※体⇔精神入れ替わりパラレル

 

待ち合わせはしていない。ひとりではトイレにも行かない女子とは違うのだ。だけど毎日同じ時間に家を出るから、毎日の偶然が続くだけ。登校中に友達の後ろ姿を見つけて、近寄っていくだけだ。
丸井が仁王の後ろ姿を見つけて駆け寄ったのは、いつも出会うのとほとんど同じ場所だった。足音の気づいてふりかえった仁王は丸井を見て立ち止まる。待ってくれているこの時間が好きだ。

「おはよ!」
「おはようブンちゃん」

仁王の笑みにほっとして、丸井も笑顔をこぼした。隣を歩く幸せを、仁王も同様に感じているのなら嬉しいのに。

テニス部の朝は早い。まだ登校中の生徒は他におらず、仁王とつき合いだしてから丸井は遅刻をしなくなった。この貴重な時間を見過ごすわけにはいかないのだ。思いが通じ合ってつき合っている、恋人という関係であるとはいえ男同士、周囲が気になって秘密の関係を続けている。誰にも相談せず、ふたりでやっていこうと決めた。
昨日の部活やテレビ番組についてなど、とりとめのない話題で会話が弾む。仁王と笑い合って歩くいつもの登校、のはずだった。

「危ない!」

丸井は足を止めて振り返った。その目に飛び込んだものは、一直線にこっちへ向かってくる暴走車。運転手の青ざめた顔を見た瞬間、体が反応してよけようと動いたらその勢いで隣の仁王にぶつかってしまう。仁王もまた同様に立ち尽くしていたのか、ふたりはそのまま倒れこむ。お互いの頭を思い切りぶつけ、倒れたままもだえている間に車は走り去っていった。怒りよりも頭の痛さの方が強烈で、仁王と重なったまま動けない。通勤途中らしいサラリーマンが大丈夫か、と声をかけてきて、丸井はようやく目を開ける。

――目の前に、自分がいる。

ぱっと目を開けた『丸井』もまた、丸井を見て目を見開いた。

「ひどい車だな、けがは?」
「へっ!?あ、大丈夫です!」

とっさに口を開いて丸井は更に動揺する。驚きを隠せないままもうひとりの自分を見た。今しゃべったのは確かに自分であったはずなのに、自分ではない声。この声は――状況を理解できないまま体を見下ろすと、肩から色の抜けた髪がこぼれてきて首元をくすぐった。
親切なサラリーマンがふたりのけががないのを確認して去った後、丸井と『丸井』は再び顔を見合わせる。立ってみると『丸井』の方が少し背が低い。『丸井』が口を開く。

「お前さん、ブン太か?」
「……じゃあ、お前、仁王?」
「……ありえん……」
「何?何で俺が仁王になってんの!?」

思わず荒げた声は間違いなく仁王の声。手や髪に制服の着こなし、何をとっても丸井は仁王になっている。一方、目の前の『丸井』――仁王は妙に冷静で、漫画じゃあるまいし、と呟いた。認めたくないが間違いない、ふたりの体が入れ替わったようだ。

「……ブンちゃん、いっつもこんな風に俺が見えとるんじゃな」
「お前なんでそんなに落ち着いてんだよ!」
「焦ったってしょうがなかろ、信じたくなくても事実は事実じゃ」

あっさりと言ってのける仁王に、開いた口が塞がらない。これが夢ならどんなにいいかと思うのに、ぶつけた頭はまだ痛い。とにかく行こう、と歩き出す仁王に慌ててついていく。自分のものより軽い鞄と長い手足、くすぐったい毛先。――仁王の目には自分はこんな風に映っているのか。鏡では見ることはできない、斜め上の角度から自分を見る。我ながら、この角度で見上げられたらちょっとかわいいんじゃないか、などと考えてしまい慌てて頭を振った。

