※続編

1

 

海へ行く方法は幾つかある。楽に行くならリーダータイプの友人を誘えば勝手に連れて行ってくれるだろう。近場でいいなら自転車で走ればいい。海は幼い頃から身近な存在だった。しかし今日行きたいのは地元の見慣れた海ではなくて、知り合いのいないところに行きたかった。シーズン前の海水浴場。天気の悪い朝、財布と携帯だけを持って電車に乗った。
1時間ほど電車に揺られてたどり着いた海は、サーファーもいない静かな海だった。親子連れが犬の散歩をさせているのを目で追う。海水浴にも早い上に少し天気が悪く、人影はほとんど見られない。道路から浜を見下ろして、潮の匂いを吸い込んだ。空の色を写すらしい海はあまりきれいではなく、仁王が見ていたカーテンの海とはほど遠い。

――仁王がいなくなって2ヶ月、離れてみると仁王のことを何も知らなかったのだと思い知らされた。あんなに好きだったのにその気持ちを裏切るように、丸井は仁王の「本当」を知らない。確かに思えるのは、仁王が自分を好きになってくれたことだけだ。
生ぬるい風を受けているうちに寂しくなってくる。青い海が見たかった。また出直そうかと思うのに、どうも足が動かない。薄暗い空と重い海の色がそのまま心に流れ込んでくる。好きなだけではどうにもならないとよくわかっているのだから、好きなことをやめてしまえばいいのに、そうできない自分は愚かだと思う。もう記憶の中の仁王は薄れているのが実感としてわかった。体温など残っているはずがない。声も顔も、自分の記憶なのか理想なのかわからなかった。
いない人を好きでい続けられると思わない。そこにいるからずっと好きでいられると思っていたし、遠距離恋愛ができる性格じゃない。それなのに、もう会えない人を好きでいる。――本当に、もう会えないのだろうか。死んだわけではないのだ、少なくとも丸井が知る限りでは。仁王も最後に「いつか」「また」と残した。そのせいで囚われている。最近は泣くこともできなくなってきた。それでも、好きという気持ちは変わらない。

どろりとした海を再び見ると、散歩をしていた親子はいなくなっている。不意に雲が切れた隙間から差し込んできた太陽の光に目を細めたとき、砂浜の向こうから歩いてきた人間が光って見えた。懐かしい光を感じた次の瞬間、思わず走り出す。頭の中は真っ白で、体だけが先走っている。砂に足を取られながら一直線にその人物めがけて走り、ほとんどタックルのような勢いで飛びついた。不意を突かれた彼は声を上げて倒れ込み、砂浜でふたりは転がる。水の冷たさを感じても、そこにある体温がすぐにそれを忘れさせた。

「いったー……大丈夫か?」

優しい、声。涙が溢れだし、彼にすがりついた。仁王の声だ。懐かしい匂いを吸い込んで、ばかやろう、とつぶやくと抱きしめた体がこわばる。どれほどそうしていたかわからない。ゆっくりと体の硬直がとけ、丸井の肩に手が回る。その手が遠慮がちに頬に触れ、丸井は顔を上げようとしたができなかった。姿を見れば夢から覚めてしまう気がする。あんなにも恋い焦がれ、泣き続けたのに、こんなに簡単に会えるはずがない。これが夢ならば、覚めない方が

「ブン太?」

小さく名前を呼ぶ声にぎゅっと胸が苦しくなって、より強く抱きしめる。呼吸をするのを忘れるほどこの体に意識を集中させた。潮の匂いの中、ありありと仁王を思い出す。優しい声、冷たい指先、細い体。

「ははっ……ブン太じゃ」

震えた声が耳に届いた瞬間、額に何かが触れた。何かなんて、もう体が知っている。乾いた唇が自分に触れたのだ。そのまま抱きしめられて、胸に強く押しつけられた。心臓の音が聞こえるほど、誰かの近くにいることなど久しぶりだ。
言いたいことはたくさんあったはずなのに一言も出てこなくて、嗚咽で肩が震える。生ぬるい風を感じた後、足や腕に冷たさを感じた。雨だと認識した頃には本格的に降り出していたが、ふたりは離れることができない。丸井が大きくしゃっくりをした後、仁王がゆっくり体を起こした。いや、仁王だと思っているが、丸井はまだ顔を見たわけではない。雨はどんどん強くなる。覚えている仁王そのものだが、本当に、仁王だろうか。こんなにあっさりと会えるはずがないと思うのと同時に、夢が覚めやしないかと怯えている。促されて立ち上がり、つないだ仁王の手があたたかくてずぶ濡れになっていく体が冷えているとわかった。

