明日は明日の風が吹く
窓の外を眺めていたら、電車のスピードが落ちた。なんだと思う間もなく電車は静かに停車する。駅でもなんでもないところだ。周りの乗客はわずかにざわめき、丸井も焦って窓の外を見た。今はどの辺りなのだろう。
家族と年末の買い物に行ったという仁王から、出てこないかと誘いがあったのはついさっきだ。すぐ行く、と家を出て、30分もあれば着くはずの距離。時計代わりの携帯を探してポケットを叩くがそこはぺったんこで、一瞬どきり、と心拍が乱れる。車内アナウンスが入ってはっとした。線路内に人が立ち入ったためただいま点検をしております、そんな声がのんきに聞こえて腹が立つ。入れないようにフェンスでも立てておけ、心の中で恨みを育てながら手は携帯を探した。
――ない。現代っ子の必需品、携帯電話がない。ボトムの4つのポケットもダウンジャケットのポケットも確認したが、入っているのは財布と父親が使ったあまりをもらってきた回数券だけだった。鞄は持ってきていない。
やばい――さっと血の気が引く感じがして体が冷える。携帯を忘れた。それはイコール、仁王に遅れるという連絡をすることができないということだけではなく、待ち合わせの駅についても仁王と落ち合えない可能性が発生してくるということだ。元々遠くで待ち合わせをすることはほとんどないし、あったにしても細かい場所など決めずに着いてから携帯で連絡してお互いを探している。携帯がなければどうすればいいのだろう。行くにしても取りに行くにしても電車は止まっている。最悪だ。今日は、――大晦日だというのに。乗客がいらいらしだした頃、ようやく電車が動き出す。アナウンスでは10分遅れと入ったが、丸井はもっと長く感じていた。気持ちばかりが焦る。もしかしたら仁王も改札の辺りで待っているかもしれない、ととにかく駅へ向かうことにする。希望にうなづいて、地団太を踏んでしまいそうな足を落ち着かせながら再び窓の外を見る。景色の中にビルが増えてきた。
目的地の手前の駅、待たされた乗客たちが乗り込んで、車内は一気に満員になる。四方から圧迫されて苦しいが、あとひと駅だ。そう思って耐えようとしたとき、するり、と尻に何かが触れた。これだけ混雑しているのだ、人に挟まれるのはしょうがない。不可抗力とはいえやや気にはなるが、仕方ないことだと思い目の前の他人の背中に溜息をつく。
満員電車になんて乗ったことがない。将来もしサラリーマンになったりしたら、こんなことは日常茶飯事になるのだろうか。憂鬱なことを考えているとぞくり、と鳥肌が立つ。背後を振り返ることもできないが、後ろに立つ人間が間違いなく丸井の尻に意図を持って触れている。
――痴漢だ。はっとした瞬間には電車は大きく揺れながら駅に走りこみ、ドアが開くなり丸井は飛び出して階段を駆け上がる。捕まえるだとかそんな考えは一切頭に浮かばず、ただ逃げたかった。最悪だ。まだ感触が残っているようで、首を振って改札へ向かう。満員電車に乗る女性がこんな恐怖を感じるのなら、自分は満員電車の中で両手をあげておくことにしよう。とにかく仁王に会いたくなり、一応言われていた改札を抜けた。大晦日で賑わう人々の間に視線をめぐらせる。あの目立つ頭はどこだろうか。今日はあたたかいから、ニット帽を被ったりはしていないだろうと期待している。しばらく周りをうろついてみたが、仁王らしい人物は見当たらない。丸井が来るまで、駅に隣接したショッピングモールでも見ているのかもしれなかった。思わず舌打ちをしてしまうが、いらついたって仕方ない。自業自得だ。
こうなれば、と公衆電話を探す。携帯が普及してからなくなったというが、本当に探すのに苦戦してしまった。改札から離れてしまったことに焦りながら、ポケットに入っていた小銭で家に電話をかける。誰かに携帯を探してもらい、仁王の番号を見てもらえば連絡は取れるはずだ。しかし待っていても電話には誰も出ず、留守電メッセージに切り替わる。呼びかけてみたが相変わらずで、あきらめて受話器を下ろした。買い物にでも行ったのかもしれない。こうしている間にも時間は過ぎていく。再び改札へ戻って仁王を探すが、やっぱり見つからない。最悪だ。最後の手段、恥を忍んで駅で仁王を呼び出してもらう。大晦日の駅でアナウンスをされすなど、迷子のようで本当に恥ずかしい。おまけに仁王が駅に居るかどうかもわからないのだ。アナウンスでは自分の容姿を伝えたわけではないとわかっているが、改札で仁王を待つのが恥ずかしくてすみの方に逃げてしまう。
