知らぬが仏 2
鞄から覗いていたリボンを見つけて、それをたどる。小箱を見つけてそのまま手に取った。
「あっ、またふらふらしやがって!ホラ寝てろって!」
丸井の声に顔をしかめ、はいはいと乱暴に応えながら部屋に帰った。箱を持ったままベッドに潜り込む。すぐに丸井が追いかけてきて、ふくれっ面を見せつけてやった。文句を言ってやりたいが喉が痛い。こんな風邪は久しぶりだ。タバコの癖が戻ったせいかもしれない。
バイト先の社長のバースデーパーティー、だなんて、早々あるものではない。しかし仁王はそれに巻き込まれた。元々風邪気味だったところに、酔っ払ったいい大人たちがいっせいにビールかけなどやりだしたため、全身びしょ濡れで終電もなくなった時間に歩いて家に帰ってきたのだ、風邪もひく。面倒なので丸井にはそこまで説明していない。「じゃあ、ちゃんと寝てろよ」
「ブンちゃんのアホ」どうにか出した声はかすれていた。最悪だ、頭は重い体はだるい。ついでに丸井もでかけてしまう。行かないでほしいと言ったら嫌な顔をされた。それだけで誰に会うのかわかる。もう一度言ってみたらいつもお前に構ってられねえんだよ、と冗談っぽく言われたが本音だろう。
「どうしても行くんじゃな」
「行くよ、今日は外せねーの。寝てろよ」
「ブンちゃんがおらん間に死んだら呪ってやる」
「はいはい」頭まで布団をかけられて、すぐに顔を出してにらんでやった。困った顔で額にキスを落して、ごまかしたつもりか、そのまま部屋を出て行った。がちゃんと鍵のかかる音が部屋に響き、拒絶された気分でその瞬間に涙がこぼれた。弱っていることを実感する。ただでさえ疲れているところに風邪をひき、どこまで絶望すればいいのだろう。自分のものではないような重い体を起こし、布団の中からさっき丸井の鞄から取り出したものを見る。
リボンのかかった小さな箱。開けてみればそこに並ぶのは一見して女物とわかるピアスだ。そういえば丸井が穴を開けたときは大騒ぎだったなとぼんやりと思う。脅えきってかたくなった体の耳たぶにピアッサーを当てたときにぎゅっと目をつぶった表情が愛おしくて、一思いに穴を開けてやったけど結局少し外している間にふさがってしまっていた。開けようかな、と思う。心機一転にはいいかもしれない。もう丸井は仁王にプレゼントを贈ったりしないだろうけれど。かっとなって箱を握りつぶし、ベランダに飛び出していって窓から投げ捨てる。その先は見ない。疲労の訪れた体にしたがって硬いコンクリートに腰を落した。泣きたくないのに涙がこぼれだす。泣きながらどうにか立ち上がり、煙草を手にしてベランダに戻った。1本加えて火をつけて、埃のたまった灰皿を出してくる。煙を吸うと軽くむせて、目尻をぬぐった。
煙草をやめたのはいつだろう。元々吸えなかったわけではないが丸井があまりいい顔をしていないように思ったのでやめていた。昨日のパーティーで勧められるままに吸っていたらそのまま手放せなくなって、ひと箱酔っ払いのポケットから抜き取って帰ってきたのだ。煙を吐き出す息が震えている。 丸井を見限るつもりでいるのに決断ができない。いつだって見てきたものは丸井で、今更どうして丸井なしに考えればいいのかわからない。どうやって丸井を引き止めればいいのか考えている。言葉だけではだめだとわかっているのに、女々しくさっきのように、ただのわがままにしか見えなくなる。「ブン太」
弱弱しい声は頼りなかった。この声にどんな力があるのだろう。どうして丸井は離れてしまうのだろう。仁王は何も変わらないのに。 何本か吸ったあと、空腹を抱えてそのままベッドに潜り込んだ。頭が回らないのを無理に考えていたせいで気分が悪かった。そのせいか早朝に目が覚め、相変わらず気分が悪いので仕方なく朝一で病院へ向かった。簡単な朝食は食べて出たが病院に着くなり戻してしまい、疲れきった仁王に顔馴染みになった医師は溜息をつく。