「……仁王」
「顔下げといて」
「……何で?」
「ホテル行こう」

そのまま仁王は歩き出した。黙ってそれに着いて行く。少しずつ、これが夢ではないとわかってきた。濡れたサンダルでは砂浜はよけい歩きにくくて足が痛い。夕立なのか、痛いほどに強くなった強い雨、その匂い。涙の止まった目を覆うとまぶたが熱かった。仁王も黙って歩いている。

仁王の言ったホテルはリゾートホテルで、すっかり濡れねずみのふたりにフロントの人間が優しい声をかけたが、丸井の耳には入ってこなかった。仁王がポケットからカードキーを取り出すのが見えて、元々ここに泊まっていたのだと知る。エレベーターで上へ、着いた部屋ですぐに浴室に押し込められた。ドアを叩くが開かない。

「仁王、待って」
「まず体あっためて。話はそれからするけぇ」
「ッ……顔見せろよ!」
「だめ」
「なんで!」
「……俺の顔しとるかわからん」
「な……なんだよそれ」
「後でな」

突然戸惑いが強くなる。本当に仁王だろうか。本当に、自分は仁王を覚えていたのか?さっきまで抱きしめていたのは仁王だと確信していたのに、離れると急に不安になる。大きなくしゃみが出て体が震えた。――こうしていても変わらない。濡れて張りつく服を脱ぎ、空の浴槽に足を入れてシャワーをひねった。よくあるユニットバスだ。カーテンに飛ぶ雫を眺めながら、何を言えばいいのか考える。どうしていなくなったのか、と聞いてはいけない気がするのはなぜだろう。それが一番知りたいことだったのに。
ドアをノックされ、びくりとした間にドアが開いた音がした。着替え置いとく、と仁王の声が言う。今カーテンを開ければよかったのに、それができなかった。どうしてだろう、この違和感は。確かに仁王でありと、感じるのに。

ふと思い出し、脱いだ服から携帯を取り出してみる。運が悪かったのか画面は真っ暗で、電源を入れようとしても入らなかった。逃げられなくなった、と思う。一番好きな人から、逃げたいと思っているのか?そんなはずはない。逃げたいのは、……捨てられたのかもしれないという恐怖からだ。仁王が自分に何も言わずいなくなったのは、捨てたかったからではないだろうかと思うと足元まで鳥肌が立つ。お湯の温度を上げてぎゅっと目をつぶった。
来てはいけなかったのだと、後悔している自分が嫌だった。仁王と一緒にいた頃の、あの自信にありふれた自分はどこに行ったのだろう。
泣きそうなのをこらえてシャワーを止める。体を拭いてホテルのロゴの入った浴衣に袖を通すが、いまいち着方がわからない。そんなことにも憂鬱になって、夢ならば覚めてほしいと思った。内側からノックをするとすぐに返事がある。

「どうしたん?」
「着れねえ」
「ああ……出といで」

どきりとする。のどを鳴らしてつばを飲み込み、ゆっくりドアを開けた。そこに立っていた仁王はふざけた狐の面をつけていて、拍子抜けしてどう反応したらいいのかわからない。

「……何、それ」
「もらいもん」

仁王の手が出てきた丸井の浴衣を掴み、合わせて帯を締めた。仁王も同様に浴衣に着替えていて、濡れた髪が肩を濡らしている。そっと面に手をかけたが仁王は何も言わなかった。そのまま面を持ち上げる。
――口元のほくろ、やや青白い顔にあまりよくない目つき、なかなか見かけない銀の髪。そこにいるのは仁王だった。それでも、丸井の知っている仁王ではなかった。元々大人びてはいたが、どう見ても二十歳を超えている。面を持ったまま何も言えずにいると仁王は口元を歪めて笑った。

「俺の顔しとる?」
「……どういう、意味」
「……せっかく会えたんに、もうブン太がどんな顔しとるかわからんのじゃ」

仁王はこっちを見ているが視線が合わなくて、それで言葉の意味はわかった。丸井の問いの答えではなかったが、それは些細なことのような気がしてどうでもよくなった。涙を流さないようにぐっとこらえて、できるだけ明るい声を出す。

