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あの日部屋を出て行った丸井の後ろ姿がまだ目に焼きついている。毎日昼休みには顔を出していた丸井が姿を現さなくなって幸村に一度聞かれたが、知らん、と答えてそれ以上は何も話さなかった。ただ億劫だっただけだ。詳しく話したところで幸村のリアクションはそう変わらないだろう。

放課後の教室からテニスコートを見下ろす。目立つ派手な頭を見つけて、平らな腹を撫でた。不規則な生活をしているせいか、小学校を卒業する前に始まった生理はこの年になっても不規則で、いわゆる安全日という日も計算したことがない。男は選んでつき合っていたから強引にコンドームなしにセックスするような男と寝たことはなかったし、そもそも入れさせないことの方が多かったのだ。
――あれからもう2週間は経つのだろうか。子どもができたらどうするのだろう、と他人事のように考える。ときどき見かける丸井は何事もなかったかのように明るい顔をしているが、どんなことを考えているのだろう。もう本当に愛想を尽かされたのかもしれない。あたたかい食事と優しい手のひらの記憶は鮮明なのに、セックスをしている間の丸井のことはほとんど思い出せなかった。丸井を使って自慰をしていただけなのかもしれない。もしくは、丸井という存在を汚していないことにしたいのか。往生際の悪い頭は幸せな夢を考える。子どもを生んで、丸井とふたりで暮らすような。

「――アホらし」

窓から離れて学校を出る。帰りしに手帳を開いてみるが、生理の周期はやはりあいまいだった。もう前の生理から一月は経っている。自分の健康に無関心すぎると丸井に怒られたことを思い出して首を振った。

「ただいまー」
「……なんだ、またねーちゃんひとりか」
「……あんたな、ブン太はあんたのおかんじゃないんやけん」
「あーあ、また俺が飯作るんかー。さっさと仲直しせえよ、俺ブン太さんの飯食いたいんじゃけど」
「喧嘩なんかしとらんわ」

うるさい弟を蹴散らしてさっさと部屋に引きこもる。制服を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ。丸井の怒りはわかる。それでもすんだことは仕方ないし、結局は快楽に流されて仁王の中で射精した丸井が悪いのだ、と思う。携帯のアドレスを一通り眺めて、ろくな女友達がいない、と溜息をついた。男のほとんどは縁を切っている。

(……なんでこそこそオナニーせんといかんの、男子中学生じゃあるまいし……)

それでも疼く体に自分でもあきれてしまう。下着の中につめたい手を差し込んで、身震いしながら茂みを過ぎて陰部に触れた。セックスがしたくなるのはどうしてだろう。本当に男なら誰でもいいのかもしれない。初めて好きになった男は手に入らないのだから。

もし子どもができれば、だ。濡れた手でクリトリスをこすって、声を息と共にこぼしながら、それでも思考する。丸井はあの真田のように、仁王をいたわり、大切な宝物のように扱ってくれるだろうか。笑顔で未来を語るような。なんて趣味に合わない妄想だろう。仕事に出る丸井を見送り、自分が台所に立つような生活になったら、普通の家族になってしまう。
――仕事に?ふと目を開けて布団から顔を出した。乱れた髪が視界を遮る。肉づきの悪い腹を撫でた。もし子どもができれば、あのまじめな男は仁王と結婚すると言い出すだろう。子どものために学校をやめて、働き出して?
ぞくりと鳥肌が立つ。それは、丸いが今持っているすべてを投げ出すような行為だ。恵まれた家族も必死でやってきたテニスも捨てさせて、それでも丸井を引き止めようというのか。突然体が冷えたように動かなくなる。それでももしそうなれば、丸井が仁王を捨てるはすがないと確信していたのは自分だ。それもつなぎとめるためのひとつの手段として、頭にはあった。

(う、わ、最悪……)

これだから常識人とつき合うのは都合が悪いのだ。バカになりきれなくなる。泣き出したことを隠すようにまぶたの上から眼球を押さえつけた。

 

