百害あって一利なし
「はい、あーん」
「あーん!」うわっ殴りてえ。切原の言葉を真田がたしなめないのは、ささやかながら自分も同じ気持ちだという意思表示だろう。いいから、と幸村に促され、切原は汚いものでも見るようにふたりを避けて柳の隣に座る。
「何すかアレ」
「いつものことだろ」疲れた様子のジャッカルが乾いた笑みを浮かべる。げえ〜、手にした弁当を開けもせず、切原はじっとふたりを見た。つまり、この屋上と言う空間を甘ったるい空気で満たそうとしている、仁王と丸井のふたりを。
「おいしい?」
「おいしい!におーありがと!」
「ブンちゃんが幸せやったら俺は幸せなんよ」
「におー……大好き!」
「ふふ、ありがと。ほれもう一口、あーん」
「あーん」
「……もうどっからつっこんだらいいんかわかんないんすけど」
「つっこまなくていいですよ、見たままなんですから」恐ろしく姿勢のいい柳生が表情を変えずに言った。見たまま……それは確かに、その通りだ。仁王の足の間に丸井がすっぽりと入り込んで向き合い、仁王の手には有名なケーキ屋の1日10食限定特製プリン、スプーンを持つのも仁王で、丸井は口を開けて待つだけだ。一口食べるごとにさっきのようなやり取りを繰り返していて、うっとうしいことこの上ない。
「はいはい、いいからミーティング始めるよ。赤也も気にしないで」
「はぁーい……」返事はするがそれは無理な話だ。包みを開けて弁当を取り出し、食べながら輪に加わる。今度の練習試合のオーダーを決めるためのミーティングだ。わかってるのかわかってないのか、自分たちの世界に入り込んでいるふたりもレギュラーには違いない。
「はいはい!俺シングルス」
「赤也は……ダブルス経験は?」
「やったことがないわけではないが、どうかな……せっかくだから試合内で経験を積んでおく方がいい」
「じゃあ赤也ダブルスね」
「えーっ!誰とっすかあ」
「誰がいいかなあ」
「仁王と柳生はダブルスがいいと言っていたな」
「ええ、先日思いがけずやりやすかったものですから。どうせならゴールデンペアと呼ばれるほど極めてみたいものです」
「ふむ……ならばお前らはダブルスだ」
「俺が赤也と組もう」
「げっ、副部長と?」食べ終えた弁当を片づけながら真田は切原を睨んだ。あわわと切原は口をふさぐが今更遅い。柳はメンバーを見回し、考え込む。同様に見ていた幸村が、不意に丸井に目を留めた。
「……ブン太、太った?」
ぴしりと丸井が凍りつく。仁王がすくったプリンがスプーンから落ちて容器に戻った。口を開けたまま硬直した丸井が、恐る恐る幸村を見る。
「ふ……太ってないよ」
「なんか腹出てない?」立ち上がった幸村は丸井が逃げるより早く近づいて、後ろから羽交い締めにして丸井を立たせた。暴れながら仁王に助けを求めるが、仁王もプリンを片手におろおろするだけだ。丸井の前に柳が立ち、まじまじと体を見る。
「ふむ……確かに、少々気になるな」
「つつくなぁッ!」
「たるんどるな」
「あーあ、仁王が甘やかすからだぜ」
「ジャッカル君も似たようなものですよ」
「このだらしないお腹!」
「わーん!」幸村に腹をつままれ、丸井はその手を振り払って仁王の元へ逃げ出す。抱きしめられた腕の中で意地悪!と叫んだ。
「俺のかわいいブンちゃんいじめんといて!」
「それ以上太らせたら仁王の方がいじめてることになるよ」
「ぷくぷくしとってかわええやない」
「太らせて食うつもりかよ……」
「ん〜?ブンちゃんおいしそうやし、食べちゃおうか」
「な、なんだよ、変なこと言うなよ」
「変なことちゃうよ。甘くて柔らかくて、おいしいんやろうな」
「……仁王にだったら、食べられてやってもいいぜぃ」
「ほんまに?」
「おいしく食べてくれるなら」
「じゃあブンちゃんからちゅーして」
「え〜……今?」
「今」
「恥ずかしい……」
「恥ずかしいのはこっちだよ!」柳生と切原が協力してふたりを引き剥がし、その間に割り込んで幸村は丸井を見る。邪魔すんなよう、と唇をとがらせる丸井に賛成して、幸村の背中をつついてくる仁王がうっとうしい。
