怖がる女はいても、好んで隣に立とうとする女なんて今まで見たことがなかった。
ぐっと拳を握ると砂が痛い。海を睨むと風にキャップがさらわれそうになってうつむいた。きらきらと光る海面が目に痛い。だから、涙が出るのだ。あの女は何なのだろう。真田の彼女なのだろうか。どこの女だろう、なぜ東京にい るのだろう、真田が惚れたのだろうか、俺と、どっちが――真田の言葉を思い出して溜息をついた。
涙が口に流れてくる。仁王とは違う真田は、建物が似合わない。水族館よりも直接海に潜っている方がお似合いだ。ずっとそう思っていたのに、少しふくよかなあの柔らかい曲線を持つ女といるだけで、普通の男に見えた。ただの男だった。少しばかり服のセンスが悪いだけで、仁王たちには見せたことのないような一面を見せて。考えてもしょうがないとわかっているのに、あの女と真田の関係しか考えられない。告白したのだろうか、されたのだろうか。真田のことだからセックスはおろかキスもないにして、手ぐらいはつないだのだろうか。どんな話をするのだろう。テニスの話ばかりで呆れられはしないだろうか。どんな顔でどんな言葉で、仁王のことをはなすのだろうか。あの女を怒鳴りつけたことは、まさか殴ったことはあるまい。彼女は真田をどれほど知っているというのか、仁王にさえ女の存在を隠していたあの男とどのようにつき合うのか。あの女がいるから真田は昨日あんな質問を――そうか、と気づく。
真田は自分が恋をしているのかどうかわからないに違いない。きっと幸せなのだ。体を押し潰すような痛みも知らず、いない相手を思ってする空しい罪悪感の残る自慰もせず、笑えば笑い返してくれる相手に恋をしているのだ。真田、それは恋だ。そうでなければふたりで会ったりしないだろう。そうでなければ、あんな、異性へ向ける行為の目をしないだろう。「う……」
声をあげて泣いたのは物心がついて初めてだった。自分が愚かな恋をしているのだと初めて知った。この距離でいいのだと精一杯大人のふりをしていたって、若い仮面は完全じゃない。好きなものは欲しい。何を犠牲にしたって欲しかった。体に鞭打ち胃袋をひっくり返して吐きながらテニスをしたのは真田のそばに行きたかったからだ。本当は涙の滲むような拳ではなく優しく撫でてくれる手のひらが欲しかったのに、それは手に入らないと諦めてしまっていた。好きだからこそ真田が自分のものにならないのはわかっていて、それでもどうにかやっていけていたのは、真田が誰かの物になるはずがないと思い込んでいたからだ。
柳生にビッチと罵られようと親から縁を切られようと、自分は女を好きになれないし、真田に抱かれたかった。そんな空想ももう許されない。膝を抱えて小さくなって、自分が子どもだったことを知った。大人になっついるつもりでもしょせんただのポーズでしかなく、床に転がってだだをこねはしないけれど手に入れるチャンスはずっとうかがっていたのだ。浅ましい、醜い、邪な心の自分なんかを、真田が選ぶはずがないのに。恋で泣くなんて思わなかった。のどが痛くなってきて、大きく息を吐くと体が震える。自分はもっと賢いと思っていた。しかし真実を見ていなかっただけなのだろう。迎えに来た父親に服が濡れていると告げると裸で車に乗せられた。ずっと冷えていたせいかくしゃみが何度も出て、夜中には熱を出した。知恵熱だと思いながら薬で眠り、朝を待った。
*
「あの女誰なん」
真田が入ってくるなり声をかけるとびくりとしてこっちを見た。ああ、警戒している。ふたりきりの部室の端から被っていた真田のキャップを投げてやると、顔をしかめながらも黙って拾った。
「早いな」
誰よりも早く朝練に来る真田より早く来るために起きたのだから当然だ。ふたりきりになるために目が腫れていないのを確認して出てきた。みっともない顔は見せたくない。このプライドがなければもう少し違った反応ができるのだろうか。かわいいと思ってもらえるなら演技でもできたかもしれないが、これは本当の恋だったのだ。できれば、できることならば、自分を認めてもらいたくて。
「デートやったん?わざわざ東京まで行って、やーらしい」
「妙なことを言うな!」
「こそこそしおって、やましいんじゃろ」ロッカーに向かって着替え始めながら、真田は困ったような横顔を見せた。困らせたことはなかったな、と思い返す。何度も怒らせはしたけれど。