「笑ってるに決まってるだろ?お前に会えたんだからさ」

言い切った後に落ちた涙が仁王の手を濡らして、ぼやけた視界の中に困った顔の仁王が見えた。そのまま抱きしめられて、強く抱きしめる。

「ごめん」
「ッ……ばか!ふざけんなよ、勝手にいなくなってッ、……黙って、何も、言わ、ねーで……行くかわかんね、のに、誕生日とか……ッ!もうやだよ、お前がいないとやだ……!」
「ごめん」
「謝んなよ、もう行くなよ!……一緒にいろよ……」
「……ごめん」
「ばか!」
「一緒には、おれん」
「なんで、だよ、じゃあ出てくんなよッ……」

しがみつく丸井を離そうともしないくせに。着替えばかりの浴衣もすぐに涙で濡れた。何度もごめんと繰り返す仁王を叩いてもそれしか言わず、謝られるよりはいっそ迷惑がられた方がましだった。こんなに優しくされて、離れることなんてできない。

「やだよ、仁王……!」
「ごめんな」

いつでも丸井のわがままを聞いてくれた仁王なのに、一番の願いに限って仁王は頷かなかった。強く抱きしめるだけの仁王が何を考えているのかわからない。

「……背、伸びたね」
「ッ……ばかぁ!」

仁王がいない間に自分は変わってしまった。体は成長し、心はよくわからない。それでも泣き叫んで悲しむ心の片隅で、仁王の居場所を考えた。今日から仁王と共に日常に戻ることなんてできるのだろうか。戸惑う丸井の気持ちが伝わったのか、仁王は苦笑しながら丸井をベッドに導く。座らされたベッドは少しかたい。スプリングを軋ませて仁王も隣に座り、片手同士だけを強く結んだ。

「俺は今まで悪さしかしてこんかったけん、いっつも罰が当たるんじゃ」
「……罰って」
「大切なものを守れんのよ。病気の前では無力じゃった。強い力には奪われた」
「……どういう、意味。お前、なんなの?」
「なんと言ったらいいんかの……ま、この顔見たらなんとなくわかるじゃろ。ガキの顔でうろうろできんから。ああ、ごめんな……ほんまやったらブン太が知っとる姿になってやりたいんじゃけど、いっぺん変えると戻せるかわからんけん……」
「……人間じゃないってこと……?」
「……ブン太が正体見抜いたじゃろ?」
「何?」

仁王は黙って笑う。よく見れば自分の手を強く握るそれは大人の男の手をしていて、自分が知る仁王の手ではなかった。自分たちの意志であり努力の証拠であった、パワーリストの日焼け跡がない。

「悔しいの、どこにおるかはわかっても、顔だけはわからん」
「……こんなところで何してたんだよ」
「海が見たかったんじゃ。まだ見えるときに、見えたよ。ブン太が言ってた通り、カーテンみたいに青くなかった。――ブン太と見れたね」
「……ばか」

しばらくじっとしていた。仁王も動かずに、見えないのにこっちを見ていた。もし、帰らないと言えば仁王はまたいなくなるのだろう。いや、同じことか。きっと二度とここにはこない。今離れてしまえば、もう今度こそ会えなくなる。わがままを言えばいいのか押し殺せばいいのかわからない。どちらを選んでも結果は変わらないのだとわかっている。

「……仁王」
「うん」
「仁王がいなくなって、学校が始まって」
「……うん」
「部活のやつらもみんな心配してるけど、なんかもう……忘れろって、言葉にはしないけど、そう思ってる」
「……ブン太が辛そうにしとるんやね。……忘れたら楽やけんな」
「……ばか!」

立ち上がって頬を叩く。手のひらがじんと痛い。仁王の頬が赤くなって、生きていることだけはわかった。

「できると思ってんのかよ!」
「……思っとらん。最後に、忘れられたくないと思ったから、何も言わんかった」
「ふざけんなよ!」
「……俺が好きになったやつらはみんな先に死んだけど」
「ッ……」
「俺はまだ生きとる。忘れられたくない」

もう何も言えなくなって、ただ仁王を抱きしめてベッドに倒れ込んだ。仁王といるのにこんなにも悲しい。それでも溢れる涙の理由は、今仁王が考えているのは丸井のことじゃないということだ。丸井はもう仁王ばかりなのに。仁王にしがみついて声を殺して泣く。ただ優しく丸井を抱く仁王の手に、更に涙が溢れた。
今は何を考えているのだろう。仁王になりたい。何を考えているのか、どんな人を大切に思っているのか、全部知りたい。一番近くにいた丸井でも知らないことを、仁王がひとひで大切にしていることが許せなかった。こんな醜い嫉妬を見せたくなくて、泣いて誤魔化している。少しずつ涙が落ち着いてしゃっくりが残っても、仁王は変わらず丸井を抱きしめていた。