「とりあえず柳に聞いてみるか。病院は避けたいしのう」

学校へつくとまっすぐ部室へ向かい、状況を整理する。思い当たる原因はあの車のせいで頭をぶつけたことだろう。部室に入ると中に三強がそろっていて、その姿を見た途端、不安が襲ってきて丸井は思わず幸村に泣きついた。その丸井――『仁王』の姿に3人は驚いた様子を見せる。あきれたにおうが柳を中心に説明すると、幸村は面白がり、真田はそんなばかな、と顔をしかめた。

「でも仁王のことだから、素直に納得できないな」
「そんな、幸村くん!俺は柳生じゃねーんだ、仁王に化けるなんてできねえよ!」
「ブンちゃん俺のかっこで幸村に抱きつくんやめて」
「柳、これ写真撮ってよ」
「くだらないことを言ってる間にさっさと支度しろ、1年はもうコートに出ているぞ」
「それどころじゃねえよ!」
「ふむ……仁王が丸井のふりをするのはともかく、この仁王はブン太のようだな……」
「頭ぶつけたんだろ?だったらもう一回ごちーんとやってみる?」
「ヒッ!」

両手で何かを掴む仕草をした幸村を見て丸井は足を引いた。本気でやりかねないから恐ろしい。

「ブンちゃん石頭やけんな〜……」
「まあ精市も、楽しいのはわかるが落ち着け。ともかく今日は1日様子を見たらどうだ?」
「えー、そんなのつまんないよー」
「様子見て直るもんじゃねーだろ!何とかしろよ!」
「俺にだって解決策などわからん。幸村に任せてみるか?」
「う……」

コキコキと指を鳴らす幸村から逃げ、丸井は仁王の陰に隠れた。それはそれで面白い図だな、幸村は変わらず笑顔だ。

「まったく、仁王の戯言にはつき合ってられん」

真田が部室を出て行き、仁王たちも早くおいでよ、と幸村たちも出て行った。仕方なしに着替え始めるふたりだが、なんだか妙な気分で気まずい。ラケットは自分のものを手にして朝練に出た。朝練は挨拶程度で済むが問題はこの後だ。幸い同じクラスであるから、お互いフォローはできるだろう。丸井がそう思っていると仁王が見上げて聞いてくる。

「ブンちゃん、1時間目何やっけ」
「国語だったはず」
「げ、それ無理。俺抜けとくわ」
「は?」
「ブンちゃんやたら国語当てられるじゃろ、ぼろ出るだけやし保健室にでもおるわ」
「ズッリー!それなら俺もサボる!」
「ブンちゃん」
「……」

諭すような仁王はやっぱり自分の顔で、ますます不満が増した。廊下で別れたとき、センセーに言っといて、と手を振った仁王の服を捕まえると今度はあきれた顔を向けられる。

「ブン太、決めたじゃろ」
「今はいいじゃん、特別だろ」
「……あのな、ブン太。俺言っとらんかったけど、国語ほんまにやばいんじゃ。次さぼったら呼び出しじゃけん、頼むわ」
「ずるい〜……」
「俺の顔で情けない顔せんといて」

それはこっちのせりふだ。毎日鏡で見る自分の顔なのに、そんなに落ち着いた表情は見たことがない。

「な、ブン太、部活は抜けて帰ろ」
「……一緒に?」
「一緒に。俺んちで会議しよか」
「……国語以外は出てこいよ」
「行くけん、な?」
「……わかった」

頭を撫でられて、改めて自分は仁王の目にどう映っているのか考える。自分のことは客観的に見たって甘めのかわいらしい顔つきだと思っている。しかもかわいいだけじゃない男らしさも備えた、将来有望なビジュアルだ。かわいいと仁王は言ってくれるが、本当にそう思っているのだろうか。

