※未来でハッピーエンドになれると思うなよ。


 

 

「あんたが髪黒くするの久しぶりじゃない?」
「大学受験のときかのー。3年前か」
「そっか。そういや最近丸井くんも来ないなー。今頭何色なのかしら」
「あいつも就活じゃろうて」

ドライヤーの風に目を閉じる。姉の美容院に来るのは久しぶりで、定休日だったのを忘れていた。それでも入れてくれたのは暇だったからだ、というが、きっと寂しかったのだ。いくつになっても子どものようで、だから結局嫌いになれなかったのかもしれない。
中学高校のときはさほぼ校則も厳しくなかったので、姉がしたいままに髪を染めさせていたが、大学受験をするときは流石に指導を受けた。あのときは黒くしただけで伸ばした髪はそのままだったが、今鏡に映る自分はついかつてのパートナーを思い出しそうになる。まじめそうに見えるじゃない、姉が笑うのに素直に同意する。

「あんたは精神年齢顔に出るわね」
「どういう意味じゃ」
「老けてる。もうちょっと襟足切る?すぐ伸びちゃいそうだけど」
「また様子見に来るけんええよ、そん時に。姉ちゃんもおとなしゅうしとけよ、旦那もあさってには帰るんじゃろ」
「酒は取り上げられましたから。料理酒までないのよ」

先日見たときよりも少し大きくなった姉の腹に手を当てる。まだあまり実感はないが、自分はついに叔父になるらしい。

「んじゃあ、またな」
「頑張ってねー就活。まああんたなら要領よくやるでしょうけど」
「ん」

手を振って姉と別れて外に出た。すっきりした首元を秋風が通り抜ける。秋は少し物悲しい。何度秋が巡っても、暑い夏の終わりであるということを実感してはむなしくなる。一番暑かった、中学3年のあの夏。あんなに悔しい思いは二度とないだろう。
――気がつけば大学も3年目が終わろうとしている。就職活動をと騒ぎ出した周囲にひっそりと便乗し、あの頃自分は誰とも違うと思っていたのが不思議なほど人の中に埋もれている。きっと世界が狭かったのだ。

携帯が振動してポケットから引き抜くと、ディスプレイに表示されるのは少し懐かしい名前だ。――まだ、どきりとする。何も成長していない。

「――もしもし、ブン太?」
『おーっ、出た出た、久しぶりィ』
「久しぶりやね。どうしたん、急に」
『幸村くんが来月帰ってくるんだってよー。だから久しぶりにみんなで集まらねえかって。お前も就活組だろ?』
「ああ」
『だから本格的に始まる前にさ』
「ええよ。また決まったら早めに教えて。ブン太いっつもいきなりやけん」
『女よりバイトより俺に会いたいんだろ?わかってるって』
「はいはい」

苦笑して流すと向こうでも笑い声がする。高校を卒業してからはチームメイトもばらばらで、海外へ行ってテニスを続けている者もいる。丸井も大学でテニスを続けているはずだ。同じ生活をしていたはずなのに、少し岐路が変わっただけで随分と違う道へ進んでしまう。

「……ブン太、元気?」
『なんだよ。元気だよ。お前は?』
「ぼちぼち」
『あ、ねーちゃんは?まだ?』
「まだ。予定日俺の誕生日なんじゃと」
『へー!生まれたら見に行くっつっといて!じゃあ俺これからジャッカルに電話すっから、仁王は柳生に連絡しといて。あいつ俺からの電話出ねーの、大学入って性格ひねくれたんじゃねーの?』
「もう合コンの人数あわせに懲りたんじゃろ」
『呼んだの2回だけだって。じゃあなー、また連絡するー』

音もなく途切れた通話にディスプレイを眺めた。進む時間を止めるように携帯を閉じ、隠すようにポケットに押し込む。うつむくと首がむき出しになり風が舐めるように過ぎていく。
――ずっと忘れていた思いがまた胸によみがえる。消したつもりになってもときどき思い出すこと思いに、もはやとりつかれているような気分だ。明日は予定がある。スーツを出して、シャツにアイロンをかけなくてはならない。ひとり暮らしの生活は慣れていたのに、今になって面倒な仕事が増えてくる。

