「行ってらっしゃい!」

返事は聞こえなかった。ドアの閉まる音を聞いてブン太は溜息をつく。――また今日も、まともに話ができなかった。感情を溜息で散らし、袖をまくって洗濯籠を持ち上げる。ひとりきりの広い部屋、無機物に囲まれた部屋は憂鬱で、洗濯物を干しにベランダに出ると少し安心した。
隣の家の芝生が鮮やかで、朝露に光ってまぶしい。どうせ暇なのだからうちでも何かしようか、流石に芝生の手入れまでは難しそうだが、花の世話ぐらいならできるだろう。

仁王がうっかりためていた数日分の白衣を干しながら、最近覚えた歌を歌う。家の中は静かで、自分がしゃべらなければ寂しくて仕方ない。
――仁王は毎日忙しそうにしている。実力があるとはいえ若手の学者で、それに合わせてマスコミの注目も大きく、講演などでも飛び回っている。そうなることはわかっていて、仁王にあらかじめ忙しくなるとは言われていたが、それはブン太が考えていた以上だった。家へ帰ってきても食事と睡眠の最低限だけで、あとはどうにか風呂に入れさせるだけで精一杯だ。顔を合わせれば仁王も笑ってくれるが、丸井の気持ちは何もわかってくれない。もうちょっとな、と言われても、仁王の忙しさは日々増している。もう少し待った先に、何があるのかもわからなかった。
世間知らずに育ったからメディアは面白くない。働きに出れば友人もできて楽しいのかもしれないが、その必要性は感じなかったし、なによりブン太は戸籍を持たないのでそれも不可能だった。
晴れた空を見上げ、白衣を翻す風を感じる。今日も静かな1日になりそうだ。

戸籍を持たないがゆえにメイドロボットとして幸村に使われていたブン太は、少し前から人間として、仁王と共に暮らしている。生まれて初めて自分を抱きしめてくれた、ぬくもりを教えてくれたその人は、偉い学者様だ。ブン太にはそれぐらいしかわからない。いまや一家に一台の家事ロボットの基礎となったA.I.を作ったのが仁王だ。まだ改善点はあるようで、ずっとその業界からだけではなく社会からも身を隠していた仁王は今引っ張りだこになっている。抱きしめあう時間なんてない。わがままの言い方もわからない。

自分を拾ってくれた幸村の家ではブン太の存在は歓迎されていたわけではないが、それでもこんなに静かではなかった。自分がひとりになることなんてなかったし、他の使用人ともうまくやっていた。メイド服のすそを払って台所へ向かう。仁王が急いで食べた朝食の食器を片づけようとして、椅子に座り込んで溜息をついた。どんなに手をかけて作っても、たった一言のおいしいももらえず、何を出そうと気にしている余裕は仁王にはない。
あまりのやりがいのなさに今日はインスタントのスープを添えてやったが仁王は何も言わずに出て行った。きっと気づいていないだろう。ばからしくなって、明日は作ろう、と思う。チーズを入れたオムレツとコーンスープにクルトンを落として、新鮮な野菜でサラダを。片づけて買い物に行こう、と立ち上がる。あとひと口を食べる余裕もなかったのか、トーストの端が残っていたので口に放り込む。たっぷり乗せた蜂蜜の甘さも、かたくなってしまったパンに魅力を持たせなかった。

――いつから抱きしめられていないのだろう。いつからキスをしていないのだろう。少しこみ上げた思いが何なのかわからない。心を落ち着かせるつもりで丁寧に皿を洗い、片づけ、汚れたエプロンを換えて買い物へ向かう。
もう仁王邸のメイドはほとんど毎日の買い物と目立つ姿にマーケット中に知られていた。おかげで買い物はしやすい。

「おはよう、ブン太。いいの入ってるぜ」
「おはようジャッカル。何?」
「グレープフルーツ。見ろよ、ピンクの」
「おー、きれいだな」

半分に割られたグレープフルーツの、外見は見慣れたものと変わらないのに中身は鮮やかなピンクだ。少し迷ってから幾つか見繕う。仁王が食べる時間はないかもしれないが、しぼってジュースにしてやろう。小振りのスイカにパイナップル、ぶどう、さくらんぼ。きれいな果物が並んでいるこの店が結構好きだ。毎日買い物をするような場所ではないがこの店が好きだった。通りかかれば話をする。