「ブン太?」
はっとして顔を上げると仁王が経っていて、動揺と恥ずかしさでうろたえて一瞬涙がにじむ。仁王と目が合ってしまい、目を丸くしたのを見て慌てて顔をそらした。
「どうしたん。呼ばれてびっくりした」
「……携帯、忘れて」
「ああ、そうけ。……んじゃ行こうか」声が出なくてうつむいたまま仁王と歩き出す。自分が落ち込んでいるのを隠せないせいか、仁王が歩調を緩めて手を伸ばしてくる。人ごみにまぎれるように手をつないで、そのぬくもりにまた泣きそうになった。
「気にせんの」
「あ〜、ダッセェ〜……」
「どこ行く?ちょっと久しぶりやし、行きたい店とかあるんちゃう」
「……あっち!」少し気分を上げようと顔を上げ、仁王の手を引いて歩き出す。今年の締めくくり、最後の日に仁王と遊べるのだ。いつまでもうじうじしてはいられない。できるだけ明るい声を出して仁王を振り返る。
「もーマジ最悪!携帯忘れるし電車ん中で痴漢にあうし」
「痴漢?」
「そう!男のケツ触って何がいいんだっつの」
「……とりあえず俺はノーコメント。でもブン太、それ痴漢やったん?」
「は?」
「財布、持っとる?」
「……え?」財布を入れていた尻ポケットに手を当てる。ぱた、と叩いたのは、尻の感触だ。慌ててあちこちのポケットを探るが、出てきたのは直接ポケットに入れていた硬貨と回数券のみ。電車の中で携帯を探したときにはあったはずの、財布がない。
「……ない……」
「あちゃあ、やられたな。すまん、変な時間に呼び出した俺が悪かった」
「――さいっあく……」何も今年の最後にこんなに一気に不幸が襲ってこなくてもよさそうなものだ。泣きそうになった丸井をなだめて仁王が喫茶店に引っ張っていき、メニューを広げて見せてくれるがどうも気分が浮上しない。
「ほれブン太、おごったるし。俺今日親戚に会って先にお年玉もらったんじゃ」
「もうやだ。次はどんな不幸が襲ってくるんだろ……」
「ブン太、聞いて」
「……何」
「俺は今日ブン太似合えて嬉しいよ。ブン太がおるだけで俺は幸せなん、ブン太は俺んとこに幸せ運んできてくれたんよ?今度は俺がブン太を幸せにしたるって」
「仁王」
「笑って。な?」
「……しょーがねえなっ、おごらせてやるよ!」笑って見せるとまだ少し引きつったが、仁王も笑って安心する。仁王はすごい。まだ完全に立ち直ったわけではないが、あんなに落ち込んでいたのに気分が少し浮上した。たったひと言で自分を操るペテン師に、ときどきだまされているんじゃないかと不安になることもあるが、――好きになったのだからしょうがない。恋は盲目とはこういうことだろうか。
帰りの電車は仁王が隣にいてくれて安心する。もう盗られるものは何も持っていないが、痴漢にあった不快感がわずかによみがえった。財布の件は仁王に言われて落し物として届けてみたが、どうせ見つかりはしないだろう。
「ブン太、大丈夫?」
「ああ」
「……な、明日みんなで初詣行くじゃろ」
「うん」
「あれ午後からやったよな?午前中から会えん?それとも夜更かしして朝起きれん?」
「や……うちどーせ弟も寝ちゃうし、暇だからそこそこには寝ると思うから大丈夫だけど」
「ほんじゃ、ちと早めに起きてふたりで遊ぼ。ゆっくりデートはできんけど」
「いいぜぃ。……あ……あのさ」
「何?」
「……なんでもない」こんなみっともないところばかりを見せて、仁王は自分に嫌気がさしたりしないのだろうか。すぐに騒いで、喧嘩も丸井からの一方的なものばかりで、仁王と比べるとずいぶんと子どもっぽく思えるほどなのに。
仁王に告白されたのは今年のことだ。チームメイトとしてのつき合いは長いが、仁王の口から好きだと聞いたときの驚きをまだ覚えている。あのときは、こんなに仁王に支えられるなんて思ってもいなかった。大晦日に会えてよかった。穏やかな夢を見れそうだ。
*
「あけましておめでとう」
「おめでと」
