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ふくれっ面の仁王の頭を撫でてやる。声なき抵抗なのはのどが痛いからだ。風邪気味だったところに社長のバースデーパーティーだとかで大宴会に巻き込まれた仁王はきっちり風邪をひいた。先日は少し気温が低かったというのにビールかけをやったらしい。ずいぶんフランクな会社だ。そんなことばバイトとはいえこんなナリの仁王を雇ったときにわかっていたことだが。

「じゃあ、ちゃんと寝てろよ」

かすれた声でブンちゃんのアホ、と恨み事をつぶやかれる。何を言われようと今日は外せない、こっちは彼女の誕生日だ。今までだって毎回貼りついて仁王の世話をしていたわけではないのに、今日はずいぶんしつこい。夏が始まってから仁王は少し変だ。

「どうしても行くんじゃな」
「行くよ、今日は外せねーの。寝てろよ」
「ブンちゃんがおらん間に死んだら呪ってやる」
「はいはい」

無理やり寝かせて布団を頭までかけてやった。夏は多少軟弱になるが、風邪ぐらいでお迎えが来るほどやわじゃないと知っている。顔を出した仁王ににらまれ、額にキスを押しつけてごまかしてから部屋を出た。鍵はかけておいてやる。
予約していたケーキを取りに行って彼女の部屋、満面の笑みで迎えられて一瞬仁王のことを忘れた。

「わー嬉しい、エルのケーキだ」
「飯はいまから作るな。買い物ありがと」
「楽しみにしてる。ブン太のご飯久しぶりだもん」

さっそく台所に立つと彼女は隣に立ち、手元をずっと見ている。時々くすぐってきたりと邪魔をされ、じゃれあいながら料理を作っていった。

「……ね、ブン太さん」
「んー?」
「メールでは聞いたけどね」
「……ああ」

つんつんと腕をつつかれて、かわいいやつだな、と思う。俺も仁王といるときはこんな感じだったのかな、振り返ってみるが少し気持ち悪い。

「誕生日オメデト!」
「ありがと!」
「暇なら鞄開けてこい」
「え」
「何が出るかはお楽しみ」

照れたように笑って彼女が離れていく。最後の仕上げにサラダのトマトを添えて、出来栄えに満足してうなづいた。

「ブン太、どれ?」
「んー?」

彼女のそばに行って一緒に鞄を覗いてみるが、入れたはずのプレゼントは見つからない。たまにファスナーを閉め忘れていることがあるから、家の中ででも落としたのかもしれなかった。

「ごめん、忘れたっぽい」
「えーっ!」
「また今度持ってくるわ。今日はケーキと俺で許して」
「ばか!」

怒るよりはあきれたようで、くすくす笑ってキスを交わす。少し新鮮なやり取りだ。去年辺りから仁王とはプレゼントのやりとりはなんとなくなくなって、それこそ料理でごまかしていたように思う。遠まわしにねだられた指輪は避けた。でもきっと似合うと思うピアスを、できるだけ早く渡したい。

「ね、今日泊まれるんだよね」
「あー……どうすっかな」
「ダメ?」
「いや、ルームメイトが風邪でダウンしててさ……今日も出てくるときすげー引き留められて」
「またー?ブン太に甘えすぎじゃない?その人」
「ん……まあ、言わないけど今ちょっと弱ってるみたいで」
「そんなに大事にされてるとちょっと妬けるんですけど」
「ばーか」
「でも!今日は私に時間ちょうだいよ!風邪でしょ?ほっといても死なないわよ」
「ひでーな。ま、そうなんだけどよ」
「さ、ご飯しよ。冷めちゃう」

彼女の入浴中に仁王に電話をしてみたが出なかった。寝ているのならいいが、と思いながら携帯を閉じる。あまりあの調子が続くようなら、何があったのか聞いてみた方がいいのかもしれない。言わないなら聞かない、とずっとそうしてきたが、今回は少し様子が違うようだ。