 

*

 

 

泣き疲れるほど泣いたせいか、今朝はひどくだるい。すでに9時を回っていて、平日だというのに誰も起こさない家だということを思い出す。丸井のモーニングコールはしばらく聞いていない。
夕食も食べないまま寝たので空腹だったが、寝汗のひどさに耐えかねて風呂場へ向かう。脱いだ下着に血がついていて一瞬どきりとしたが、生理がきただけのようだ。息を整えてシャワーを浴びる。お湯に混じって少しだけ泣いた。まだまだ自分が子どもだと思い知る。こんなにほっとするなんて思ってもいなかった。シャワーの流れに混じって流れる血を見て、腹の中で死滅した精子を思う。

生理痛の始まりそうなだるさを感じて風呂場を出た。着替えて携帯電話ひとつを握り布団に入る。ちょうど休み時間であるのを見計らって、丸井に電話をしようと思ったがまだ勇気が出ない。生理きた、と簡単な文章を作ってメールで送る。――だからどうした、と返ってきたりして。丸井がひどい男だったら、こんなに迷わなかったかもしれない。
徐々に増してくる腰の痛みに思わずうなり声を上げる。生理痛はいつもひどい。握り締めていた携帯電話に着信があり、慌てて見ると丸井からの電話だった。ひと呼吸して通話ボタンを押す。

『仁王?今どこ?』
「家」
『そっか』
「あんなあ、ブン太」
『……何』
「会いたい」
『……わかった。待ってろ』
「ありがと」

甘えたような声になって恥ずかしい。携帯電話を握り締めたまま布団に潜り込む。まずは謝らなければ。考えをまとめたいのに体をさいなむ痛みに邪魔をされる。薬がどこにあるのか思い出せない。空腹で飲むこともできないので、あったところでどうしようもないのだが。

時間がどれほど経ったのかわからないが、チャイムの音ではっとする。朦朧としながら丸井に電話をかけると、家の前まで来たけど、と声がした。その声色の感情も読み取れない。

「鍵、空いとらん?」
『かかってるよ』
「……ごめん起きれん、裏回って、多分リビングんとこ開いとるからそっから入って」
『起きれないって?』
「生理痛」
『わかった』

通話を切ってはあ、と息を吐く。情けなさから出る溜息は尽きない。すぐに階段を上がってくる足音がして、丸井が部屋に入ってくる。久しぶりに姿を見た気がした。急いで来てくれたのか、肩で息をしている。

「仁王」
「ごめん、俺」
「いい、寝てろ。しんどい?薬は?」
「なんも食っとらんけん」
「……何か作ってくる」
「待って、先に話」

体を起こすと手を貸して支えてくれる。どうしてこんな男が自分を好きになってしまったのだろう。こんな人生を狂わせるような女を選ばなくたって、引く手数多だろうに。あたたかい手を握り締め、顔は見れずにうつむく。

「ごめん。……怒っとる?」
「……怒ってる、し、あと自分の早漏にもあきれてる」
「……今日生理きて、すごい安心したん。――俺に子どもできとったら、ブン太どうしてた?」
「学校やめて働く、ぐらいしか思いつかんかった。色々考えたけど、だっておろせとは言えねえもん」
「……俺は考えて怖くなった。俺がブン太の人生ぶち壊してええんかって」
「いいよ、もう十分ぶち壊されてるし。……でも二度とすんな」
「せん」
「寝てろ、何か腹に入れて薬飲め」
「……なんで、優しいんやろね」
「……俺は温厚だから、怒り方も知らないんですう。……ごめんな」

頬を撫でられて、そういえば叩かれたのだと思い出す。すっかり忘れていた。寝てろとコンビニのビニール袋を押しつけられて、引き止める間も与えず丸井は部屋を出て行った。冷たいスポーツドリンクを手に、頬を冷やす。少し触れ合っていただけなのに体が熱い。真田を好きだったときだって、こんなにうぶじゃなかった。