「ブン太補欠」
「えっ!」
「そのだらしない体をどうにかするまでいくら練習試合でも試合に出さない!」
「そんな!」
「決定!赤也はジャッカルと組んで、残りでシングルス。文句は?」
「や、やだよ何で俺補欠!?」
「ムカつくから」
「私怨!ずるいじゃん待ってよ!」
「じゃあ太ってないって言うんだね?」
「ッ……」多少なりとも自覚はあったようだ。無言になったあと、ちょっとだけ、と呟くが幸村は溜息をつくだけだ。
「柳にダイエットメニュー考えてもらいな」
「え〜っでもちょっとだけじゃん〜!なあ仁王!」
「………………うん」
「仁王!?」ためらいにためらったあとの頷きは肯定にならない。嘘だろ仁王!すがりつく丸井の瞳と目を合わせないように必死で避けている。
「仁王……まさか最近俺が動くっていってもさせてくれないのは……」
「そ……そんなことないよ」
「俺重い!?そんなに?上に乗せるのも嫌?」
「いや、それは」
「ひどいッ……!」ぼろぼろっと泣き出した丸井にうろたえ、手をばたばたさせた仁王はあちこちに助けを求めるが周りは目をそらす。自業自得だ。
両手で顔を覆った丸井がめそめそ泣き始め、仁王はとりあえずプリンを箱に戻してからそっと肩に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、顔を上げた丸井が仁王を睨んだ。その拳が握られていると気づくより早く、仁王の頬にストレートが決まっている。哀れにもコンクリートに沈んだ仁王に向かって、涙をこぼしながら丸井は叫ぶ。「仁王のバカー!」
「それ、殴る前に言ってやれば?」
「どちらにしろ結果は同じだ」
「もうお前なんかっ……うわーん!」泣きながら屋上を出ようと走った丸井は途中で一度足を止めた。振り返ってからしばらく迷い、結局涙を拭って屋上を飛び出していく。
「ぶ……ブン太ぁ……」
「……今、プリンに未練があったな」
「プリンだな」
「プリンを見てましたね」
「ブン太ぁぁぁ〜!」
*
泣きながら屋上を逃げ出した丸井は保健室に来ていた。ごくり、とのどを鳴らして体重計の前に立つ。みんな好き勝手言いやがって、思いながらも緊張感が拭えない。恐る恐る両足を乗せると、前と比べると急激に大きくなっている数字に飛び上がった。慌てて体重計から降りてへたりとその場に座り込む。いくらなんでもこれはあり得ない、こんな……絶望にうつむくとパワーリストが目に入り、丸井は肩の力を抜いた。両手首のパワーリストを外し、ついでにベルトも抜いてポケットの財布や何かを全部出す。少し考えて結局ズボンもシャツも脱ぎ捨て、いざ、改めて体重計に乗って数字の安定を待った。
──62.2kg、最新の体重計はそうはじき出す。「俺と一緒じゃのう」
「ヒッ!」後ろから口を挟んだ仁王を慌てて振り返る。いつ入ってきたのだろう。体重計を降りるがすでに数字は見られてしまった。丸井が降りた後に仁王が体重計に乗ると62.2、さっき見た数字とぴったり同じだ。──ただし条件は違う。仁王の腕のパワーリストを見逃さない。そもそも身長だって仁王の方が高いのだ。悔しさに涙がこみ上げる。なんてデリカシーのない男だ。大好きだけど……
「うっ……」
「ぶ、ブンちゃん!」
「そぉやって俺のことからかって遊んでたんだろ、ふざけんなよぉ……」
「ブンちゃん」仁王に抱きしめられ、丸井ははっとして顔を上げる。ごめんね、優しい声に涙を拭い、じっと仁王を見た。
「ほんまに、どんなブンちゃんやって俺は好きよ。柔らかくていい匂いで、かわいい。つい甘やかしてもうたな」
「俺っ……でもやだよ、試合にも出れねーし……」
「俺が責任持ってつきあっちゃる、ダイエットしよか」
「仁王……」
「な、ブンちゃんやったら頑張れるじゃろ?」
「仁王っ!」ぎゅっと強く抱きしめて、促されるままに唇を合わせた。優しくてあたたかい唇と腕の中は幸福でいっぱいで、仁王にすべて委ねてすがりつく。……ふと、違和感を感じて仁王を押し返した。見下ろす仁王の体は反応している。
「……お前」