「最近ひとりだな、前は一緒に買い物来てたのに」
「うん、忙しいみたい」
「ご主人は何してる人だっけ」
「……よく知らねー」

笑ってまたくるわ、と店を離れた。少し面倒な食事にするとわずらわしいのか食べないので少し考えなくてはならない。昨日は肉にしたので魚にしたいが、焼き魚はアウトだ。
小型の店が並ぶマーケットを考えながら歩く。少し歩いているだけでもロボットが目についた。単純に運搬だけの、人型ではないロボットの方がこのマーケットでは主流だが、人と変わらないロボットも店番に立っている。計算などのミスがないので使う店も多いようだ。A.I.なら人を見ながら会話も覚え、値引き交渉もできるようになる。――そんなロボットたちのために、仁王が働いているのだ。それを支えるのが、今ブン太にできる精一杯だ。

「あ、ブン太さんこんちは」
「よう赤也、おはよ」
「今日は何するんすか?」

自分よりやや幼い、彼もロボットだ。仁王と共に仕事をしている柳がベースを作った、仁王が復帰して作った2体目のロボットだ。時々うちでメンテナンスをしている。人と同じ食事から動力を取るロボットはまだ少なく、充電式が多い中、新しい型を確立させようとしたまだまだ試作だ。そっちに集中して少し知能には不安があるようだが、それがよけいに人間のようだ。

「……お前、昨日、何食った?」
「餃子っす」
「あー、いいなそれ。魚にしようかと思ったけど」
「今日はねー、刺身がいいっすよ。いか入ってます。いかとえび」
「刺身か……いいな、そうするか」
「毎度アリー!ふたり分?これぐらい?」
「アバウトだなテメー。その半分でいいよ。切り身ねーの?」
「さけ、まぐろ?これぐらい?」
「迷うな、まぐろで合ってるから。んで半分でいい。ふたり分だって」
「だってブン太さんとこ他のふたり分より多い」
「……わるかったな」
「やべ、計算わかんね。おっちゃーん」

赤也が呼ぶと奥にいた店主が出てきて、ブン太を見て挨拶をした。ゆっくりでいいと伝えると、赤也に優しく教えている。柳の知人らしいが、赤也はいい人に出会った。ロボットはどうしても下に見られがちになる。

「わかったか?」
「だからー、足す。いか、えび、さけ、まぐろ」
「そうだ」
「電卓で、出す」
「そう」
「これ?合ってる?」
「そう。ブン太さんお待たせ」
「ハイヨ。赤也、また飯食いにこいよ」
「うん!」

浅ましいな、と思う。赤也のメンテナンスがあれば仁王はその間家にいる。家で作ったから、そこの設備の方がやりやすいらしい。羨ましいなどと、おかしなことだ。今更、またロボットになりたいなんて。どうして俺は、仁王に作られたロボットじゃなかったのかな?人と笑い合うロボットと手を振って別れた。

昼食には少し前のパンでフレンチトーストを。たっぷりの砂糖で甘く仕上げて、少しの間幸せにひたる。短いささやかな幸せのために、今の生活になってからまた料理の腕が上がった。役に立つこともないのに。
午後は埃の溜まらない家の掃除をする。もう日課だ。取り込んだ洗濯物をたたんでアイロンをかけ、夕食の支度を始める。今日は何時に帰ってくるだろう。かぼちゃの煮物をして刺身は切って冷蔵庫、汁物は何にしようか。ゆっくりと時間が流れる静かな家で、今日もひとりでくるくる踊る。