(恥ずかしい……)

ひとりで突っ走って、倒れて、手を差し出されるまで立ち上がれないなんて。ペットボトルを開けて水分を体に流し込み、初めてのどが渇いていたことに気がついた。胃に広がる冷たさを感じながら、冷えた手で腹を撫でる。丸井の顔が思い出せない。丸井の顔を見ていない。焦燥感に襲われてベッドを出て、腰の鈍痛に顔をしかめながらキッチンへ向かう。見慣れた姿でコンロの前に立っていた丸井はあきれたように仁王を見て、黙って手招きをした。すり寄っていって肩を抱かれて安心する。

「上着ぐらい羽織ってこいよ」
「何作ってんの?」
「雑炊」

丸井が脱いでいたカーディガンを肩にかけられて袖を通す。長めの袖から手を出して、丸井のシャツを掴んだ。

「……ごめんな」
「……あのさあ、何でもかんでもわかり合えるとは思ってねーけどさ、俺だってお前のわがままばっかり聞いてらんねえよ」
「うん」
「大体さ、子どもできたら大変なの俺じゃなくてお前なんだぜ。……学校もテニスも、好きなんだろ」
「……うん」
「だからさ、」

鍋から上がる湯気に目を遣る。揺らぐ視界とよく似ていた。卵の黄色が広がる雑炊はおいしそうで、丸井を好きになったことを幸福に思う。

「どれが正しいとは言わねえけど、俺は、ね。俺もお前も、子どもが育てられる準備がから、そういう話をしたい」
「うん。……プロポーズ?」
「……それでもいいよ」

丸井がコンロの火を消した。卵と鮭の雑炊は皿に移され、仁王と一緒にリビングに運ばれる。食え、と座らされて、丸井は薬を探しに行った。
大きくとった窓から差し込む光は明るい。昼間こんなに日当たりがいいということを思い出しながら、手にした蓮華で雑炊をかき混ぜる。薬を見つけて戻ってきた丸井はもうすっかり我が家を把握し尽くしているようだ。いつ結婚しても問題がなさそうではある。

「……食欲ねえ?」
「んー、腹は減っとるんじゃけど」
「少しは食えよ。ほら」

蓮華と器を奪われて、子どものように食べさせられる。自分の唇に当ててから差し出される蓮華をくわえて、猫舌だといつ教えてだろうかとぼんやり考えた。このまま長くつき合えばいずれは結婚して子どもを生むのだろうか。丸井が言うような、準備をしてから。

「……ああ」
「何?」
「んや、子どもできとったら、ブン太親父に殺されとったかも」
「……お前の父親って会ったことねえけどさ、何してんの?」
「建築会社。昔姉貴に手ェ出してひどい扱いしたやつ、埋められかけとったなあ……」
「……」

まだ丸井の人生に大きく関わる勇気が持てない。優しさに甘えているだけで今日も丸井をサボらせてしまっているから、十分関わっているのかもしれないが。食べ終わって薬を飲むと、丸井にすぐ部屋に連れ戻される。どうせほぼ毎月来ることで、病人というわけでもないのに。

「なあ、一緒に寝て」
「え」
「寒いんよ」
「……うん」

まあいいか、とあきらめた様子なのは、もしかしたら学校へ戻るつもりだったのかもしれない。それでもベッドに引きずり込んで、丸井の胸の中で笑う。あたたかい手に抱かれてよけい子どものような気分だ。

「だるいの腰?」
「うん」
「うちの妹も重いんだよな、生理痛」

丸井の手が腰を撫でる。人の体温がしみこむように、じわりと体をあたためた。ふと足に触れたものに気づいて顔を上げると、丸井はすぐに顔をそらす。

「……立っとる」
「無視しろ」
「……うん。……また、今度ね」
「おう」

汗の匂いに混じる甘い香りはチョコレートだろうか。食べ物の匂いばかりだ。幸福感に包まれて目を閉じる。

 

 

090225