できるだけ友人に関わらないよう、不機嫌なふりをしてうつむきがちに教室へ向かう。――ふたりでは授業をさぼらないのが「約束」。誰にも教えていない関係を隠し通すために仁王が提案した約束だ。ふたりで抜けているだけならまだしも、一緒にいるところを見られると危ない、と仁王は言う。そんなことは構わないのに、仁王が丸井を守るためだというから、――騙されてやっている。
泣きそう、教室に入る途中にトイレに立ち寄り、鏡を覗き込む。すでに予鈴は鳴り終えているので丸井の他には誰もいない。鏡に映る仁王の顔を見て、少し笑ってみるといつも見ない笑い方になった。自分と仁王は笑い方も違うのだと溜息をついた。整った顔つきをしている。入学式の日、すでに今の髪の色に染めていた仁王はいい意味でも悪い意味でも注目を集めていた。隣にいた女子が見とれていたのを今も覚えている。

本鈴に慌てて教室に入ると教師はまだ来ていない。いつもの席へ行きかけて仁王の席へ戻ると前の席の女子が振り返ってくすくす笑う。

「おはよう」
「う、うん」
「ハイ、借りてたアルバム。すっごいよかった、また他の貸してよ」
「え、あー、うん」

渡されたCDは見たことがない。丸井は洋楽を聴かないからというだけではなく、仁王の部屋で見たことがなかった。続きそうだった会話は教師が来たことでさえぎられ、ほっと息をつく。――そうか。仲がよさそうだと思っていたら、CDの貸し借りをするまでの仲だったのか。丸井は普段話をしないクラスメイト、仁王にとってただの友達なのだろうか。それとも。

「丸井はどうした?仁王、何か知らないか」
「あ……保健室、なんが、具合悪いって」
「朝練は?」
「あー、来てたけど」
「ふうん……」

食いすぎじゃねーの、と誰かが茶々を入れて怒鳴りそうになる。俺は今、仁王だ。仁王ならば丸井を演じることなどたやすいかもしれないが、丸井は仁王のことをあまり知らない。知りたいと願うばかりで、仁王が踏み込むことを許してくれなかった。早く放課後になればいいのに。

 

 

*

 

 

『丸井』の仮病をあっさり信じた保険医の心配そうな表情を見ながらベッドにもぐりこむ。今度さぼりたいときは野牛の姿で来ようかとさえ考えたが、その場合は柳生を自分にしておかなければならないと気づいた。丸井はうまくやれているだろうか。少々心配は残るが、一緒にいたところで大した変わりはないだろう。自分よりはまじめに授業を受けてくれる程度だ。

「丸井くん、先生ちょっと職員室にいるから、しんどかったら呼んでね」
「あ、はい、わかりました」
「ゆっくり休んで」

ひとりになった保健室で体を起こす。丸井の鞄から鏡を取り出して覗き込んだ。これが女だったらなあ、と思わずにいられないのは、顔も性格も自分の好みだからだ。頭の回転も悪くないから会話も楽しい。それでも――丸井ひとりを思い続けていられないのは、面倒だからだ。相手が男であるというだけで世間には面倒が多すぎる。元より本気の恋などしたこともなく、丸井の思いだってどうせ憧れの延長だろうと思っている。

――面倒なことになった。学校では必要以上に丸井に近づかないようにしてきた手前、今日いきなり1日中張りついておくわけにはいかない。はっきりつき合っていると言えるのは丸井だけだが、遊び出会うような女が何人かこの校内にもいる。彼女たちとの接触がなければいいがと思うものの、これがきっかけに関係が終わればそれはそれで構わない。丸井を手放すのは惜しいが、とそこまで考え、何はともあれ戻ってからの話だと思い直す。今のままでは何を考えても仕方がない。

再び鏡を見る。――キスのとき、色っぽい顔つきをするのが好きで、外ではしないが家やカラオケの個室などでたまにする。それ以上はさすがに越えられないと思っているが、興味がないわけではない。他のベッドにも人はいないのを確認し、いたずら心でベルトを外した。前を寛げて下着を下ろすと、見たかったものが姿を現す。