「すまん、待たせた?」待ち合わせ場所へきた仁王は寝坊した、と苦笑した。寝癖が直っていないとダウンジャケットのフードを被っているので払ってやると、後ろ頭がはねている。フードについたファーに長い毛先が埋もれて頭と一体化して見えた。寒いね、と笑う仁王は今日も丸井をときめかせる。
――年が明けた。去年は仁王とつき合い始めるという一大事件があったが、今年は何が起こるのだろう。昨日続いた不幸を思い出して溜息をつきたくなる。「どこ行くんだ?」
「初詣。先にふたりっきりで、行っとこ」丸井のマフラーを掴んで仁王が歩き出す。早足で歩く仁王を追いかけた。はねる寝癖におかしくなって、笑いながらマフラーを引き寄せる。
「小さい神社があるんよ」
「へえ、知らなかった……あ、見えた」着物姿の人さえ通り過ぎていったが、まるで隠れるように神社が建っている。仁王の家の方へはあまり来なかったからこの辺りは通ったことがない。仁王が知っているということも少し以外で、人のいない石段を登っていく。
「ここな、ようきくよ」
「へ?」
「俺ブン太に告白する前、お参り来たんじゃ」
「……お前、恥ずかしくねーの」
「ブン太が元気になるなら、何でも言うよ」
「ば……ばっか、へこんでねーし!」賽銭を出そうとしてポケットに手を入れ、父親に借りてきた小銭入れが出てきてまたテンションが沈みそうになる。顔に出てしまったのか、仁王が苦笑した。
「5円玉ある?」
「ねーや。10円なら」
「じゃあ5円玉あげる。10円はよくないけん」
「なんで?」
「遠縁って、わかる?遠い縁」
「あー……」普段ならばそんな細かいことを、と思うのだろうが、今の気分では語呂にもすがりたい。仁王に渡された5円玉を握り締める。今年はきっといい年になりますように、と先に小銭に念を込め、賽銭箱へ投げた。いざ手を合わせると何を願っていいかわからなくなる。
今年の春には卒業し、高等部へ進学する。またテニス部へはいるからにはいい結果を出したいし、仁王との関係も良好でありたい。5円程度で欲張ってはだめだろうが、いろんなことを考えていると結局長くなってしまい、目を開けると仁王が待っている。少し恥ずかしくなって、どういう顔をしたらいいのかわからない。「おみくじ引く?」
「……なんか見るのこえー」
「年明けたんやから不幸も終わりやって」
「あ、ちょっと待って」歩き出す仁王を引き止め、ポケットで震えた携帯を取り出す。今日はしつこいほど確認して出てきた。ディスプレイを見ると家からだ。思いつく用件はないがとにかく出てみる。
「何?」
『ブン太?今駅から電話があって、財布見つかったって』
「マジで!?」
『現金は入ってないみたいだけど、カード類はあるみたい』十分だ。入っていた現金は2千円程度、痛手ではあるがた大した額でもない。丸井にとってもっと重要だったのは、こつこつと溜めていた店のポイントカードだった。何より、お気に入りのケーキ屋さんのポイントカードはあとスタンプひとつで溜まるところだったのだ。それらが帰ってくるのなら構わない。
「よかったのう」
「うわー、早く確認してえ……帰りに取りに行こう」
「食いしん坊のスリやのうてよかった」
「まったくだ」
「な、ええこともあるよ」
「……そうだな」仁王がそばに居てくれてよかった。昨日も仁王が言ってくれたから駅に届けておくことができたのだ。落ち込んでいる間そばにいてくれた仁王に感謝している。――それなのに、素直に口にすることができない。
他の部員たちとの待ち合わせへ行く前に昼にしよう、ということになった。いい店があると歩く仁王の隣で昨夜のテレビ番組の話などをしながら、今年の目標はもう少し仁王に言葉で伝えられるようにしよう、と抱負をたてる。横顔を見ているのに気づき、同じように丸井を見て笑う仁王はきっと丸井の気持ちなど見透かしているのだろう。何も言わないが、あまり他では見せない優しい笑顔にどきりとする。
「――仁王」
「何?」
「……今年もよろしく」
「シクヨロ。愛してるぜ」
「ばっ……!」蹴り飛ばしてやろうとしたが仁王はひらりと身をかわした。顔が熱くなるのがわかる。今年はもう少し、仁王に振り回されないようにしよう。決意を新たに踏み出して、仁王の背中を突き飛ばす。
090103