「……ブン太」
「……何」
「……帰らんでいいの?」
「ばか」
「ごめんブン太、俺、眠い……」
「は?」
「寝んと、保たん……」

丸井を抱きしめたままの仁王を見上げるとまぶたが閉じた。すっと眠りに落ちていくのがわかって、怒るより何よりあっけに取られてしまう。小さく名前を呼んでも反応はない。元々よく寝るタイプではあったが、あれはサボったはいいが暇で寝ているということが多かったのだ。それでも、最後の冬が過ぎてあたたかくなってきた頃にはよく寝ていたと思い出す。人の多いところでは寝れないと言っていたのに教室で寝ることが増えて、あれは予兆だったのか、と思う。

……人間じゃないのなら、何なのだろう。自分の感情ばかりに気を取られていたが、規則正しい寝息を立てている仁王を見ていると疑問がわく。UFOや幽霊だって見たことがないというのに、信じろと言われても難しい。またいつものペテンなのだろうか、と思うが、確かに知っている仁王の顔なのにずっと大人で、自分を抱きしめる手も丸井が焦がれたものと少し違う。仁王であることは間違いないのに、受け入れきれないものがある。そのことがよけいに悲しかった。自分の成長とは違う変化が、元に戻れないことを物語る。
動きもしない仁王から離れて、体の下になった布団を引っ張りあげた。隣で丸くなって仁王を見る。数え切れないほど見た寝顔だ。

これからどうしようか考える。携帯は雨のせいで壊れてしまった。乾かせば直るなどとも聞くが、今は携帯の存在が煩わしい。仁王がいなくなってから、ひとりで遠出することが増えた。今日のように計画を立てずに行くので何度か帰れなくなったことがあり、インターネットカフェやカラオケで一晩を過ごしたこともある。連絡をしなくても、親はまたかと思うだけだろう。心配はしているだろうが、それよりも仁王と離れてからのふだんの丸井を心配している。
多少のむちゃを多目に見てもらえるのは、丸井が家に閉じこもるのをやめたからだ。学校へも行き部活にも休まず出ていたが、休日は誘われてもあまり家を出なかった。どこへ行っても仁王を思い出す。高校だけは別だった。仁王がひとりぐらしであったから、丸井のうちで会ったことは一度もない。買い物に出ても近所のテニスコートを見ても、思い出すのは仁王のことばかりだった。そんな丸井にしびれを切らしたのがジャッカルで、連れ出されて中等部に連れて行かれ、屋上で散々泣かされたことを忘れないだろう。仁王のせいでジャッカルまで怒らせてしまった。それをきっかけに外へ出るようにはなったが、仁王を思い出す場所へは行かないでいる。

――もう出会うことはないと、心のどこかで思っていたのに。 夜は更け、カーテンを締め忘れたベランダから月明かりが差し込んでくる。あの部屋とは違う重いカーテンの向こうに海が見えた。月光で光る仁王の髪を目に焼きつけておこうとじっと見つめる。
仁王の部屋に泊まったことを思い出す。ときどき寝苦しくて目を覚ますと仁王に抱きしめられていることがあった。仁王も夢を見ているのか、たまに口が少し動く。愛しくてその口をキスでふさいだこともあった。無防備に眠る仁王をこんなに近くで見れる優越感に、わざと仁王が寝るまで寝たふりを続けたこともある。手を伸ばして触れてみた仁王の唇は乾いていた。

結局一晩考えているうちに朝になった。薄明るくなった空を見ると今日は快晴のようだ。体を起こして窓の外を見る。水平線がようやく顔を出した朝日に反射して、まぶしさに目を細めた。見慣れていた海がこんなにも違うものかと考えているとぐいと体を引かれ、強引に抱きしめられる。少し寝乱れた浴衣の胸に押しつけられて、自分でもよくわからない感動に体が震えた。

「夢じゃないんかな」
「……夢でたまるかよ」

丸井の頬を撫で、額を押しつけて仁王は笑う。こんなにも幸せだと思えるのに、忘れられない痛みが胸を裂いた。なだめるように丸井を撫でて仁王はベッドを降りる。

「ブン太の服忘れとったな。洗濯してくる、待っとれ」
「……うん」

バスルームで脱いだままだったのを忘れていた。簡単に浴衣を直し、自分の服も抱えて仁王が部屋を出ていく。見えないと言いながら支障なく歩いているのは、慣れているからだろうか。昨日は泣いてばかりで結局何も聞けないままだったから、今日は少しでも話がしたい。……もう帰れと言われるかもしれない。緊張をほぐそうとベランダに出た。海が反射した光で目が痛くなり涙が滲む。地元は海が近いのに、どうしてふたりで見たことがなかったのだろう。まぶしい海は青さも見えない。