翌日、仁王の様子が気になって昼には帰ると、マンションの前に彼女に渡すはずだったプレゼントが落ちていた。ラッピングが開けられている上に踏まれているようで、ピアスが曲がってしまっている。自業自得ではあるが溜息をつき、早めに買いなおさなければならないと頭の中でお金の計算をしながら部屋へ戻る。

「ただいまー。仁王ー?」

カギは開いていたのに人気がない。どの部屋にも仁王がおらず、パジャマ代わりのよれよれのシャツがベッドに脱ぎ捨てられていた。玄関に戻るといつも履いているサンダルもない。コンビニ程度なら着替えずに行くだろうから、病院にでも行ったのだろうか。鍵はしっかり閉めろと何度言えばいいのだろう。
溜まっている洗濯物を洗ってしまおうと、仁王の部屋からもいろいろ集めて洗濯機をセットした。干したらプレゼントを買いに行くか。財布を覗いて泣きたくなる。仁王は出すなどというがまさか甘えきるわけにはいかず、旅行は無理だな、と諦める。仁王が嬉しそうに話すので行ってやりたかったが、少し厳しい。

洗濯物を干しにベランダに出ると何かを蹴り飛ばした。見れば灰皿で、ひっくり返って吸殻が広がってしまっている。丸井は全く吸わない。しばらく吸っていなかったようだが、仁王がまた始めたのか。やはり何かストレスでもあるらしい。出かけたいが帰りを待ち、帰ったらすぐに問い詰めてやろう。
この夏日だと昼間から干しても洗濯物は十分乾くからありがたい。干し終えて何気なく下を見下ろすと、マンションの入り口にしゃがみ込む仁王を見つける。慌てて部屋を飛び出して仁王のところまで走ると、彼は丸井を一瞥して溜息をついた。

「お前な、心配するだろ。どこ行ってたんだよ、携帯にも出ねーし」
「ブン太」
「何」
「家にばれた」
「……は?」
「ばれた。呼ばれて行って、全部説明してきた」
「な……何を?」
「ブン太のこと」
「……ど、どうだった」
「縁切られた」

4年だ。一緒に暮らし始め、親の目を気にすることなくつき合えた4年。どこから漏れたのか、どうばれたのか、頭が真っ白で何も考えられない。帰ろうか、仁王に言われて黙ってうなづき、部屋に戻る。ばれた、つまり、仁王と丸井がつき合っているということが。一緒に住んでいるのはただのルームシェアではないということ。男同士であること。――縁を切られたって?部屋に着くなり冷蔵庫を開けて麦茶をあおる仁王を呆然と見つめる。

「ど……どうすんだよ」
「どうもこうも……ま。学費は払い終わっ取るし、元々仕送りも大した額じゃなかったしの。どうにでもなるじゃろ」
「そっか……でも……じゃあ、お別れだな……」
「は?――ブンちゃんわかっとる?俺は縁切られたん」
「ああ、だからばれたんだったら」
「だから、俺にはもうブンちゃんしかおらんのよ」
「……え?」
「俺はもうお前のもんじゃ」

抱きしめられてもまだ頭は理解しない。仁王の体は熱かった。そういえばこいつ、熱があったくせに。そんなことばかりが浮かんでくる。ブン太、優しく、甘い声が名前を呼んだ。

――彼を自分ひとりのものにしたかった頃があった。大学へ入ってすぐ、新しくできた友人に誘われて飲んでくると言われては嫉妬に狂ってどなり散らし、少しでも知らない女の名前が出ると問い詰めた。わがままを言って授業をさぼらせて、1日中抱き合っていたこともある。……今更?頭をよぎったのはそんなこと。今更お前が俺だけのものになったって、もう遅い。俺はお前だけのものじゃない。
熱いキスを受けて条件反射で目を閉じる。柔らかく髪をすく手、焦らすようにすり寄せてくる脚、汗の匂い。くらくらするほどに、丸井への思いであふれている。