夕食ができても煮物が冷めても仁王は帰ってこなかった。台所でうとうとしてしまったブン太は仁王の帰宅で目を覚ます。時計を見ると23時、何時間寝ていたのだろう。

「おかえり」

刺身をどうするか考えながら、玄関に倒れこんでいる仁王を起こした。ぐったりした仁王は酒臭い。

「おかえり。ほら、こんなとこで寝るなよ」
「ん……ただいまブン太」
「おかえり。立って、明日は?
「……9時から総会」
「6時に起こすから朝風呂入れよ」

手を貸して立ち上がらせ、仁王をどうにか部屋へ運んでいく。新しいシーツにしわを寄せながら仁王を寝かせた。ブン太、名前を呼んだ仁王に返事をするよりも早く、彼の意識は夢の中に落ちている。せめて、彼が自分の夢を見てくれればいいと苦笑して布団をかけたあと、眉を寄せて涙に耐えた。まだ若い仁王は誘われるとなかなか断ることができないようだ。たまにこうして酔いつぶれて帰ってくる。
自分も夕食にしようと台所へ戻り、料理を温めた。刺身は少し迷い、他のおかずを控えてふたり分食べてしまう。ひとりの食事はつまらない。どんなにおいしくできても、ほめてくれる人がいない。これでは昔と同じだ。料理を作って出しはするが、誰かと一緒に食べることのできなかったあの頃と。

誰にも言えない毎日のこの思いを、どこへもって行けばいいのか、ブン太にはわからない。幸村にいうことはできなかった。仁王が責められるのはブン太も望んでいない。仁王が悪いわけではないのだ。――わかっていても、どうしようもない。こんな生活はロボットと同じだ。悲しくなって食器の片づけもそこそこにブン太も布団に入った。明日は害虫駆除の業者が来る。その間ひとりでどこへ行こうか。

眠りの中で仁王に抱きしめられた。好きだと囁かれてあたたかい手に翻弄されて暴かれていく。それなのにどこかむなしくて、寂しい。
つぶやいた自分の声で目が覚めて、夢の中の行為に反応している体の浅ましさに涙が出た。痛くても苦しくてもいいから愛してほしい。そんなことは絶対に言えないけれど。近くにいるはずなのにこんなにも焦がれている。体の熱をどうしたらいいのかわからず、ひたすら布団の中で泣いた。

長い夜を越えて朝が来る。仁王を叩き起こして、寝ぼけ眼のまま風呂に放り込む。昨夜何を食べたのかは知らないが少し優しいものにしようと、卵と鮭でおじやにした。

「頭痛い……」
「薬出しとくから飯食え」
「うん……」

どれほど飲まされたのだろう。髪をかわかしてやる時間を考えながら服を準備する。スケジュールをきちんと確認して、タクシーを呼んだ。

「あ、そうじゃ。明日泊まりで出るけん、夕方荷物取りに来る。用意しとって」
「了解。1泊?」
「2泊。頼むな」
「うん、行ってらっしゃい」

行ってきます、の笑顔を受けて必死で笑顔を作る。少し引きつったことも仁王は気づかない。トランクを出しに向かった物置で少しだけ泣いて、2泊ならトランクより大きめの鞄の方がいいかと見比べる。仁王のことだからトランクに元通りに詰めることができないかもしれない。余裕のある鞄を選び、着替えや必要なものを詰めた。
どうして仁王が自分から離れていく手伝いをしなくてはならないのか。一緒に行きたいとさえ言い出せず、明日も笑って見送る自分が容易に想像できる。

昼前に業者が来た。外で昼食をとることにして家を出る。今日はメイド服を脱いで出た。無意識に向かうマーケット、出店は何が出ているだろう。

「ブン太さん!」
「……おー、赤也、どうしたんだよこんなところで、迷子?」
「違います!おつかい!」
「へえ」

赤也も成長したな、思って頭を撫でてやる。服が変わると人の判別ができなかったときは仁王も絶句していたが、流石に成長は早い。

「買い物ですか」
「んー、外で昼飯にしようと思って。お前は?」
「帰るところです。お昼はこれから、帰って一緒に作ります」
「……それ俺も一緒に混ざっていいかな」
「ほんとに?」

くるっと目を輝かせ、赤也はブン太の手をとって走り出す。人並みを器用に縫って走るので、引っ張られているブン太も走りやすい。無意識でもロボットはロボットだ。馴染みの店主はブン太に少し驚いたようだが、楽できる、と笑って昼食を赤也とブン太に任せてしまった。