(かわいーの……)

ちょっとだけの、つもりだった。

 

*

 

「丸井ー、もう大丈夫なのか?」
「おう、ちょっと寝たら楽んなった」

教室へ戻ったときは流石に身構えた。丸井の席について鞄を置き、離れた席の『仁王』を探すと机に伏せて寝てしまっている。心配したらしいクラスメイトに声をかけられて応えていると、声で気づいたのか丸井が顔を上げて振り返った。音乱れた前髪を上げてこちらを見て、少し迷った様子を見せたがまた腕を枕に頭を下ろした。それが一番懸命だ。

「熱はなかったの?」
「なかった。ちょっとめまいしただけ」
「まだ暑いもんね」

隣の席の女子はおなかが空いて倒れたのかと思った、と笑った。怒ったふりで返せば笑い声を上げて、そのリアクションで思いに気づく。仁王も会話ぐらいはするクラスメイトだが、――丸井のことが好きなのか。仁王がつき合うような計算高い女と違って無意識なのだろうが、好感の持てる笑顔は丸井だけに向けられている。むらっとした気持ちを抑え、次の授業の教師が入ってきたのにほっとした。――いたずらをしてやりたい。丸井として、彼女をからかってやりたい。恋を失うような行為を。
どうせ丸井もそのうち仁王に飽きて、こんな女とつき合うようになる。それなら今ぐらい、丸井を自分のものにしておきたい。なんとなく面白くない気分で教科書を開く。まさか自分ではないから丸井が浮気をするなんてことはないとわかっている。少なくとも今、丸井は仁王しか見えていない。盲目的に思われるのも慣れれば快感で、丸井の目を盗んで女に会うのも頭を使うゲームだった。そろそろ状況が変わってもかまわない。せっかく丸井の体なのだから、遊んでやろうか。

「仁王、起きろ」

はっとして顔を上げる。丸井のそばに教師が立ち、その肩を叩いていた。声を出さなかったことにほっとする。しぶしぶ、といった様子で顔を上げた『仁王』は教師を見上げ、そしてこっちを見た。あきれて教団へ戻っていく教師は授業を再開したが、丸井はしばらく仁王を見続けている。視線が合うと口元を緩めた。

――早く元にもd利他意図このとき初めて思う。戻れたらまず、丸井と別れよう。よくない気がしてきた。このままでいたっていいことはない。柳にかけ合ってさっさと解決策を探してもらおう。ふたりの仲が明らかになる前に。

 

 

*

 

 

「仁王!行こ!」
「へ?」
「何そのリアクション、忘れてたの?一緒にお昼食べるって言ってたじゃん」

あまり知らない隣のクラスの女子に声をかけられて動揺する。仁王を見るとクラスメイトに囲まれていて、こっちにはまったく気づいていない。早く行こうよ、教室に入ってきた彼女は『仁王』の手をとる。
――行けば、ずっと悩んでいたことの答えが出る気がする。その答えを出すのをずっと迷っていたが、――もうそろそろ、潮時なのだろうか。

「……行こか」
「うん!」

女と連れ立って教室を出る。屋上へ向かう途中、ジャッカルとすれ違って困惑した表情を向けられた。人のいい親友を呼び止める。

「何だよ」
「丸井が探しとった」
「あ……ああ、今行くところだ」

困った顔で笑うジャッカルに後を託す自分はずるい。こんなときだというのに自分のことばかりだ。

屋上は無人だった。今日は少し風があるせいだろう。仁王の体でいるせいなのか精神的なものなのか、あまり食欲はない。それは女の方も同じようで、目的が違うのだろう。

「ね、仁王」

柔らかい指が手に絡んできてぞっとする。甘い声、柔らかい体、自分が持っていないもの。

「今日仁王んち行っていい?ほら、ダーツ教えてくれるって言ってたじゃん」
「……そうなんだ」
「そうだよ!もー、どうせいろんな女子と約束してんでしょ」

リアクションに困って、笑っただけでごまかした。ずっと気づかないふりをしていた。それでも仁王は丸井なんて簡単に騙せると思っていたのか、ツメが甘い。複数いる女の影に気づかないほど、愚かではないのだ。