「……仁王」
「お願いやから、どこにも行かんで」
「……仁王、ごめん、俺今日出かけねえと」
「……ブン太は忙しいね」
「ごめん。お……お前、寝てろよ。まだ熱あんだろ?出歩いたりしたらひどくなるぞ」
「そうやね、ふらふらするわ」
「ほら」

手を引いてベッドまで連れて行く。笑いかけてくる仁王に、自分は笑ってやれただろうか。動揺を隠すことは難しく、仁王が困ったように笑う。

「ごめんなブン太、いきなり」
「いや……うん、でも、なんでばれたんだろうな……」
「さあ……わからん。最近はそんなに、外で会っとらんのにね」
「そうだな……」
「大丈夫、ブン太のとこには行かんように口止めしてきたけん」
「えっ!」
「嫌じゃろ?」
「お、俺?」
「元々人と関わらん親じゃけん、わざわざ行かんよ。……他からばれたら、わからんけど」

何も言えなくなって立ち上がる。混乱したときはできることから、まずは彼女へのプレゼントを買いに、だ。ベッドサイドに飲み物だけ用意してやり、仁王に見送られて部屋を出る。向かう先は、以前彼女に連れて行かれたジュエリーショップ。見ていたのは、どんな指輪だっただろうか。
――カミングアウトなんてする気はない。つき合い始めてすぐはそんな心配をしたこともあったが、彼女もいる今、親にもそれとなくそんな報告をしている。ばれる心配はないと思っているが、このまま仁王とずっとつき合っていくなんて考えられなかった。もう子どもじゃない。ずっと、夢の世界のように、仁王だけいればいいなんて言っていられない。妙に笑顔の明るい店員から品を受け取り、時間を潰して彼女のバイト先へ向かった。いつもの場所まで迎えに行き、家まで送って帰る。

「なあ、忘れ物」
「え?……あ、ありがとう」
「開けて」
「今?」

まだ部屋に入る前。あせっている自分を感じながら、何がしたいのか考えていた。仁王を捨てたいわけじゃない。だけど一緒にはいられない。そんな関係じゃないだろ?自分に問う。プレゼントを開けた彼女は指輪を見つけてぱっと顔を明るくした。かわいいな、と素直に思う。一度指輪の箱を丸井に持たせ、彼女は咳払いをして左手に差し出した。笑って指輪を手にし、わざと人差し指に通そうとすると叩かれる。夏の夜はじとりと湿った空気でふたりと包み込んだ。

 

 

*

 

「行かんで」
「……お前最近どうしたんだよ」

玄関で引き留められて丸井は溜息をつく。夏休みだというのに時々バイトに行くだけの仁王は、最近丸井が出ていくのを邪魔するようになった。大の男に甘えられても嬉しくない。しおらしくてかわいいと思いはするが、同時にうっとうしくもあった。丸井の期限が伝わったのか、仁王も少し眉をひそめる。

「最近話聞いてくれんのはブンちゃんじゃろ。旅行の話も勝手になしにして」
「忙しいんだよ、金もねーし」
「何が忙しいんよ。いっつもいっつも部活とバイトなわけちゃうやろ。遊ぶ予定で忙しいって言われたら俺はどうしたらええの」
「知らねえよ、お前最近うっとうしいよ、べたべたしてきやがって」
「はッ……俺はあかんけど女ならええんか」

ぎょっとして仁王を見た。冷ややかな目が丸井を見る。鋭い眼光になぜか高校時代を思い出した。最後の、最後の試合。目に焼き付けようと必死で見た彼のシングルス。中高と変わらなかった、コート上のペテン師の名――

「……彼女の前には現われてやらんから、行かんとって」
「に、仁王?」
「……なんで俺がこんなみじめなお願いせんといかんのじゃ。ほんまに腹立つ……女と会うんわかって見送って、アホか俺は。アホな女と一緒にすんなよ」
「お前、いつから」
「――なあブン太、俺がいつから携帯持っとらんか知っとる?」
「え……」
「ずっとな、電源切って、クローゼットに入れてある」
「な……なんで」
「嘘ばっかのメールなんかいらん」