体が空腹を訴えて、昨夜は何も食べていなかったと思い出す。どんなに辛くても悲しくても、自分の食欲が衰えることは滅多になかった。仁王がいなくなったときも散々泣いて、慰めるのが下手だった切原と食事に行って思い切り食べた。仁王が戻ってきたので中に入ると、パンや飲み物を持ってきて思わず笑う。

「今、笑った?」
「うん」
「当たった」

ベッドに並んで座る仁王はとても目が見えないとは思えない。丸井の疑問を察したのか、仁王は食べ物を丸井に渡しながら自分のまぶたを撫でて口を開いた。

「物の位置は、見えんけどわかるよ」
「そんなもん?」
「気配っつーんかな。やけん支障はなかったけん、気にせんかったけど、……ブン太の顔がわからんのは、困るな。どう変わっとるんやろう」
「俺は前と一緒だよ」
「髪も?」
「赤いよ」
「俺は?」
「同じ、銀色。ほくろもある」
「やっぱ染み着いとるからそうなるんやな。昔はいろんな顔使っとったけど」
「ほんとにペテン師だなお前」
「……ま、悪さもしたよ。死んだやつもおるしの」

何気なく吐かれた言葉にどきりとする。仁王が人間でないなら――何物なのだろう。化け物、という存在になるのだろうか。首を降って仁王の手を取る。仁王の視線が自分に向いたが、やっぱり目は合わない。

「どうしたん?」
「ううん」
「……服乾いたら、出かけようか。近くで祭り、やっとるんじゃと」
「祭り?こんな時期に?」
「ちっちゃい神社の、何の行事か知らんけど。出店出とるってフロントで言っとった」
「行きたい!」
「じゃあ決定。あと10分経ったら教えて、時計見えん」
「うん」
「綿アメあるかなー」
「どうかのー。あ、……今更じゃけど、家大丈夫か?」
「あー、大丈夫、メール送った。俺最近フラフラしてっから、一晩ぐらい気にしねえよ」
「そっか」
「まあ信用されてる長男だから」
「そうやね。将来も有望やし」
「そうそう、もーバンバン稼ぐぜぃ」
「……しばらくテニス、しとらんな」
「……する?」
「いや……したいけど、自分の衰え知るんが嫌じゃ」
「……春の大会、幸村くんと柳は1年だけど試合出たよ。真田も補欠。俺はやっぱ、遠いな。吐くまで走っても、遠い」
「進度は人それぞれじゃ。気にすることないよ。あいつらは化け物やし」
「……だな。赤也も全国行ったし、ま、当然だけど!」
「懐かしい名前が次々出てくるのう」

微笑む仁王に笑い返す。見えないとわかっていても笑っていたい。せっかく仁王がそこにいるのだ。
ふたりで向かった祭りは規模は小さいながらも人は多く集まっていた。その中で目立つ頭のふたりは振り返られることもあったが気にならない。仁王にねだるままに手の中を食べ物で溢れさせていく。楽しそうに破顔する仁王を見て丸井もずっと笑っていた。本殿までの数メートル、両脇に並ぶ出店を冷やかして歩く。次たこ焼きね、丸井の声に仁王は黙って肩をすくめた。

「ご兄弟?仲いいわね」

たこ焼きを差し出した女性に声をかけられ、丸井はそれを受け取って仁王と顔を見合わせる。少し困って、どうしようか迷っていると仁王が丸井の肩を抱き寄せた。

「恋人」

笑った仁王の口元を見上げてぎょっとする。女性も丸井と同じような顔をした後、けらけらと笑いだした。

「ばっかじゃねーの!」
「えー、冷たい」
「行くぞ!」

仁王を引っ張ってその場を離れた。泣きそうにならないように怒りを先に出す。ごめん、とへらへらしている仁王より先を歩いていると、ふと射的が目に入る。地元の祭りではなぜか見たことのない射的が珍しくて近寄っていくと、追いついた仁王が何か欲しい物はないか聞いてきた。棚に並ぶ賞品を見ていると、弟が欲しがっていたゲームを見つける。

「アレ」
「どこ?」
「上の段の、右から2番目」
「よし」

1回、と声をかけると若い男が小銭を受け取る。珍しそうに仁王と丸井を見比べていた。

「惚れ直すから見ちょれ」
「外したら笑ってやるよ」

銃を手にした仁王が構える。場所を言っただけで本当にわかるのか、どきどきしながらじっと仁王を見ていた。不思議な時間で、隣にいる仁王が少し遠い。1発目を外したが2発目が見事ゲームソフトを倒し、仁王は無言でガッツポーズを決める。おお、と店番が拍手をした。