「……ね、こないだの続き、しない?」
「続き?」
「そう。誰だっけ、丸井?に邪魔された日の、続き」

それでも。仁王のことが好きだった。

「触んなブス」
「はっ!?」
「もうお前にゃ用はねえんだよ」
「ふっ、ふざけないで!」

平手を食らって目の前に星が散る。かたく目をつぶって耐え、目を吊り上げた女子を見た。仁王は自分よりもこの女の方がいいのだろうか。何度好きだと言われても、優しいキスをくれても、ちらつく女の影は消えない。問い詰めることができない自分も愚かだと自覚しながら、仁王を手放したくなかった。それでも、はっきりと見せつけられてしまえば、それでもいいとは言えない。そのまま屋上を飛び出した。

 

 

*

 

 

「ブン太」

振り返るとジャッカルで、行くぞ、と言う両手にはパンが抱えられている。そういえば昼はジャッカルと一緒にいると言っていたか、丸井の話を思い出しながら教室に『仁王』の姿を探すがどこにもない。昼ぐらいは寄ってくるだろうと思っていたので予想外だ。

「ジャッカル、俺」
「……『仁王』から聞いてる。いいから飯、行くぞ」
「……そうけ」
「弁当持てよ」

ジャッカルと、いつの間に話したのだろう。休み時間のたびに丸井はどこかに消えていたが、クラスメイトを避けるためだと思っていた。柳たちも知っているのに少し面白くない。ジャッカルが向かった先は中庭で、木の陰に座り込む。

「びっくりしたよ、仁王が泣きそうになって俺呼んでんだもん」
「うわ……大丈夫かブンちゃんは。今どこにおるん」
「……女子と屋上向かってたぜ。お前の彼女じゃねーの」
「あー……」
「俺知ってんだ、お前とブン太がつき合ってるってこと」

無意識に弁当の包みを開けていた手が止まる。自分の親友だといっていたジャッカルにぐらい、話してしまっていたとしても不思議はない。しかしそれを今まで思いつかなかった自分も、気づかなかった自分にも腹が立ち、不機嫌になるのがわかる。

「別に、おせっかい焼くつもりはねえけどさ、お前はそれでいいのかよ」
「……何が」
「ブン太、昼休みお前の話しかしないんだぜ。他でできねえからって、ずっとのろけ聞かされる俺の身にもなってみろ」
「そう、ご苦労さん」
「なあ、お前は真剣じゃないのか?遊びでブン太とつき合ってるのか?」
「……なんでジャッカルに説教されないかんの。俺とブン太の問題じゃろ。――ジャッカル、ブン太のこと好きなん?」
「親友としてな」
「はっ……あ、そう。ならほっといて」

気分が悪い。いろんな女と遊んでいることぐらい部員なら大体想像つくだろう。今更それを指摘された程度かまわない。しかし丸井のことを持ち出されると腹が立つ。隠れてつき合っていたのは、口を出されたくなかったからだ。自分だけが見れる丸井の姿を喜んでいたのだ、邪魔をしないでほしい。まさか丸井に余計なことを言ってはいないだろうか、と自然目つきは悪くなる。ジャッカルがあきれて溜息をついた。

「別に、お前がちゃんとブン太のことを好きならいいんだ。ブン太もそれでいいって言ってるしな。大事にしてやってくれよ。――あいつ、浮気されてんのかってずっと悩んでんだぜ」
「それがどうした」
「……仁王」
「悪いか?」
「……ブン太の顔で睨むなよ」