仁王の声が震えた。はっとしたときには仁王は顔を覆い、浅い呼吸を繰り返してまた丸井を見る。向けられた無表情にどきりとした。心臓が冷える。暑さのせいではない汗が背中を流れた。

「――女がおるん知りながら、抱いて、抱かれて、俺がどんなにみじめやったか、わかるか。気づかんとでも思っとったんか。アホなやつって、俺を笑えば満足か。なんでこんな……できもせんのに、二股かけるような男」
「仁王」
「ふざけんなよ。……なんで女選ぶんじゃ、いっそ男やったら、まだ」
「……いつまでもこんな……男同士みたいな、そんな恋愛してらんねーよ。もう大学も卒業だってのに、夢みたいな」
「……ブン太には、これが現実に見えんかったん?」
「仁王」
「何でブン太と一緒にいたいと思ったらあかんの……」

泣くのか、反射的に伸ばした手を叩き落とされる。ぐっと握ったこぶしを見て身構えた。殴られるのだろうか。

「……すまん」
「え?」
「……ごめん。ブン太が言うまで待ちたかった」
「……仁王」
「ごめん。……待っとるんやろ、行っといで。でも頼むから、今日は帰ってきて。ちゃんと話したいけん」
「――わかった」

うつむいてしまった仁王は全身で疲れを物語った。どうして気づかないなんて思っていたんだろう。自分以上に、仁王は自分から問いただすということをしないと、知っていたはずなのに。……本当に?自分は本当に仁王のことを理解してたのだろうか。

彼女と映画を見て、お茶をして、キスをして、別れた。親に会いに行く約束をした。まだ社会にも出ていない分際だが、このまま何年かつきあえば結婚となるだろう。そして、仁王との関係は過去のことになる。いつか笑って、嘘を混ぜて、話すのかもしれない。俺大学のときにルームシェアしてたじゃん、実はあいつと寝たことあるんだよね。まあ、酔ってて1回だけだよ。よく覚えてねーし。
家に帰ると仁王は携帯を開いていた。フローリングに寝転んで、受信が終わらんと笑っている。

「楽しかった?何してきたん?」
「……映画」
「そっか。――一緒に行ったん、高校のときだけやね」
「……そうだっけ」
「自信なさげやのう。ちゃうよ、去年か一昨年、何回か行った」
「……ああ、そうだ。行ったな」
「女々しゅうて気持ち悪いわ」

仁王が自分自身のことを言ったのだと気づくのに時間がかかった。――いつか言おうと思いながら、どう説明するつもりだったのか、何も考えていなかった自分に気がついた。それどころか仁王が自然に離れていくだろうという身勝手な想像さえしていた。
そういえば柳生や幸村に仁王生きてる?とふざけたようなメールを何度かもらった。それは、仁王と連絡が取れないという意味だったのか。気がつかなかった。仁王へはいつも、帰りが遅くなることや急用でしか連絡をしなかったから。仁王からの着信はいつからないのだろう。

「……ほんまに、昔から厄介な子やね」
「え、」
「自分勝手で乱暴で、めちゃくちゃで。ひどい王様じゃ」
「……言い過ぎだろ」
「でも好きなんよ」

どきり、とする。久しぶりに好きだと聞いた。いつからセックスをしていないのか……セックスばかりになっている。頭を振って切り替えようとするが、最後にまともに会話をしたのも、目を合わせたのも、セックスをしたときと同じだ。

「……ブン太の気持ちが、続かんかっただけやね」
「違う、俺は……好きだよ、お前のこと」
「でも女のが大事なら同じじゃ」
「……恋愛だけ、してられねえだろ。仕事もあるし、家族も」
「あんな美人が嫁に来たらそりゃ家族も喜ぶじゃろ。彼女もええとこ就職できたん?もう結婚するん?」
「仁王」
「……ブン太をすきなだけ、自分が嫌いになる。初めてじゃこんなこと。食うても吐くし、病院行ったらストレスやって言うだけやし、誰にも言えんし」
「病院って……」
「考えすぎやって、アホらし、俺はブン太のことしか考えとらんのに」