「どうじゃ。誉めて」
「調子乗んな」
「惚れ直した?」

手にしたままの銃の先をぴたりと丸井の胸に当て、仁王は口角を上げる。どきりとして息をつめた。ときめきのようなものじゃない。この違和感は、何だろう。よく知る仁王の笑みが違って見えるのは、見た目の年齢の違いのせいだけだろうか。人に向けないで下さいね、店番に声をかけられて仁王は銃を下げた。代わりにゲームを受け取って、丸井に渡す。

「大事にしてな」
「……ありがと、オークションで売る」
「オーイ」

笑い声に笑い返すが、少し気分が悪くなってきた。寝不足も手伝って人酔いしたのかもしれない。飲み物がほしい、と言うと仁王はすぐに買ってきて、丸井の声色でわかったのか、人のいない出店の裏へ抜ける。

「食い過ぎ?」
「……俺が食い過ぎで気分悪くすると思ってんのか」
「はは、尤もじゃな。人酔いかの、帰るか」
「……うん」
「行こう」

仁王は手を取って歩きだした。冷たいペットボトルを頬に当てる。仁王に気遣われるのが嬉しくて、つないだ手に力を込めた。

「でも楽しめたな。久しぶりに騒いだぜよ」
「そうだな」

仁王、俺は楽しくなかったよ。そう告げることはできない。終わったら、別れが近づくのだと、そのことばかりが気になっていた。仁王はどうして気づかないのだろう。バカ騒ぎは学校でしていたし、声が枯れるまで笑った日もある。仁王がいなくても。

ホテルに戻った頃には海風に当たったおかげもあるのか、気分は大分落ち着いていた。少し休んでから買ってきた食べ物をねだると笑いながら渡してくれる。それも食べ終え、並んで座ったベッドからベランダの向こうの海を見ているうちに眠くなってきて仁王に寄りかかった。

「どうしたん?」
「眠い……」
「寝てええよ。横になりんしゃい」
「……んー」

仁王の膝に倒れ込んで頭を乗せた。仁王の手が頭を撫でる。昨日眠っていなかったのが、今になって影響してきたようだ。疲れや満腹のせいもあるだろう。仁王のぬくもりを感じながら目を閉じる。

「ねえ、ブン太」
「……なに……?」
「なんか、駆け落ちみたいやね」

駆け落ち――?
丸井の意識は考える前に途切れた。

夢も見ない深い眠りを妨げたのは体を走った鋭い痛みで、どこが痛いのかわからないままもがいた丸井を今度は息苦しさが襲う。呼吸ができない。のどを押さえつけられて、苦しさから逃れようと暴れる四肢も役に立たなかった。目を開けるのが怖い。 それでも意志に反して開いてしまった目に飛び込んできたのは、月明かりに反射する銀の髪だった。暗い天井を背に、仁王が丸井を見下ろしている。見たことないほど冷たい目をしていて、それを見ていると麻痺したように頭が働かない。
におう、狭いのどからどうにか呼ぶと、はっとして目の色を変えた仁王が手を離した。吸い込んだ呼吸にむせて、咳を繰り返す。体を起こしてゆっくりと深い深呼吸を繰り返し、のどを押さえた。気づけば仁王は外にいない。こぼれた涙を拭って部屋を見渡すと、ベランダに出て小さくなっている。シーツに血がついて、見ると手に歯型があった。何ヶ所が切れて血がにじんでいる。

「仁王……?」

ベランダに近づくと仁王がドアを閉めた。丸井に背を向けた仁王の後ろにしゃがみ、ガラスをノックする。

「仁王」
「鍵閉めて」
「仁王」
「閉めて。頼む……」

仁王が肩を震わせている。しっかりしているはずなのに小さく見える背中に泣きそうになり、もう一度呼ぶが反応はない。ぐっと奥歯を噛んでガラス戸の鍵を閉めた。

「閉めたよ」
「ごめん……」
「なんで謝ってんだよ」
「ごめん」

まだ少し圧迫感がある気がする。夏も近づいているが夜はまだ涼しく、ガラスは冷たく丸井を拒む。ガラス越しに仁王の背中に手を重ねた。泣いているのかはよくわからない。

「仁王、こっち見ろよ」
「ほんまに、こんなん……」
「仁王」
「ブン太、明日送るけん、帰りんしゃい」
「仁王!」
「殺してしまう……」
「……いいよ、殺せよ」
「……本気?」