顔をしかめたジャッカルが視線を外し、何かを見つけて表情を変えた。仁王が振り向くより早く、ジャッカルはパンを落として立ち上がる。

「ブン太!」

『仁王』の元へ走るジャッカルを見て、仁王も立ち上がった。――ああ、そういえば、今日は女と昼を一緒にと約束していたのか。思い出し、泣いている自分の姿を見て何とも言えない妙な気分になる。ジャッカルにすがりついて泣いているのは自分なのに、あれが丸井だとわかる。
別れる、と耳に届いた言葉にはっとする。いつ別れてもいいと思っていたはずなのに、自分の声で聞こえたその言葉にぞっとした。――別れる?丸井と?自分はどの女とよりも紳士的につき合ってきた。精一杯大事にしていた。頬を染めて告白してきた丸井をかわいいと思ったのだ。愛しいと。
二人に近づいていき、ジャッカルを引き剥がすと丸井が初めて仁王に気づいた。見開かれた目からこぼれた涙は、丸井が流しているのだ。

「……俺、もうお前と別れる」
「許さんよ」
「もうお前がなんと言おうと、俺はもうお前を好きでいられない!」

走り出した丸井を追いかけようとしてジャッカルに止められる。それを振り払って後を追った。他人の体が走りづらい。校舎へ入っていく丸井に舌打ちをする。人のまばらな階段を駆け上がり、廊下を突っ切り、なかなか追いつけない背中にいらだった。自分を拒絶する自分を追うのも嫌な感じで、途中で何してんすかあ、と切原の声がしたがかまっていられなかった。

階段を下りていく丸井にあと一歩、その腕を掴んだ瞬間に足を踏み外した。ふたりで一緒に崩れ落ち、丸井の悲鳴を利いたような気がしたあと頭を強くぶつけて脳みそが揺れる。この隙に逃げられないようどうにか目を開けると、仁王に馬乗りになった丸井と目が合った。怒りに燃えた瞳、乱れた赤い髪、――丸井だ。荒い息を整えながら、口にはしないがお互い元に戻ったのだと実感する。丸井が先に口を開いた。

「やっと殴れる」

次の瞬間頬を殴られ、その痛みをやり過ごす仁王の上で丸井はうずくまった。ばか、と胸を叩く力は本気だ。

「もう別れる、お前なんかしらねえ」
「ブン太」
「俺は本気なんだよ、お遊びでつき合ってるお前に、ずっと合わせてらんねえよ……」
「ブン太」

泣き出した丸井の頬を両手で包み、目をそらされないようにして覗きこんだ。濡れた目に自分が映る。この目はずっと自分を見ていたのだ。

「離せよ……」
「逃げんの?」
「離せよ、もう……」
「好きだよ」
「嘘つき」

キスをすると少し塩辛い。自分もさっきまで丸井が泣いていたせいか涙腺が緩く、目尻が濡れるのがわかる。

「ねえブン太」
「……本気だってんなら、信じさせてみろよ」

 

 

*

 

 

部屋のドアを閉めて丸井を振り返る。制服を握り締めてうつむく姿から緊張が伝わってきて、それが仁王にうつったかのようにぎこちなかった。自分の体なのにどう動けばいいのかわからない。

「ブン太」

びくりと体を震わせた丸井は恐る恐るこっちを見る。カーテンを閉めたままの部屋には夕方の薄暗さが満ちていて、逆行で陰った丸井の頬がそれでも赤いのがわかった。落ち着きのない瞳は部屋の中を見回す。

「なあ、……マジで、すんの」
「嫌?」
「……わかんねえ」

背中を曲げて体を小さくしているのはらしくない。それでも愛しくて、そっと抱き寄せると身をすくめた。

「に、にお」
「このまま後ろに歩いて」

腕に抱いたまま足を進めると丸井も戸惑いながら数歩下がる。ベッドぶつかった拍子に膝が曲がり、そのまま丸井を押し倒した。

「ブン太」
「……そうやって、何人とやったんだよ」

一瞬で涙を浮かべた瞳にうろたえた。今まで女に泣かれたこともあるのに、丸井の様子に慌てる。自分の部屋に連れてきたのは失敗か、確かにこの部屋は何度も使った。違う女を連れ込んだ。言い訳の言葉が出てこないなんて初めてで、ただごめんとだけ口にして抱きしめる。涙から逃げた自分が情けない。
丸井に押し返されて離れると、じっとこっちを見ていた丸井が口元を緩めた。困ったような笑顔に動揺する。