「何すんの」
「やきそば」
「おー、いいね」

体格こそブン太とそう変わらないのだが、赤也の中身はまだ幼い。並んで包丁を握っていると危なっかしく、何度もひやひやした。たまねぎをざくざく切っていると目がちくちくして涙がにじんでくる。

「あー、イッテ……」
「ブン太さんなんで泣いてんの?」
「……赤也、たまねぎ切って」
「うん」

赤也は泣かない。つけてもええけど、と仁王は言った。今はまだ、必要じゃないものは省いていると。

先にフライパンを出し、にんじんなどを炒め始める。油がぱちぱちと音を立てるのが面白いのか、切ながらこっちを見ようとするので視線で制した。切り終えたらフライパンを任せてやると野菜や肉をかき回してこぼれるのをけらけら笑っている。一発殴ってやって一緒に笑った。
この日の昼食は楽しくて、別れるのは名残惜しかったが仁王が帰ってくる。帰りにトマトときゅうりの苗を買った。慰みにはなるだろう。

「おかえりブン太」
「あ、悪い、早かったんだな」
「ええよ。鞄あれやね?」
「うん。もう全部詰めてる。晩飯は?」
「呼ばれとる」
「そっか」

先に帰っていた仁王は書類を繰っていて、なんとなく近寄りがたい。コーヒーだけそばに置いて着替えに行く。自分の知る仁王はまだまだだらしない男というイメージの方が強く、こんな真剣に仕事をしている仕事をしている姿をうちの中で見ることはほとんどない。

「何買ったん?」
「え?ああ、野菜でも育ててみようと思って」
「ふーん……じゃあ比呂士の部屋を使ったらええよ。外よりよっぽど光集めるけん」
「そうなんだ」
「あっと……そろそろ出るか」

ファイルに書類をしまってパソコンも閉じ、支度をする仁王の荷物を持って玄関へ向かう。家の前まで迎えの車が来ていた。免許を持てれば送り迎えぐらいできるのに、思ってむなしくなる。それは幸せな時間になるのだろうか。

「じゃあ、留守にするけど」
「うん、行ってらっしゃい」
「いつもごめんな」
「ちゃんと飯食えよ」
「どこの飯もブン太にはかなわんけどな」
「あたりまえだろ、誰より愛情込めてんだからよ」
「ふふ、ありがと」

不意に頬を撫でられてはっとする。優しく笑いかける仁王と目が合って、行ってきます、とささやくように言った唇が額に触れた。照れたようにブン太の頭を撫でて仁王は背中を見せて出て行く。
ふらつく足でリビングに戻り、飲みかけのコーヒーを片づけて、苗を持って比呂士の部屋に向かう。仁王が一番初めに作った、今は幸村の元で働いているロボットが昔使っていた部屋は、片づけてからずっと空にしてあった。大きな窓の前に苗を持ってきて、プランターも土もないことを思い出す。途端に涙が溢れ出た。

仁王が自分を大切に思ってくれていることはわかっているのだ。仁王の仕事はブン太の未来とリンクしている。ブン太のように戸籍のない人間のために幸村が活動している。同時に急増したロボットの扱いや取り決めに関しての法成立も進めていて、ロボットに関して仁王があちこちで活躍することが、幸村の秘書として働く比呂士というロボットの注目を高めていくことになる。様々な要素が合わさり、いずれはブン太の幸せになるのだと説明された。
それでも、そうだとしても。ブン太は未来のことなんて考えたことがない。今自分ができることは、今日の仁王のためのことだけだ。自分がいないところで仁王が何をしているのかもわからない。一緒にいると、幸せにすると言ってくれたのに。

ひとりで泣き続けていると来客があった。また仁王の客だろうか。メイド服でもない格好ででるのもはばかられて、おまけに泣き顔。迷いながらインターフォンで外の様子を伺うと、客は幸村だった。急いで涙を拭い、ドアロックを解除して、入ってくるのを待ちきれずに飛び出した。玄関に入ってきたばかりの幸村はブン太に驚きながらも優しく抱きとめる。