帰る頃は丁度一番暑い時間帯で、タクシーで帰宅したはいいが道からロビーまでの数メートルにへばってしゃがみこむ。今日も薬をもらってこなかった。単純にもらい忘れただけだが、後悔する。ないよりはマシなのだろう。あんなものでもあればもっと考えもまとまるかもしれないのに。「仁王!」
顔を上げると丸井が玄関ロビーから走ってくる。帰っていたのか。思わず溜息をついた。病院に行ったなどと言いたくない。それより何より、丸井の顔を見た途端、手段として候補に挙がった幾つかの考えのうちのひとつが頭の中に浮かんだ。それは丸っきりのでたらめで、どんな効果が出るのかもはっきりわからない。それでも、仁王に縋れるものは何もなかった。もう何年も前から、縋れるものは丸井だけだったのだ。
「お前な、心配するだろ。どこ行ってたんだよ、携帯にも出ねーし」
「ブン太」
「何」
「家にばれた」
「……は?」
「ばれた。呼ばれて行って、全部説明してきた」
「な……何を?」
「ブン太のこと」
「……ど、どうだった」
「縁切られた」本当は、4年前から。詳しくは聞いていないが丸井といるところを姉に見られ、家族で集められて結論が出された。丁度丸井が一緒に住みたいと言い出していたときだったのでそのまま物件を見つけて家を出た。学費だけは出してやると言ってくれたのが彼らの精一杯で、それには感謝している。そのお陰で丸井と過ごせたのだから。 立ち尽くしている丸井を見て、帰ろうか、と声をかける。丸井は黙ってうなづいた。
……帰る場所は、ひとつしかないだろう?仁王は笑ったが丸井はそれど頃ではないようで、部屋へ帰ってからも呆然としていた。ずっと、仁王の場所などここしかなかったのだ。丸井には伝えていなかっただけで。暑さにくらくらして、冷蔵庫から麦茶を出してあおる。仁王が平然として見えるのが不思議なのか、丸井はぎこちなく口を開いた。「ど……どうすんだよ」
「どうもこうも……ま。学費は払い終わっ取るし、元々仕送りも大した額じゃなかったしの。どうにでもなるじゃろ」
「そっか……でも……じゃあ、お別れだな……」
「は?――ブンちゃんわかっとる?俺は縁切られたん」
「ああ、だからばれたんだったら」
「だから、俺にはもうブンちゃんしかおらんのよ」
「……え?」
「俺はもうお前のもんじゃ」抱きしめても丸井はかたまっていた。ああ、失敗したな、理解する。
「ブン太」
今ならあんなに束縛したがったお前の気持ちがわかるのに。丸井が別の場所にいるだけで、誰かに会っているのだと思うだけで狂おしい。それを表に出さないのは、まだ丸井のそばにいたいからだ。しつこい男で嫌になる。 キスをして髪をすいて、誘うつもりで脚をすり寄せる。丸井から漂うのは洗剤の匂いだ。丸井がこだわって使う洗剤の優しい匂いは、ずっと一緒にいて嫌というほど知っているのに、どうしてだか受け入れられない。
「……仁王」
「お願いやから、どこにも行かんで」
「……仁王、ごめん、俺今日出かけねえと」
「……ブン太は忙しいね」
「ごめん。お……お前、寝てろよ。まだ熱あんだろ?出歩いたりしたらひどくなるぞ」
「そうやね、ふらふらするわ」ほら、と手を引かれてベッドまで連れて行かれる。俺を一人で寝かせる気か。優しく笑って見せたけど丸井の目はこっちを見なくて、ここで泣ければまた別だろうに笑ってしまう。失敗だ。もう、丸井はこの手に戻ってこない。そんな確信は悲しいばかりなのに、いつの頃からかついた自分を殺す癖が疎ましい。
「ごめんなブン太、いきなり」
「いや……うん、でも、なんでばれたんだろうな……」
「さあ……わからん。最近はそんなに、外で会っとらんのにね」
「そうだな……」
「大丈夫、ブン太のとこには行かんように口止めしてきたけん」
「えっ!」
「嫌じゃろ?」
「お、俺?」