体を起こした仁王が携帯を投げた。鈍い音を立ててテレビの前に落ちた携帯電話、大学入学前の春休み、一緒に買いに行ったときのままだ。仁王は時が止まったまま、4年を過ごしたのだろうか。丸井から見るとそう見える。

「……どうするん」
「え?」
「俺を捨てる?」

仁王はこっちを見なかった。指先をじっと見下ろして、爪の先をいじっている。長いまつげの横顔。とても大切な人、だった。

「言ってくれたら、諦めるよ」
「わ……別れ、る?」

――俺しかいないという男を、見捨てるのか?丸井の選択に仁王は笑った。なんで疑問系にしたん、

「ええよ。もう、何も言わん。でも今更やから、家は出て行かんでな。ブン太のうちも変に思うやろうし」
「……仁王がいいなら」
「ずっとブン太に決めてもらっとったんじゃ、最後も任せる」

――仁王が決めたのは、旅行だけ。それも丸井が反故にした。裏切った丸井を笑って許した仁王を手放すのが急に惜しくなった気がしてうんざりする。どうして仁王はこんな男がいいのだろう。8月の終わりだった。

 

*

 

仁王に彼女ができたらしい。らしいというのは聞いてもはっきり言わないからだ。遊び相手はできたよ、とかわされる。

「今日もでかけんの」
「どうしても今日会いたいって言ったら予定キャンセルにしてくれたんじゃ。それって愛されとる?落とすにはマメに動かんとね」
「……マジなんだ」
「まじめに、遊んどるんよ」

にこりと笑って仁王は部屋を出て行く。彼女との予定をキャンセルされた丸井は暇をもてあましていた。久しぶりに1日ゆっくりと過ごせると思っていたのに、どうしても会わなければいけない人がいる、と。言われたついでに、暇そうにしてないで働けば、と余計な一言を言われたことを思い出して腹が立ってくる。仁王が誰かと遊んでいることも面白くない。
最近バイト先の人手が減って忙しいという彼女とはしばらくちゃんと会えていない。疲れでいらいらしているのかもしれないが、それにしたってもう少し優しくしてくれればこっちだってそうしてやるのに。仁王はそんなことなかったのにな、と思わず比べてしまう。丸井の言うことに仁王は最終的には従った。

手持ち無沙汰に冷蔵庫を開けて、久しぶりに請った料理でもしようかと残り物を見ていく。買い物に行って、ちょっと高めのアイスでも買ってデザートにしよう。つまらない夜を過ごしたのは、仁王が帰ってこなかったからだ。夕食はいらないというメールが来たきりで、なんとなく面白くない。帰ってこなかった日はなかったのに。
……こんなことをしていれば、彼女ができたことなんてばれても当然か。今更自分を振り返る。じわじわ変わっていった生活の変化でも仁王が見落とすはずがない。だんだん調子に乗っていた自分もいる。俺を好きだと言いながら女と遊ぶなんて、いない仁王を勝手に恨んだ。自分勝手にもほどがある。わかっているのに耐えがたい。いろんなことを言いながらも自分はまだ仁王が好きで、仁王が好きだと言ってくれていることに甘えている。仁王がそれで言いといったのだから、と言い訳をして。

ふわん、と香るのは慣れた香水の匂い。柔らかく唇に触れたのは、やはり唇だろう。触れては離れてと繰り返すキスを受けて、甘い香水に誘われるまま唇を吸った。手を伸ばして抱きしめて、それが初めて男だとわかって目を開ける。はっとした丸井に気づいたように、丸井に覆いかぶさったまま仁王が笑った。