路線バスに乗って一番後ろの席で小さくなった。昔のことばかり考えるのは、どうしてだろう――

 

 

「終点だよ」
「え」

起こされて顔を上げると運転手が嫌そうな顔でこっちを見ていた。仁王が握っていた乗車券を見て、290円、と言われて慌てて財布を出す。小銭をぴったり見つけ出して窓の外を見て驚いた。あのバスは、こんなところまで来るのか。バスを降りてバス停に立ち尽くす。バスが走り去る風が切ったばかりの髪を乱した。見上げるのは、懐かしい母校――立海大附属中学校。学校などそう変わるものではないのだろうが、自分が通っていた頃と何も変わらない。歴史ある校舎も聞こえてくる部活の声も、懐かしいものになってしまったことが少し寂しい気もする。
すぐに帰る気にはなれず、踵を返して歩き出す。涼しかった風さえも熱く感じた。テニスバッグを背負った立海の生徒が仁王を追い抜いて走っていく。まだ小さい体は1年生だろうか。どこか見たことのあるような姿だ。――テニス部の活動は今日は終わりか。早く部活の終わった日でも、それだけでは足りず、必ずと言っていいほど他の場所で集まって練習を続けていた。一番近いのは、運動公園だ。今の立海はどうなのだろう。最近は母校の戦績を伝えてくれる人もいないので、あの頃の強さが健在なのかどうかわからない。自然と離れてしまったテニスの情報を積極的に取り入れるほど、大学生活は暇ではなかった。

まさかこの年になってこの道を歩くとは思わなかった。たどり着いた運動公園は仁王の記憶と寸分も狂わずに緑の芝生を広げ、転げまわって遊ぶ幼い子どもから散歩中の老人まで様々な利用者がある。鮮やかな芝生に目を細めて見渡すと、ラケットがボールを叩く小気味よい音が耳に飛び込んできた。すんなりと耳に馴染む、慣れた音だ。
やってるな――視線を向けたその先に、赤い髪を揺らす後ろ姿。誰かを彷彿とさせるその少年に釘付けになる。夢でも見ているのか。あれは誰か何でものではない、あれは、ずっと見てきた――

「拾えよジャッカル!」
「無理言うな!ノーコン!」
「んだとぉ!?ハゲは黙って走れ!」

怒鳴る声、その向こうに現れた懐かしい友人、そのどれもが知っているものではある。しかしそれは今、ありえない。彼らはもう、自分と同じ成人した男だ。だから中学のときと変わらない姿など、見れるはずがなかった。これは一体どういうことだろうか。少年たちは仁王の記憶どおりの姿で打ち合いを続けている。
掲示板を見つけて近寄った。そこに張られていたのは、7年前のイベントスケジュール。夢にしては随分と詳細だ。それでもきっとこんな夢を見るのは、丸井の声を聞いたせいだ。

「じゃあなー!」
「おう、また明日!」

仁王の横をジャッカルが走り抜けていき体をかたくする。早く走るジャッカルは、何度見ても少年だ。ベンチで体を休めている丸井を見る。中学の頃見続けてきた姿がそこにあった。

意を決して近づいていく。ネクタイを外し、スラックスの裾を捲り上げた乱れた制服姿も懐かしい。仁王に気づき、顔をしかめてこっちを見上げるのは間違いなく丸井だ。こうしてみると中学の頃よりやせたという彼の言葉は嘘ではないらしい。柔らかそうな頬だ。

「こんにちは」
「……こんちは」
「立海の子?」
「……そうだけど」

一瞬返事に迷った様子を見せたが、制服を着ている以上ごまかしようがなかったのだろう。露骨に警戒されて苦笑する。よく考えてみれば黒髪短髪という自分の姿を丸井に見せたことがない。丸井の知っている「仁王」ではないのだ。

「俺も立海テニス部やったんよ」
「マジで!?」

一瞬で警戒を解いた丸井は目を輝かせた。テニス馬鹿だ。あの頃は、誰だってテニスのことばかり考えていた。――だから仁王もそう、考えようとしていた。7年前ということは中学2年だろうか。本当に、懐かしいと思うのに、今でも衰えない思いにうんざりする。