「元々人と関わらん親じゃけん、わざわざ行かんよ。……他からばれたら、わからんけど」もう嘘も適当になる。それを見抜けない丸井が悪いのだ。なげやりになって、また彼女に会うのだろう丸井を見送った。馬鹿じゃないのか。冷静になろうと思ってから、自分がずっと冷静だったと気づいた。もしかしたら終わらせたかったのかもしれない。結果の出ないことを繰り返しても自分がつらいばかりだったから。
もう丸井が戻ってこないと確かに知ったのに、まだ諦めきれない自分がいてうんざりした。好きなだけでは成立しないというのなら、大人になんてなりたくなかったのに。
*
丸井はまた今日も出かけるという。病院で体調不良の原因はストレスだと言われたことを聞き出されてしまい、ほとんどバイトを入れられなくなった。ときどき本当に人手が足りないときにいられてているだけで、後は何もすることはない。仁王が腕を引いて引き止めると丸井は溜息をつく。それが本当に嫌そうで、この男は本当に自分の恋人なのか、恋人だったのか、考える。
「行かんで」
「……お前最近どうしたんだよ」
「最近話聞いてくれんのはブンちゃんじゃろ。旅行の話も勝手になしにして」
「忙しいんだよ、金もねーし」
「何が忙しいんよ。いっつもいっつも部活とバイトなわけちゃうやろ。遊ぶ予定で忙しいって言われたら俺はどうしたらええの」
「知らねえよ、お前最近うっとうしいよ、べたべたしてきやがって」
「はッ……俺はあかんけど女ならええんか」丸井の目が見開かれた。思わず言ってしまった言葉に自分を殴りたくなりながら、動揺は一切見せずに丸井を見る。冷たい視線を、作る。こんなことばかりが上手くなる。相手を騙して生きてきたのはテニスを始めた頃から変わらない。それでも、丸井相手にこんな視線を向けたことはなかった。
「……彼女の前には現われてやらんから、行かんとって」
「に、仁王?」
「……なんで俺がこんなみじめなお願いせんといかんのじゃ。ほんまに腹立つ……女と会うんわかって見送って、アホか俺は。アホな女と一緒にすんなよ」
「お前、いつから」
「――なあブン太、俺がいつから携帯持っとらんか知っとる?」
「え……」
「ずっとな、電源切って、クローゼットに入れてある」
「な……なんで」
「嘘ばっかのメールなんかいらん」これではまるで別れ話だ。自分から切り出してしまった。それでも気分は少しすっきりして、結局こうするしかなかったのだと自分でわかっているのかもしれない。投げやりに言葉を吐き出すのは楽で、最近はずっと効果を計算しながら喋っていたせいだろう。それでも泣きそうになってしまって目を覆う。震えるまぶたを押さえて、浅く呼吸を繰り返した。波が去ってからまた丸井を見る。自分がどんな顔をしているのかよくわからない。
「――女がおるん知りながら、抱いて、抱かれて、俺がどんなにみじめやったか、わかるか。気づかんとでも思っとったんか。アホなやつって、俺を笑えば満足か。なんでこんな……できもせんのに、二股かけるような男」
「仁王」
「ふざけんなよ。……なんで女選ぶんじゃ、いっそ男やったら、まだ」
「……いつまでもこんな……男同士みたいな、そんな恋愛してらんねーよ。もう大学も卒業だってのに、夢みたいな」
「……ブン太には、これが現実に見えんかったん?」
「仁王」どんなつもりで呼ぶのだろう。泣いてしまいそうだ。現実じゃないとでも言うのか。あんなに楽しかった毎日も、快楽に満たされたセックスも、些細な言い争いも。何でブン太と一緒にいたいと思ったらあかんの、泣き言を吐き出すと丸井の手が伸びてきて、その手を叩き落した。デリカシーのない男に腹が立ってこぶしをかためる。殴ってやれば、すっきりするだろうか。喪失感が増すだけな気がして、ゆっくり力を抜く。
「……すまん」
「え?」
「……ごめん。ブン太が言うまで待ちたかった」
「……仁王」期待していた自分が悪い。そうだ、期待していた。どんな思いをしたって、もう自分には丸井しかいない。いつか隣に戻ってくるのだと考えていた。自分にがっかりして、短時間で疲労した体を休めたかった。