「どうしたの?」
「もうやだ!」

絶えず流れる涙で汚すまいと幸村から離れようとしたが、それに構わず抱きしめられて、更に涙が溢れる。

「どうしたの、仁王にいじめられた?」
「う……もう帰る……」
「ブン太?」
「もうひとりは嫌!」
「……どういうこと?」
「仁王がいないのにこんな家いたくない!」
「……仁王は忙しいのかな?今日は?」
「……泊まりで、出た」

優しく頭を撫でられて鼻を鳴らす。顔を覆って深呼吸をした。あまりみっともない姿を見せたくない。幸村と一緒にいたらしい比呂士にハンカチを差し出され、少し迷って受け取った。仁王が初めに作ったロボット。髪の色は違うが顔や体つきは仁王を模して作られていて、かけている眼鏡で顔が隠れていなければ仁王にしか見えないだろう。悲しい。

「……ロボットになりたい」
「ブン太」
「もう泣きたくない……」
「……帰ろうか、一緒に」

幸村に手をとられてうなづいた。あたたかい手は幸村のうちへ行くともう触れることはできなくなる。本来ブン太が幸村のような地位のある人間とこんな風に接することはできない。あのうちへ行けば自分はまたロボット同様の扱いをされることになる。それでも、あの頃の方が楽しかった。幸村に笑顔を向けられるだけで満足だったのだ。仁王のせいでこんなにわがままになってしまった。ぬくもりを、教えられたから。

比呂士の運転する車で幸村の家へ向かい、メイド服を着た。以前からいる使用人の反応は様々だったが、喜んでくれた顔もある。夕食を一緒に作った。誰かの隣に立つ幸せを思い出した。自分だけの部屋はない。台所の隅に、まだ自分のソファーが残っていて笑ってしまった。

働いているうちに仁王が帰ってくる日になった。落ち着かずそわそわしていると幸村がこっそりと近づいてくる。

「どうする?」
「……飯だけ、作ってきていい?」

帰ってくる前に食事だけ作り、家を出た。スケジュールを確認してきて、出会わない時間に家事をしに行く。数日繰り返したが幸村は苦笑するだけだった。親しかった使用人に料理の腕が上がったとほめられ、ひとりで早く仕事ができるようになったと見直された。誰かと笑えるのが楽しい。妙な夢も見ない。――それでも、どうして寂しいのだろう。たくさんの洗濯物を広い庭で干すのは好きな仕事だった。今日は風も気持ちいい。

「あれ?ブン太さんだ!」
「え?」

芝生を横切ってきたのは赤也だ。どうしてこんなところで、戸惑っていると柳さんと来たんす、と笑った。さっきの来客は柳だったのか。

「幸村さんの話難しいんすよ。用は後だから遊んでていいって」
「俺もあの辺の話はわかんねーや」
「ブン太さん何でここにいるの?最近買い物こねーから、心配してたんすよ」
「うん……ちょっと、な」

数日のことなのにマーケットが懐かしくなる。高級食材を扱うのは腕がなるが、あまり自分の性に合わない。仁王と一緒にご飯が食べたい。思っただけなのに涙がこぼれて、目の前の赤也が慌てた。自分でも焦ってエプロンで顔を隠す。

「な、泣くなよ、俺何か言いました?」
「や……大丈夫」
「……俺人のことはよくわかんないけどさあ、今ブン太さんが泣いてるのはたまねぎのせいじゃないって、わかるよ」
「赤也……」
「泣かないでよ。困っちゃうからさ。俺どうしたらいいの?」
「……ははっ、お前にゃ難しいかもな。俺だってどうしたらいいのかわかんねーんだから……」

急に赤也に抱きしめられた。思いがけず力強く、しかし強いわけではない。優しくてあたたかいのはロボットでも同じなのだろうか。それとも、仁王が作ったロボットだから?