「だってブンちゃん、なんでパンツ一丁なん?」
「……」
「運動せん?」
「……ま、いいか」改めて仁王を抱きしめてキスからやり直す。こんな運動も混ざるなら、ダイエットだって悪くない。
*
と思ったのはわずかな間だった。柳が立てたダイエットメニューは通常のものより辛く、何より甘いものを完全に絶つという状況が悲しくて仕方がなかった。いつも昼に仁王がくれていたプリンもケーキもなく、抜かりなく手回しされて親が作る弁当もヘルシーだ。
それでも確実に、丸井が苦しんだ分体重は減っていく。ベルトの穴が変わったと喜ぶ丸井に、仁王は笑いかけてやった。「保健室行ってくる!」
「はいはい」もはや日課となった保健室通いを見送り、仁王は溜息をついた。柳がそれに気づいて首を傾げる。
「そういえば仁王もやせたようだな」
「一緒に走っちょるけんな」
「それだけか?」
「……ダイエット中のブンちゃんてな」
「何だ?」
「ギラギラしとんの」
「わかったからそれ以上言うな」
「早く達成しないと仁王が死ぬかもね」
「ブンちゃんのために死ねるなら本望じゃ」ぽっと頬を染めた仁王の幸せそうな顔を見るとばからしくなり、幸村はあっそ、と流して帰り支度を始めた。見送る柳に幸村は笑いかける。
「ブン太、目標まであと何キロ?」
「2キロだ。ここからだな」
「ふーん……わかった」
「……何か企んでるな」
「ふふっ、また明日ね」幸せそうな仁王を一瞥し、幸村は柳に手を振って帰っていった。何をする気だろう。柳の疑問は翌日の昼休みに解決する。順調に行っていることを、幸村が邪魔しないわけないのだ。
昼休み、幸村は白い箱を持って現れた。いつもの弁当を仁王と並んで食べている丸井のそばに座り、黙ってそれを開ける。そこにおわす幸せの塊に、丸井は箸を落とした。
「ゆ……幸村くん!」
「ブン太ががんばってるから、1日ぐらいいいかなって。大丈夫だろ?柳」
「ああ、たまにはな」
「幸村くん……!」瞳をきらきらさせて丸井は幸村の前に膝をつく。あのう、口を挟もうとした仁王は気づかれない。
「ほんとに?いいの?」
「うん。でもひとつだけだよ、ブン太のためなんだからね」
「ほ……ほんとに?食べていいの?」
「いいよ」
「幸村くん大好き……!」
「その代わり、あとの2キロもしっかり頑張ること」
「うん!」召し上がれ、と差し出されたのは、丸井がどんな有名店もかなわないと思っている地元の小さなケーキ屋のショートケーキだった。つやつや光る真っ赤ないちご、こだわりのスポンジに甘さ控えめの生クリーム。最上級の組み合わせを見つめ、丸井はのどを鳴らした。
「……ゆ、夢かな」
「大袈裟だなあブン太は。食べさせてあげるよ、ほら、あーん」
「あ、」反射的に開けた口にフォークが運ばれる。口を閉じて丸井の口元が緩んだ。
「……おいしい」
「いいかい、ケーキなんて毎日食べるものじゃないよ。たまに食べるからいいんだ」
「うん」
「これに懲りたら今度から体重にも気をつけるんだよ。ブン太のためなんだからね」
「うん!」
「じゃ、夢が覚める前にもう一口」
「あーん!」意地が悪いな、思いはするが柳は言ってやらない。魂が抜けたような仁王はしばらく放心した後、キッと柳を睨んでくる。
「ばかっ!」
「俺に八つ当たりするな」
「柳の差し金じゃろ」
「違う。俺はあんなにひねてない」
「なんであんないいとこ持っていくんじゃ!こっの……幸村!それは俺の役じゃけん代わりんしゃい!」
「やだよ。これなかなかいいね、無防備に口を開けるのが面白い」
「ブンちゃん!」
「幸村くん、いちごは最後ね。あっ、そ……そんな大きいの……!」
「柳のばかっ!」
「……どこの乙女だ」顔を覆ってうずくまる仁王に溜息をつく。まったく、テニス部にはろくな奴がいない。他人事のように思いながら、柳は自分の昼食に取りかかった。
ダイエットを終えた丸井に仁王が甘味を買い与える確率100%──いつものことだ。屋上は今日も騒がしい。
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