「ごめん。……待っとるんやろ、行っといで。でも頼むから、今日は帰ってきて。ちゃんと話したいけん」
「――わかった」うつむいてしまったので丸井の表情はわからない。そのまま丸井は出て行った。どんな顔をして女に会うのだろう。ばかげてる。ここでフォローもできず、女の元へ行ってしまうような男と付き合っていたのだ。好きだったのだ、今でも。好きでも、――許せなかった。具体的にはわからない。それでも丸井は自分を裏切った。隠れて女と付き合って、それでもなお自分を騙し続けた。否、騙せると思い込んでいた。そんなに甘い男だと思われていたのだろうか。丸井が自分を理解していなかったことが悔しくてならない。
自分の中に渦巻くのは怒りだった。憎しみだった。ただ恋愛をしているだけで憎悪が生まれるなんて他人事だと思っていたのに、いざ体験してみるとくだらなさに笑いさえ込み上げる。絶対に許さない。変質してしまった思いが気の毒になるほど、丸井が憎らしかった。傷つけてやりたい、丸井の部屋に立ち入って荷物を探る。この部屋に入るのは久しぶりだ。机の上に忘れられていた手帳を覗くと飲み会らしい写真が出てきて、丸井の隣にいつだったか遭遇した女を見つける。バス停で仁王を気遣った女の左手に光る指輪を見て、鼻で笑って写真を戻した。
ベランダに出て煙草を吸う。最後の1本で、箱を握りつぶして最後にしようと思う。これから仕事が始まるのだ。――ペテン師と呼ばれていたことを、思い出させてやる。ひと眠りすると思いがけずしっかり寝てしまい、起きてから携帯を取り出してみる。久しぶりに電源を入れるとすぐにメールの受信が始まって、それがいつまでたっても終わらないので笑った。中断して受信の終わった幾つかを見ると柳生の名ばかりで、その中に丸井や幸村、大学の友人などが混じっている。柳生とはたまにやりとりをしていたから、心配していたかもしれない。
部屋が蒸し暑いのでリビングのフローリングに横になる。思っていたよりもひやりとして気持ちがいい。ずっと受信中、を示す画面を眺めているうちに丸井が帰ってきた。「おかえり。受信が終わらんわ」
「……ただいま」
「楽しかった?何してきたん?」
「……映画」
「そっか。――一緒に行ったん、高校のときだけやね」
「……そうだっけ」
「自信なさげやのう。ちゃうよ、去年か一昨年、何回か行った」
「……ああ、そうだ。行ったな」
「女々しゅうて気持ち悪いわ」丸井はそんなことも忘れてしまったのか。この4年間はなんだったのだろう。もうなかったものになってしまったのだろうか。自分だけが固執している過去に憂鬱になる。忘れられるものなら忘れてしまいたいのは自分の方だ。帰ってきたもののどうしたらいいのかわからない、といった体の丸井に笑いそうになる。
「……ほんまに、昔から厄介な子やね」
「え、」
「自分勝手で乱暴で、めちゃくちゃで。ひどい王様じゃ」
「……言い過ぎだろ」
「でも好きなんよ……ブン太の気持ちが、続かんかっただけやね」
「違う、俺は……好きだよ、お前のこと」
「でも女のが大事なら同じじゃ」
「……恋愛だけ、してられねえだろ。仕事もあるし、家族も」
「あんな美人が嫁に来たらそりゃ家族も喜ぶじゃろ。彼女もええとこ就職できたん?もう結婚するん?」
「仁王」名前を呼ばれて戸惑った。どうしてそれだけで、動揺するのだろう。ここで泣くのは得策じゃない。ゆっくりと息を吐く。
「……ブン太をすきなだけ、自分が嫌いになる。初めてじゃこんなこと。食うても吐くし、病院行ったらストレスやって言うだけやし、誰にも言えんし」
「病院って……」
「考えすぎやって、アホらし、俺はブン太のことしか考えとらんのに」無性に腹が立って、体を起こして携帯を投げる。そんなに力を込めたつもりはないのに大きな音になってしまった。あまり感情の動揺を見せたくない。去り際、なのだ。みっともない姿を見せたくなかった。