「あ、赤也?」
「やっぱ泣いていいよ、泣きたいときは泣かせとけっておっちゃんが言ってたのを思い出した」
「……ばか、驚いて涙なんか止まったぜ」

ありがとな、赤也の頭を撫でてやると嬉しそうに笑った。それに自然な笑顔を返せる。柳のうちにいるロボットにはこんなことはできないのだろう。やっぱり仁王はすごいのだ。にこにことしている赤也はなかなか自分を離さなくて、少し妙だ、と様子をうかがうが素人のブン太にはよくわからない。

「ブン太!」

はっとして赤也の肩越しに見るのは、もう何日も姿を見ていない仁王本人だった。思わず逃げようとしたが赤也に抱きしめられたままで、離れるより早く仁王が走ってきて赤也から引き剥がされる。

「何しとんの!」
「ばかっ赤也だよ!」
「え?あ……何じゃ、浮気かと」
「はっ、何言ってんだよ!」

勢いでブン太を抱きしめていた仁王を突き放し、仁王を睨んでやろうとするのに涙腺が緩む。涙交じりの情けない声にうんざりした。

「ばかやろう!何だよ今更!」
「ブン太」
「幸せにしてくれるんじゃなかったのかよ、幸せってなんだよ!俺を人間にしてくれたのはお前だろ、だったらちゃんと面倒みろよ!俺はッ……」

声が詰まって一度咳き込む。伸びてくる仁王の手を再び叩き落し、ゆっくり息を吐いた。

「……寂しいんだよ、お前んち……」
「ブン太、ごめん」
「もう帰らない。ひとりになるぐらいならここにいる。俺はロボットに戻る」
「ブン太!」
「触んなよ!」

欲しかったぬくもりを思い出してむなしくなる。今更戻ってこられても不信感しか抱けない。肩を震わせて泣き出すと仁王の溜息が聞こえた。面倒なものを背負い込んだと後悔しているのかもしれない。仕事の中で色々な人間と出会うだろうから、ブン太なんてもういらなくなったに決まってる。自分がいなくても代わりのロボットを作ればいいだけだ。悲しくてしょうがない。

「ごめん」
「謝らなくてもいい。俺は、お前らがどんな大変な仕事してんのかわかんねーから、俺のためだって言われてもしらない。俺は未来の俺なんて考えたことない。人間になれなくても、ロボットのままでいいから、お前と一緒にいたいだけだったのに!」

強い力で抱きしめられて、暴れようとして押さえつけられる。汗の匂い、仁王の匂いだ。涙が止まらない。

「すまん。優先順位間違っとった。もうひとりにしたりせんから」
「やだよ、もうやだ!」
「ブン太、頼むから、戻ってきて」
「ッ……」
「ブン太、大好き。ほんまに一緒にいて、もう、泣かさんから」
「信じられない」
「約束する。約束破ったら、殺して」

顔を上げると物騒な言葉とは裏腹に穏やかな表情を浮かべていて戸惑った。涙に濡れたブン太の頬を撫でて、そこにキスを落とす。

「ブン太はロボットちゃうから、寂しかったり悲しかったりするんじゃろ。ロボットなら俺を殺すこともできんじゃろ」
「ばか!お前が死んだらまた俺はひとりだろ!」
「だから、絶対ひとりにせん」
「……今日、仕事は?」
「あんなもん捨ててきた。ブン太の方が大事じゃ。お前が一番」
「……俺のこと、忘れてたくせに?」
「忘れとらんよ。ほんまは連れて歩きたい。でも他のやつらに見せるんも嫌なんじゃ。宝物は隠しとくもんじゃろ?」
「……飯食った?」
「昼は食っとらんな。朝は食べたよ、うまかった」
「……俺がいい?」
「お前がいい」
「……う……」

泣いてすがりつくとあたたかい胸に抱かれる。気づくと赤也はいなかった。なんとなく自分はいてはいけないのだろうなと悟った赤也は柳のところへ戻ってきている。やれやれ、と溜息をついた幸村が赤也を見つけて頭を撫でた。

「まったく、手間のかかる男だな、仁王ってやつは」
「昔からのことで慣れたがな」
「柳は気の長い男だね。俺もーイライラしちゃって、あーもう!どうしてこうなるまで気づかなかったんだろ!俺もサイテー!」
「柳さん」
「どうした赤也」
「俺壊れたのかな」
「ん?」
「ちょっとだけ、仁王さんが嫌いな気がする。ブン太さん抱きしめたら、嬉しかったよ」