「いいよ」
「ブン太」
「少しの間だけでもお前がつき合ってくれただけで十分だよ。だからこれ以上期待させるな」
「ちゃうよ、ブン太。俺が向き合わんかっただけ」

丸井を追い詰めたままネクタイを捨てるとかっと頬を染め、カッターシャツのボタンを外していくとのどを鳴らした。丸井のネクタイも引くと体が強張り、ネクタイの布を持ち上げたまま様子を見る。真っ赤になって口をぱくぱくさせている丸井にあおられ、ネクタイを外しながらキスを落とした。唇を舐めて何度も触れ、こじあけて舌を侵入させる。わざと音を立てたキスに体をかたくした丸井を無視してボタンに手をかけた。

「嫌やったら今のうちに言いよ」
「ッ……いっつもずるいんだよお前は!」
「それしかわからんの」

カッターシャツの舌のTシャツに気づき、面倒になって捲り上げる。柔らかい腹を撫でるとくすぐったように身をよじったが見逃さない。服の下に入れた手で肌を撫でながら、胸まで布を持ち上げる。

「……ピンク、かわいい」
「ぅあっ!ちょっと」

静止の手を掴んで乳首を舐めて吸いついた。自分の下でびくびくする丸井の体を押さえつけて抵抗を奪い、繰り返すうちに体はほんのり色づいて乳首もかたくとがった。Tシャツが邪魔で持ち上げると丸井が体を起こす。

「待って、……ぬ、脱ぐ、から」
「……ん」

一度丸井から降りて、シャツのボタンを外す丸井を見ながら自分のベルトを緩めた。ぎょっとして手を止めた丸井には何も言わない。

「は、早くね?」
「俺は早くブン太が欲しい」
「……うん」

本当にわかっているのか、ぼんやりとした調子でうなづいて丸井もシャツを脱ぎ捨てた。食の細い仁王と自分の体つきを見比べ、やや顔をしかめて腹を撫でる丸井に思わず吹き出しそうになる。かろうじてこらえて触れた体は柔らかい。

「抱き心地がいいから俺は好き」
「……じゃあ抱きしめて」
「もちろん」

引き寄せて首筋にキスを落とす。耳元で震えた吐息がこぼれるのに興奮した。首から鎖骨、胸にキスマークを残し、自分でも見える胸元を見て丸井の頬が更に赤くなったのがわかる。

「ばか」
「なんで」
「ば……ばれたら、どうすんだよ」
「ええやん。俺のやって、言ってやる」
「……俺もつける」
「ん?」
「お前もばれたら、仁王は俺のだって言ってやるよ」
「……ははっ」
「なんだよ!」
「かなわん」

恐る恐る、といった様子で丸井の唇が触れてくすぐったい。首筋に走る鈍い痛みを感じながら、手のひらでまた乳首を探ると体がはねる。皮膚を通して伝わってくる鼓動が早い。

「すごいどきどきしとる」
「……俺はお前といるといつもこうなんだよ」
「早いよ」
「俺、仁王といるだけでずっとどきどきしてたよ。今、死にそう」
「……こんなに思ってくれとったんやね」
「あ……。……引いた?気持ち悪い?」

不安げな表情を浮かべた丸井に慌てて首を振る。丸井はこんなにしおらしかっただろうか。否、そうさせたのは自分だ。思い返せば普段の傍若無人もふたりきりのときは姿をひそめ、強がってはいてもときどき不安を浮かべていたのを見ないふりしてきた。どうしてもっと早く、ちゃんと向き合ってやれなかったのだろう。