「俺もようここでテニスの練習したよ」
「へー、マジ?強い?」
「レギュラー」
「おー!すっげーじゃん。じゃあ部室にトロフィーあるんだ」
「あー……まあ」

最後の年だけ、トロフィーが欠けている。一番優勝したかったあの夏だけ。次の年、切原が取り戻した優勝トロフィーはひとつ分場所を空けて並べられたと聞いた。

「あ、俺丸井。中2。俺もレギュラーなったばっかなんだ。3年引退したから」
「へえ、強いんやね」
「んー、どうかな。なんか、周りバケモンばっかだし」
「三強か」
「知ってんの?」
「有名じゃ」
「そっか。ほんとに、すごいんだよなああいつら……まあ、あの3人だけじゃねえんだけど。おにーさん何歳?」
「いくつに見える?」
「25」
「……21」
「見えねー!おっさんみたい。あ、ちょっと仁王に似てる。うちの部員」
「へえ。男前なんやねえ仁王くん」
「別にー。もててるみたいだけどしらね」

目をそらしてペットボトルを空にする丸井の隣に座る。少しこっちを見たが嫌そうな顔はしなかった。ジャッカルが帰ってしまって暇なのだろう。ひとりでは壁うちしかできない。

「……あのさー、強いやつには勝てないじゃん」
「ん?」
「うちのバケモノなんかだとさ、俺もうレベルが違いすぎんの。俺も全力でやるし練習も手ェぬいたりしないけどさ」

汗の浮いた首筋に目をやり、すぐにそらした。投げ出した足の先が揺れている。隣に座る丸井を意識すればするほどあの頃の思いを鮮明に思い出し、ともすればこの丸井に告白してしまいそうだった。

「なんかあれぐらい引き離されちゃうと、俺だめなんだよなあ。同じ中学生だってわかってても、もうプロ並みにうまいわけじゃん、なんつーか……よくある、少年野球やってる子がプロの選手に教えてもらったりする、あんなイメージで」
「そんなもん?」
「なんか頑張れねえの。尊敬してるっていうのとはまた、違うけど。真田なんか腹立つばっかだし。試合なんかマジでやるけどさ、どっかであきらめちゃってんだよな」
「やってみんとわからんよ」
「そうなんだけどさー……」

はあ、と溜息をつく丸井になんと言えばいいのだろう。そうだろうな、というのは感じていた。試合前は自信たっぷりに勝つと宣言する負けず嫌いが、いざ負けた後になると口で言うほど悔しそうには見えなかったのだ。
7年前、自分はどんな気持ちでテニスをしていただろうか。テニスに対する気持ちが、思い出せない。体を伸ばした丸井の肘に絆創膏を見つける。

「おにーさんはそういうの、なかった?」
「なかったな。――あんまり、勝ち負けにこだわっとらんかったし。どうやって裏をかくか、どう騙すか、……そんなことばっか考えとった。チームプレイ向きじゃないわな」
「ふうん……仁王もそうなのかな」
「ん?」
「仁王ってのがいるんだけど、さっき言ったやつ。そいつコート上のペテン師なんt呼ばれててさ。なんかすげーことすんだよ。でも多分、全力じゃない気がする」
「……へえ」
「1回でいいから、あいつと本気でしてみたいんだけどなあ……」
「なんで?」

思いがけない言葉に丸井を見ると、言いづらそうに言葉を濁した。それでも答えを待つと、こっちの様子を伺いながら口を開く。

「……俺仁王のプレイは好きなんだ。次に何が来るのか、わくわくして。三強は何が来るか怖いんだけど仁王は違う。絶対もっと強いと思うんだけどな。今は俺とどっこいだけど、多分仁王の方が強い。みんなわかってるよ」
「……丸井くんはテニス大好きやねえ」
「うん。俺テニスは一生続ける」
「俺はあんまり好きやなかった」
「そうなの?じゃあなんでテニスしてたんだよ」
「できたから」
「……なんか嫌味〜」
「知ってる。自分がそこそこうまいこと知ってたから、簡単に負けんからふざけて試合できるんよ。んで、ふざけてる間はなんだって楽しくできるじゃろ、悩み事も忘れて」
「悩み?」
「……恋の悩み」