「……どうするん」
「え?」
「俺を捨てる?言ってくれたら、諦めるよ」顔は見れない。丸井がどんな決断をするのか、どっちにしたって仁王の気持ちは変わらなかった。
「わ……別れ、る?」
頼りない声。誰が丸井から自身を奪ったのだろう。あんなに自信に溢れていた赤い髪はもうなくて、昔と変わらないのは自分の白い髪だけか。笑ってしまう。
「なんで疑問系にしたん?ええよ。もう、何も言わん。でも今更やから、家は出て行かんでな。ブン太のうちも変に思うやろうし」
「……仁王がいいなら」
「ずっとブン太に決めてもらっとったんじゃ、最後も任せる」部屋も、家具も、携帯も、丸井が選んだ。そしてこの道も。
まだじっとりと暑い8月の終わり、それがふたりの終わりだった。終わりにするつもりはなかったけれど、終わりには違いなかった。
*
ワックスを手に広げて、鏡に向かっていると丸井が覗いてきた。振り返ると呆れたような顔をしている。
「彼女できたんだ」
「遊び相手はできたよ」
「今日もでかけんの」
「どうしても今日会いたいって言ったら予定キャンセルにしてくれたんじゃ。それって愛されとる?落とすにはマメに動かんとね」
「……マジなんだ」まじめに、遊んどるんよ。笑顔で答えてやる。丸井がどう考えているのかは知らない。嘘偽りなく丸井に応えてやるのは少し爽快だった。そう、嘘はついていない。こんなのはただの遊びだ。自分を満足させるためだけの、児戯に過ぎない。
家を出て、鼻歌でも歌いたい気分で駅に向かう。駅ではなく喫茶店で待ち合わせなのは、彼女も警戒しているからだろう。賢い女だ。ウィンドウで自分の前進を確認して、自動ドアの前に立つ。すでに来ていた彼女と目が合って、そのテーブルへ向かった。「すまんの、急に呼び出して。予定あったんじゃろ?」
「そっちは大丈夫。どうしたの?急に会いたいって」
「……怒らん?」
「何?」
「会いたかっただけ」
「……仁王くん」
「ごめんな、彼氏おるん知っとるけど」眉尻を下げて笑いかけると彼女の口が閉じた。丸井と俺、どっちが「いい彼氏」ができとる?聞いてやりたくて愉快になってきた。アイスコーヒーを頼んで、黙り込んでしまった彼女を見た。上向きに上げられたまつげ、パールで輝くアイシャドウ。ぱっちりとしたその目で、丸井を見たのか。どんなセックスをしたのだろう。女を抱くときの丸井は、仁王を抱くときと変わらないのだろうか。白い首、浮いた鎖骨に視線を落す。
「ごめんな、ほんまに、会いたかっただけなんじゃ。甘えてもうたな」
「あ、ううん大丈夫、だけど」
「最近会ってばっかじゃね。彼氏大丈夫?」
「うん、あっちは」
「何で、会ってくれんの?」馬鹿な女。俺を選ぶから悪いのだ。返事を待たずに、飲みに行かん?と首を傾げてやるとうなづいた。この尻軽女、誰でもいいのか。笑顔の裏で罵倒してやる。丸井がときどきさせている甘い匂いは彼女の香水だと気づいたのは接触した頃だった。大学の前で出会った日から忘れられなかったのだ、と近づいて、距離を詰めて、あとはもう一息。
夕食はいらない、帰らない、と丸井にメールを送ると返事はなかった。今頃暇にして料理でもしているのだろう。俺のことを考えていればいいのに、と思う。切望する。酔った彼女を部屋まで送り、そのまま抱いた。丸井のことを考えながら抱いた女の体は柔らかすぎて、それでも確かに気持ちよかった。男の体はこうできているのだと実感せざるを得ない。丸井は知らない。仁王はずっと丸井を見ていた。丸井は高校に上がってからだと言っていたが、仁王は一目見たときから丸井に惹かれていた。だから丸井しか知らない。他の人間には興味はなくて、テニスに夢中のふりをしていた。
ただいま、と帰ってみると部屋の電気は消えていて、丸井が寝ているのだとわかった。部屋に侵入すると案の定無防備に眠っていて、その寝顔が愛おしくてキスを落す。何度か繰り返していると唇を吸われて、深く口づけながら丸井に抱きしめられて抱き返した。丸井が身をかたくしたのがわかったがそのまま押さえ込んで顔を覗き込む。「な、しよう」