「ブン太、ごめんな」
「何が?」
「辛かったろ?」
「……夢みたい。お前に告白した日から、毎日楽しいよ」

ふと目元を緩めた表情になぜだか欲情した。乱暴にベッドに押さえつけ、うろたえるのも無視してズボンも下着も一緒に下げる。キスを繰り返しながら露わにした性器をぎゅっと握り、指先で弱いところに触れていく。

「ちょ、いきなり……ッ!」
「ここ、弱いね」
「へ、んあっ!」
「えろい顔……」
「おま、な、なんで……あっ、ああ、やっ!」

体をずらして先をくわえれば丸井の体が跳ねた。大きな声はやや予想外だ。

「さっき、ちょっと」
「……お……お前、人の体に何……!」
「ちょっとオナニーしただけやって」
「サイテー!死ね!ばか!あっ、んー!」

先に弱点を押さえられていてはたまらない。身を振るわせるだけの丸井に愉快な気持ちが抑えられず、仁王は自然を笑みを浮かべた。

「気持ちよう、したるけん」
「ばかっ……!」

 

 

*

 

 

「ゆき……」

眠る仁王の口から漏れた言葉に丸井は目を見開いた。ついさっきまで熱を共有していた男と、ようやく思いを通じ合わせたと思ったのに。

「ゆきむら、それは……食えんって……」
「……どんな夢だよ」

眉間にしわを寄せてもがきだした仁王を見て、体の力を緩める。裸でいるにはまだ肌寒く、シャツを探す動作の生々しさに照れた。とりあえず羽織ったシャツは仁王のものだったようで、仁王でさえ大き目のシャツは丸井が切ると子どもが大人の服を着たようになった。それが不満で自分のシャツを探したが仁王の下敷きになっていてあきらめる。
身動きすると腰の奥まったところがずきりと痛む。――セックスを、したのだ。仁王と。体をつなげるという行為は、体がふたつあればできる。どこまで仁王を信じていいのかわからないままの行為が残した痛みが丸井から睡魔を奪って目が冴えた。しわの寄ったシャツの袖をまくりながら、改めて自分の体を見ると熱の残滓がこびりついている。突然襲った正体のない不安に身を震わせ、仁王のそばにもぐった。

「仁王」

強く抱きしめると薄目を開けて、再び閉じられたと思うとどうした、と抱き返された。

「仁王」
「何?」
「……痛い」

ぱちりと目を開けた仁王が初めて裸なのに気づいたように、一瞬にやりと口元を緩めたのを見てしまった。しかしそれは優しい笑みに変わる。

「次は痛くせん」
「仁王」
「不安にさせてごめんな。好きだよ」
「……もう浮気しない?」
「しない。誓って」
「絶対だな」
「うん」

泣きそうなのを見られたくなくて仁王の胸に額を押し付けた。背中に感じていた仁王の手が移動し、尻を撫でられて体をかたくすると仁王が笑う。

「痛い?」
「痛いよ!……仁王は」
「ん?」
「……気持ちよかったのかよ」
「……なんそれ、かわいー」

丸井を抱きしめて目を閉じる。それがどういう返事なのかわからない。だれかと裸で抱き合ったことなんてなくて、思っていた以上に人はあたたかいのだと知った。

「仁王」
「もっぺん寝よ」
「……うん」
「起きたら、荷物取りに行かんとな」
「……思い出させんなよ……」

勢いに任せて学校を飛び出したので鞄も残したままで、部活も何も言わずに休んでしまった。面倒ごとばかりが残されているが、そのわずらわしさから目をそらして今は仁王にすべてを預ける。この体温を、手放したくない。

「……仁王」

寝てしまったらしい仁王から返事はない。――今日は疲れた。仁王の胸に頬を寄せ、丸井も目を閉じる。

「おやすみ」

 

 

080926