ふっと笑って見せると何を考えたのか頬を染めて顔をそらした。好きな人でもいるのだろうか――ああ、確かいたはずだ。一度、試合中にコートのそばを通りかかって丸井が使いものにならなくなったことがある。よく覚えている。あれほど嫉妬に狂った日はない。

「あ……あのさ!おにーさんちょっとテニスやんない?俺ラケット2本持ってるし」
「ええよ。多分なまっとるけど」
「負かしてやるよ」

にやりと挑戦的な笑みを浮かべて顔を覗きこまれ、苦笑で返すしかない。渡されたラケットを握る。もう何年、触れていないのだろう。どうして手放してしまったのか、思い出せない。忙しいなんて言い訳にならないはずなのに。
ちょうど空いていたテニスコートを見つけてそこに入る。仁王のサーブからだ。どんな球になるのだろう。ブランクが計算できない。正面で待つ丸井を見る。――本当に、好きだった。今でも、まだ。

 

 

 

*

 

 

 

「お客さん、終点」
「……すんません」

一瞬どこなのか迷ったが、降りてすぐ駅であったので安心する。もうバスに乗るのは避けて、少し離れるが一人暮らしのアパートへは歩いて帰ることにしよう。溜息をつき、バスの時刻表を見て自分の時間に戻ってきていることを確認する。明日は就職活動の一環で企業の説明会へ行くのだ、帰って支度をしなければならない。
本気でテニスをしたら体がだるくなった。再び溜息をついて歩き出す。ポケットの中で携帯が振動したが、大した用はないだろうとほうっておくが電話であるようでバイブレーションは止まらない。仕方なしに引き抜いてみれば、今付き合っている彼女からの着信だ。出なければ面倒くさいだろう。

「りな、どしたん。……うん、姉貴んとこ行ってった。飯食わしてもらって今から帰るとこじゃ。やけん、明日は就活やって。お前もちゃんとせえよ。――ン?……ああ、夕方には終わっとるよ。飯食いに行こか」

用件を済ませて携帯を閉じてから、柳生への連絡を忘れていたことを思い出す。それは明日にまわすことにして携帯の電源を切ってしまった。。携帯を隠して唇を噛む。そうしなければ笑ってしまいそうだった。――過去を変えて、明日は無事に来るのだろうか。

ずっと丸井が好きだった。あの頃の自分は丸井のことばかりを考えていた。丸井のことしか考えていなかった。毎晩のように布団の中で丸井を蹂躙した。明るいうちは笑顔で友達をやりながら、頭の中でどう犯してやろうかと考えていた。わざと丸井に触れて覚えた柔らかさだけで満足していたあの頃が、今では信じられない。成長して女の体も知った。相手に無理を強いたこともある。それでも、さっきのセックスが一番気持ちよかった。
健康的に日焼けした肌は柔らかく、乱暴に暴くと拒絶はするのに確実に仁王の手に落ちた。拒絶による暴力もスパイスにしかならない。泣いた声も、人を呼ぶまいとかみ殺す嗚咽も、仁王の想像以上だった。涙におぼれた丸い瞳に自分はどう記憶されただろう。汗で濡れた赤い髪は紅潮した顔を隠しても、仁王がすることを見ていないと不安なのか、喘ぎながらずっとこっちを見ていた。

丸井があんな風に自分を見ているとは思いも寄らなかった。ただのチームメイトのひとりだと、同じように調子に乗るうちのひとりだとしか思われてないと思っていたのに。丸井は微塵も感じたことはなかっただろう。隠し通した仁王の劣情に。
体に感じる夜の風は冷たいのに、体はまだ火照っているような気がする。仁王の手の中で達し、舐められて熱くなった体をごまかせずに真っ赤になって泣いた姿。無理やり体を貫いたときの表情に、笑わずにはいられなかった。――かつて一度だって優しく抱き合うようなセックスを空想しなかったのは、きっとそういうことだ。

――あのとき変えた過去で、今はどうなったのだろう。今すぐに確かめたい。自分を犯した男とそっくりの、今の仁王の姿で現れれば丸井はどんな反応を見せてくれるのだろう。
好きだっただけだ。あの頃の仁王には、恋愛感情をどう処理したらいいのかわからなかっただけで。

これが長い夢ならば、覚めるのは後悔してからがいい。今はまだ、この満足感の中にいたかった。

 

 

091020