仁王の問いに対して思い浮かんだことは多すぎて、何が一番大切なものかわからなくなった。振り返った仁王は無理やりのように苦笑している。

「……どんな顔しとるかわからんな」
「仁王……」
「……違うよ、ブン太はよくても俺が嫌なんじゃ。俺はそんなことをするために好きになったんじゃない」
「仁王」
「ごめんな」

また首を絞められたかのように苦しくなって、涙がこみ上げてガラスに額を押しつけた。この数日でどれほど泣いたのだろう。――自分の中で、仁王が一番ではなくなっていたことがショックだった彼が自分のすべてだったのはほんの数ヶ月前だったのに、この春からの日常を求めた自分がいた。今でもこんなに、仁王がほしいと思うのに。

「……ブン太、どんな顔しとる?」
「……呆れてるよ」
「大丈夫?首」
「もう平気」
「あと手も。口ん中、血の味する」
「ちょっとだよこんなもん、すぐ治るって。なんでこんなとこ噛みついてんだよ」
「……食べたくなって」
「……仁王?」

一瞬目を細めた仁王はにこりと笑った。海の方を指差して、明るい声を出す。また、あの違和感だ。今ならわかる気がする。丸井の息の根を止めるタイミングを、狙っていたのだ。

「ここから海見えるの、見えてる?」
「見えるよ。すげーきれい、月出てるし」
「そっか」
「……お前の髪もきれいだよ。キラキラしてる」
「はは、昔はこんな色じゃなかったんじゃけど。……なあ、俺はどうしようもないかな。長く人間と一緒に暮らしても、人間の気持ちがわかりきれん。どうしたらええんか、どうなっとるんか……」
「……そんなの、人間だって同じだろ。俺だって、……何したいのか、どうしたらいいのか、わかんねえよ……」
「……そっか、なら、よかった。ひとりになって、どうして山を下りたのか思い出したんよ」

海に目をやった仁王の横顔は微笑んでいる。どうして笑えるのか、わからない。俺は泣いてるのにどうしてわかんないんだよ、怒鳴りそうになって目をそらした。あんなにも丸井を理解していた仁王が、今、丸井の顔色もわからない。何がペテン師だ、騙し放題じゃないか。冷やかしてみようと思っても、悲しみが増す。
嬉しそうに、丸井以外のことを考えている仁王が許せなかった。そんな気持ちになる自分にも腹が立つ。せっかく仁王に会えたのに、ずっとふたりきりでいても汚い気持ちばかりが胸を占めた。好きなのに、仁王を好きなせいでどんどん気持ちが荒れていく。一緒にいた中学時代は、そんなことはなかったのに。

「……何で?」
「大昔よ。いたずらのつもりやったけど、ガキ殺してもうて」

ぞくりとする。問題は丸井にあって、仁王を仁王だと思えていないのかもしれない。そばにいるのにこんなにも仁王が恋しいのは、あの頃の、幸せだと思っていた頃の仁王に会いたいからだ。なんて、わがままな。

「罪滅ぼし、のつもりやったんかのう」

それは誰の話だろう。仁王のいつもの冗談にも思えない。優しく甘やかしてくれる彼は、他の誰かの話なんてしなかった。

「仁王」
「何?」

「仁王に会いたいよ」

――最低だ。仁王が目を見開き、丸井を見る。戸惑った表情を浮かべ、唇が動いたけれど何も言わなかった。そのうち目を伏せて、また背を向ける。風が仁王の髪を流し、キラキラと光った。銀色の海に仁王が溶けてしまいそうで、夢ならいいのに、と思った自分が信じられない。仁王の背中も自分の涙も、中学の頃は考えたこともなかった。

「……仁王、ごめん」
「ううん、……ごめんな」

好きになって、ごめん。じんと心にしみた言葉を、覚えておこうと思った。誰かを傷つけた、この時を。無言で朝を待ち、うとうとしていると何度かガラスに頭をぶつけてしまう。仁王が笑って、それに笑い返した。
空と一緒に海が明るくなってきて、眩しさはわかるのか仁王は目を細めて海を見る。丸井は立ち上がり、鍵を開けてベランダに出た。手すりに体を預けて朝日を受けながら仁王同様海を眺める。隣に仁王が並んだ。

「ずっと、不思議だったんじゃ」
「何が?」
「なんで朝と夜があるのか。……学校行って、ようやくわかった。楽しかったな」
「お前の見た目で勉強好きって言われてもな」
「確かに」