「そうじゃない。彼女が東京に住んでいるだけだ」
「ほー」彼女。どんな女なのか知りたくもない。どのように真田をたらしこんだのか、自分とは違うことは確かだ。
「ずいぶん大事にしとるようじゃの」
「……彼女は俺の許嫁だ」
「は」思いがけない返答に口が開いた。散々考えた問題の答えがそれで、あまりにも時代錯誤で笑ってしまいそうになる。告白したわけでもされたわけでもなく、会ったときからそうと決まっていたのか。いや、そうであったとしても、きっと今そこにあるのは恋であるに違いない。机に伏せて笑いを殺す。ペテン師の正体はただのピエロだ。観客はない。
「何がおかしい」
「……他のやつに言ってやったら、どうなるかのう」
「なっ……それだけはやめてくれ!」
「どうしよっかなー」
「俺はかまわんが彼女を笑いものにしたくない」
「死ね」
「何だと!?」
「幸せな恋をしとるやつは、死んでしまえばいい」
「……お前は、どうしてそんなに辛いんだ」
「……俺を見んからじゃ」仁王を見ない目が仁王へ向くのがわかる。昨日その目で、女が笑うのを見たのだろう。ふたつもある目のくせにひとつしか見ることができないのは無駄なことだ。
「俺は恋をしていると思うか?」
本当に死んでしまえばいいのに。ばかな質問に溜息をつく。泣きそうだ。思い出さないようにしていたのに。
「お前のあんな目、初めて見たよ」
本当は熱があったのでそのまますぐに帰った。あとで真田に怒られてしまった。自己管理がなっとらん、と怒鳴る声が弱かったのは、まだ自分が弱みを握っているからだったのだろう。黙っとくからキスして、言ってみると殴られた。熱いキスだ。
しばらく部活に出ずにいると今度は柳生に怒られた。たった二日サボっただけで、うち一日は立派な病欠だったのだが、いまいち柳生は信じていないようだった。別にどちらでもいいと思う。柳生に嫌われても構わない。
「君はどうしてそう不真面目なのです!」
わざわざ仁王を探して怒鳴る柳生に、どうしてそう真面目に生きられるのか逆に聞きたい。柳生といい真田といい、肩の力を抜くときなどあるのだろうか。屋上に吹く風は、潮風とは比べものにならない情けなさで食堂からカレーの匂いを運んでくる。
「お前にはわからんよ」
「わかりたくもありませんよ。今日は部活に出たまえ、丸井くんがダブルスの練習ができずに困っていますよ」
「俺いっぺんだけ男に抱かれたことがあるんじゃ」
「……はい?」
「夜遊びはするもんじゃないの、ぐちゃぐちゃにされて痛いわ気持ちいいわで頭おかしくなりそうやと思うぐらいで、そしたら、頭おかしくなっとったんじゃ」
「何、を」
「なあ俺、恋もまともにできんのよ。テニスも日常生活も、恋で全部狂わされて」
「仁王くん」
「ほんまは他に何もいらんのに、他もやらんといかんし、一番欲しいもんは手に入らんし」
「何を言っているのです?」
「柳生さんにビッチって言われたってしゃーないんじゃ」
「……そんなことを言った覚えはありませんが」
「夢で言われた」
「起きたまえ」冷静な柳生の声で、逆に自分は夢を見ているのだろうかと疑わしくなった。どこから?全部?
「柳生さん、恋って何」
「愛し愛しと言う心」
「は?」
「恋は気持ちであって形もありません。感情であって気分です。ですから、それに支えられたり弱らされたりするだけです」
「……そうけ」
「そうです」
「俺やっぱお前嫌い」
「そうですか」あっさりと言う柳生の言葉で少し楽になったような気がする。どうせこの先も、しばらくは真田のことばかり考えることになるのだ。
「……セックスしたい」
「テニスをしたまえ」
「スだけ合っとるな」興奮した真田が見たい。理性を飛ばして乱暴に自分を抱けばいいのに。喜んで足を開いて腰を振ってやる。軽く死にたくなって、死ぬぐらいなら苦しもうと立ち上がった。ドMじゃのう、自分でぼやくと柳生が呆れて溜息をつく。
「どんな恋で苦しんでいるのだか知りませんが、君のような性格で好きになってくれる人が現れるとは思えませんね」
「……んなわけなかろー、真田やって彼女おるんやから」
「……え?」
「あ、言ってもた」殴ってもらおう。救いようのない恋をしている自分に酔っている。
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