「な、しよう」
「仁王」
「したい」
「お前、帰ってこないんじゃ」
「はじめて女抱いた」
「え?」
「そしたらブン太に会いたくなって帰ってきた。しよう」

ちゅ、と音を立てながら顔中にキスをされて、首筋へ下がっていく。仁王の首筋にキスマークを見つけたのは、彼が服を脱ぎ捨てたときだ。

「女の次に俺か」
「口直し」
「最低だな」
「ブン太がいい」

はあ、と熱い息を吐く。押すように体を起こし、赤いキスマークに歯を立てる。思い切り噛みつくと仁王の体が強張った。

「ブン太ッ……」
「変態か」
「好きにして」
久しぶりに抱き合った体は心地いい。好きだよ、と囁いたのは、どっちの言葉だったのかわからなかった。

 

*

 

「お前、指輪は?」
「……うるさいなあ、細かいこと気にして……」
「なんだよそれ」
「……遠回りしても仕方ないから言うけど、あのね、好きな人ができたの。もうつき合いも始まるし」

なんとなくそんなことはわかっていた。最近は関係もよくなかったし、今日会うのも久しぶりだ。

「信じらんね、浮気?」
「……ブン太だって同じじゃないの。キスマークついてるし」
「あ?」

仁王につけられたというのだろうか。そんなこと、今までなかったのに。丸井が嫌がるのを知って、つけても見えないところだ。

「もう一緒にいれない。別れよう」
「……おう」

初めてつきあった女。1年半。仁王ほど続かなかった。別れてからもに仁王と何度かセックスをした。女の匂いをさせて帰ってくる仁王と。抱いたり抱かれたり、どろどろの気持ちのいいセックスは、どうして仁王としかできないのだろう。
腹立ちに早足で帰ると仁王は電話で話をしていた。丸井の帰宅に気づいておかえり、と笑い、ほぼ同時に携帯を切ってしまいこむ。

「別れた」
「ほんまに?」
「うん」

仁王に伝えてどうなるというのだろう。よりを戻そうというのか。自分から仁王を捨てておいて、そんな都合のいい。それでも嬉しそうな顔をした仁王に期待する。ずっと一緒にいた、自分を理解しきった、親よりも近しくなった存在。今になって愛しく思うのは、自分が女に浮かれていただけで、仁王を忘れていたからだろうか。こんなにも、

「そっか、別れたんか」
「うん」
「……早かったね」
「そうかもな」

仁王はにこにことしている。丸井の機嫌などお構いなしに嬉しそうだ。さっさと言ってしまえよ、戻ってこいって。

「ブンちゃん、俺に何か期待しとる?」
「……」

すっと仁王の目が細くなる。口には笑みが浮かんでいるが、この違和感は何だろう。

「好きだよ。ずっとブン太と一緒にいたいし、ブン太が俺と一緒にいたいと思ってくれるなら嬉しい。次は絶対離さない」
「仁王」

丸井の言葉をさえぎるように仁王は言葉を吐く。

「でも俺は一生許さんよ」

笑顔のままつむがれる言葉は攻撃的だった。ずしりと重みを持った言葉が丸井にのしかかる。愛を囁く同じ口で憎しみを語る。混乱する頭ではよく理解できないが、わかったのは、つまり、元には戻れないのは確かだということだ。

「それでも俺と一緒におる?」

言ってから仁王はうつむいた。顔を覆って溜息をつく。めんどくさいのう、笑い混じりの声は震えていた。

「嫌いになれればよかったのに」

もう恋をすることはないような気がした。きっと一生、そばにいない仁王のことを考えて過ごすのだろう。10年経った頃にいい加減結婚しろといわれて、見合いでもするのかもしれない。すべてを黒く染めた髪のせいにしてしまいたかった。社会が悪かったのだと言ってしまいたかった。
この手に残るのは、なんだろう。俺が欲しかったものは――?仁王のキスを受けて、背筋に冷たいものが走った。

 

 

080708