柳と幸村が顔を見合わせた。普段伏せられている柳の目も開いて、また赤也を見たがけろりとしている。腹減ったな、などと言っている様子はさっきと何も変わらない。

「……恐ろしい男だな、仁王は。ロボットに恋心とは恐れ入った」
「面白いから黙っとく?」
「まあ……修正するようなものでもないが……うむ、いいデータがとれそうだしな」

泣き腫らした目で帰ることを告げたブン太を、今日だけは強く抱きしめて、幸村は彼の幸せを願う。仁王を働かせていた一部に自分も関わっているから多少の罪悪感もあった。幸せにしてあげたい子だ。仁王と並ぶ後ろ姿は幸せそうに見えた。

仁王のうちへ帰ったブン太は以前のように夕食を作り、その間仁王はあちこちに謝罪の電話をかけていた。しばらくは生活は変わらないだろう。それでも少しずつ、仁王といる時間が伸びればいいと思う。久しぶりに一緒にとった食事は照れくさかった。
おやすみ、の挨拶も言えることが嬉しくて、幸せな気分のまま布団に入る。明日のメニューを考えながら。

「ん……?」

仁王に触れられている夢を見た。あの浅ましい夢を。どうして、と思いながら目を開けると仁王に抱きしめられていてぎょっとする。

「あ、起きた?」
「え……え?何?」
「いや、よー考えたら何で別々に寝とるんじゃろと思って。一緒に寝よう」
「う……うん……」
「どうしたん?」
「う……」

抱きしめたブン太の体の変化に気づいたのか、仁王が少し悪い顔をする。どきりとしたブン太にお構いなしに腰を撫でられて背筋が震えた。

「なあブン太、触ってもええ?」
「……触っ、て」
「でも触る前から立っとるね」
「ッ……だって……どうしたらいいか、わかんない」
「……自分でせんかった?」
「何を……?」
「ッ……たまらんわ」

少しは家事以外のことも覚えさせなくてはならないと感じながら、仁王はブン太の唇を塞ぐ。今はたくさん抱きしめよう。

 

 

以前買っていた苗はそのまま忘れていたので枯らせてしまった。たまたま来ていた比呂士が手伝うというので、一緒に苗をプランターに植えている。この部屋は日当たりがよさそうですね、比呂士が言って、ロボットなのだと改めて思った。以前はこの部屋は比呂士の部屋だったのだが、今はあの頃の記憶は消されている。

「――なあ、比呂士は、ひとりになったらどうする?」
「どうするとは?どんなときにですか?」
「えー……例えばさ、家から誰もいなくなってずっとひとりきり、だったら」
「そうですね、帰りを待つと思います」
「……俺と一緒か」
「いいえ、違いますよ。私は指示をもらわなくては何もできないから待つんです。好きにしろと言われない限り、好き勝手はできないんですよ」
「……寂しくなったりしない?」
「人の役に立つことができると嬉しいです。でもマイナスの感情は、私たちにはまだ難しい」
「ふーん……」

土で汚れた手も、丁寧に話す言葉も、自分と何も変わらないが彼はロボットなのだ。あたたかくとも確かに違う。日当たりのいい場所にプランターを並べ、水をやった。比呂士はにこにことそれを見ている。

「比呂士、そろそろ帰るよ」
「はい」

顔を出した幸村がブン太を見て微笑む。仁王返すねと言われて少し照れくさい。幸村と比呂士を見送り、お茶を片づけに行くと仁王は机に突っ伏して唸っている。

「どうした?」
「……外行かん代わりに家でできる仕事おもくそ回された」
「……俺はちょっと、嬉しいよ」

そばにいくと仁王が顔を上げて、拗ねた表情でドエス、とぼやく。それでもすぐに笑みを見せ、優しいキスをくれた。

「ブン太が幸せなら、ええけどね」
「お前は?」
「ん?」
「俺だけが幸せでも意味ねえんだよ」
「……はは、大好きよ、そういうとこ」

ふたりで幸せに。今このときは、食器のことも書類のことも忘れて、幸せなぬくもりを抱きしめた。

 

 

080710