クスクス笑って、仁王の手が手に重なる。ずっと外にいたせいかその手は冷たい。仁王はあたたかくて冷たくて、いつだって丸井を受け入れた。それは今だって変わらない。

「……海行かねえ?」
「行こっか。今なら人もおらんじゃろ」

着替えてホテルを出る前に、忘れ物がないか聞かれる。持ってきたのは財布と携帯のみで、携帯はバスルームに置いたままだった。そのとき初めて携帯をこんなに長く触らなかったのは初めてだと気づく。メールのやりとりだけではなく、学校の友人とダウンロードした音楽を聞かせあったり、コミュニケーションツールとして手放したことがなかった。誰かと遊びに行ってもその最中に別の誰かからメールや電話があり、帰りが遅くなるときは家に連絡したり、弟の変なポーズを写真に撮ったり。
考えて、結局携帯を置いてホテルを出た。どうせ使えないのだから持っていても意味がない。手をつないで海に向かう間、くだらないしりとりなどをしながら仁王を見る。仁王といれば何もなくても笑って過ごせた。優しいこの男を、どうして傷つけてしまったのだろう。自分がずっと好きだった男に間違いないのに。

歩きにくい砂浜へ入っていく。まだ砂も熱くない。水際まで歩いて振り返ると、ふたり分の足跡がきれいに残っていた。すでにランニングをしたらしい足跡も見える。

「ほんまに、ブン太と海が見れた」
「お前泳げないから、行ったことなかったもんな」
「……水は怖いんじゃ」
「あと犬もな」
「あと幸村」
「……ブッ」

思わず吹き出して、面白くて笑ったのににじんだ涙を拭った。手をつないで力を込める。さざ波が運ぶのは静寂で、車の音や波の音がするのに静かに思えた。思ったより落ち着いているのかもしれない。
仁王が近い、と思ったときには唇の端にキスをされた後で、離れた仁王が眉を寄せて顔をしかめた。

「ずれた」
「……バカ」

笑い飛ばして自分からキスをする。乾いた唇が触れるだけの短いキスだった。泣きそうになるのをこらえる。もう泣きたくない。

「……帰ろうか。送るけん」
「うん」

駅は朝早いせいか人が少なかった。そもそもシーズンではないからかもしれない。どこまで行かせるつもりなのか、一番遠くまで行く切符をふたり分仁王が買ってくる。ホームに上がると電車はすぐに滑り込んできた。電車もすいていて、席はあったが何となくドアの前に立つ。

「……こんなに長く、ふたりでいたことなかったな」
「そうやね。……ブン太」
「何?」
「元気で」

ぱっと仁王が飛び降りた瞬間、ドアが閉まった。何が起きたのかわからない。指紋のついた窓の向こうで仁王が笑っていた。眉を下げて困ったような笑みを作り、口を動かす。電車が走り出しても丸井は窓の外を見たまま動けなかった。窓の向こうには太陽を反射させた海が広がっている。最後に、なんて嘘をつくのだろう。送ると言ったくせに。

あまりにも呆気ない別れはうまく消化できず、到着した地元と駅でジャッカルに出会って初めて涙がこぼれた。夢から覚めたのだ。丸井が泣き出して怯みはしたが、ジャッカルはとにかく丸井を怒っていた。親が心配して連絡していたようだ。泣くばかりであまり耳に入っていなかったが、何となく想像はつく。
ジャッカルに連れられて家に帰ると親に怒られ、わざわざうちまで来た幸村や柳にもこってり絞られた。一通り説教が終わってようやく落ち着いた頃、何してたの、と幸村に呆れた口調で聞かれる。思わず手の傷を見た。仁王に噛まれた傷が生々しい。こんな痛みがあっても、夢だったとしか思えなかった。少し迷って、謝ってごまかす。

「二度とこんなことしないでよ」

諦めた様子で溜息をつく幸村に黙って頷く。きっともう、ない。もう会えるわけがない。夢ではなかった証拠は射的で取ってもらったゲームと、自分のこの手にある。……夢ではないからこそ、二度目はないのだ、と思い当たる。

「……海ってさ、青くないんだ」
「何?」
「光ってて、眩しくて、正体なんてわかんなかったよ」
「……海に行っていたのか」
「うん。……なあごめん、寝てもいいかな。心配かけたのはわかってるけど、疲れてるんだ」

顔を見合わせたチームメイトたちは呆れて出ていった。仁王とふたりきりでいた2日間は色々と考えすぎて、覚えておくことも多すぎた。

――本格的な夏が近づいてくる。

 

 

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080608