「仁王」
「したい」
「お前、帰ってこないんじゃ」
「はじめて女抱いた」
「え?」
「そしたらブン太に会いたくなって帰ってきた。しよう」手当たり次第にキスを落す。この体が一番いい。セックスに一番大事なのは気持ちなのだと、キスをしているだけで興奮するこの体がはっきりと示している。首筋に吸いついて、暑くなってきて服を脱ぎ捨てた。
「女の次に俺か」
「口直し」
「最低だな」
「ブン太がいい」ブン太がいい。溜息をついた丸井が体を起こし、首筋に歯を立てられた。そのまま力を込められて、噛み切るつもりかと思うほどの痛さに体が拒絶をしたのと同時にどくりと体に熱が巡る。興奮している。
「ブン太ッ……」
「変態か」
「好きにして」久しぶりに抱き合った。丸井に任せきることはできなくて、気持ちよくしてやりたくて仕方なかった。それでも、何度好きだと囁いても、丸井は一言も言わなかった。せめて、思ってくれていることを願う。
*
『別れちゃった』
「……もしかして、バレたん?ごめん」
『ううん、なんかもう、わがままでついていけなかったし』一番馬鹿なのは誰なのだろう。先日まで女の指に輝いていた指輪を弾いて飛ばし、落下途中でキャッチする。自分の顔が笑っているのがわかる。ここまで来た。ベランダから指輪を投げ捨てようとして、やっぱり自分の机の上に置いておく。楽しい気持ちが抑えきれない。わかったかブン太、お前を一番愛してやれるのは。
『だからさ、仁王くん』
ドアが開いた音がして玄関を覗き、おかえりと言いながら携帯を切った。同時に電源も切ってポケットにしまう。もう女に用はない。仁王を見る丸井の表情はどこか疲れていた。
「別れた」
「ほんまに?」
「うん」
「そっか、別れたんか」
「うん」
「……早かったね」
「そうかもな」しおらしい丸井に嬉しくなって、笑ってしまう。笑うべきじゃないとわかっていたが、もうこの表情の緩みは手に負えなかった。だってこんなに嬉しいのに。仁王を見る丸井の視線の意味はわかっている。言ってほしいんだろ?好きだって!
「ブンちゃん、俺に何か期待しとる?」
――丸井を傷つけたいだなんて、思ったことがあるだろうか。丸井が少し戸惑った様子を見せて、感情は表に出ているのだろうとわかる。それでも隠すつもりはない。そんなことをしても意味はないのだ。
「好きだよ。ずっとブン太と一緒にいたいし、ブン太が俺と一緒にいたいと思ってくれるなら嬉しい。次は絶対離さない」
「仁王」何か続けようとした丸井の言葉はさえぎった。今更何も聞きたくない。
「でも俺は一生許さんよ」
きゅっと丸くなった瞳、そこに浮かぶ困惑。本当にこの男だ好きだという気持ちは今でも変わらない。きっと丸井も、昔ほどではないにせよ、それなりに仁王を愛しているのだろう。それでも、それでは元に戻れない。
「それでも俺と一緒におる?」
急に胸が苦しくなってうつむいた。どうも不安定でいけない。顔を覆って深く息を吐く。めんどくさいのう、平静を装ったつもりの声は震えていた。結局最後まで憎悪だけでは貫けない。この期に及んでも、まだこの男が好きだと思っている。
「嫌いになれればよかったのに」
衝動のまま手を伸ばして丸井にキスを落した。10年前とは違う。出会った頃とは何も違う。つき合い始めた頃のように無邪気に遊ぶことができないのが悲しくて、自分だけが置いていかれたようで寂しいのは髪の色のせいなのかと、丸井に縋って考えた。
もうこの手には何も残っていない。明日には出て行くつもりだ。後悔すればいい。机の上の指輪を見つけて、全てに気づいて恨んでくれればいいのに。まっすぐ愛せなくてごめん、今だけはこの体温を、この手に。
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