石の上にも三年 4
「丸井さんですか」
「……表札読めねーのかよ。少なくとも仁王じゃねーぞ」ドアの向こうに立っていたのは着飾った女だった。声に聞き覚えはある。――頭の悪い女には手を出さない男だったのに、今回ばかりは失敗だなと仁王を思い浮かべる。明日は誕生日だと言うのに今は異国にいるあの男は、アルコールの前にこの女に平伏したのだと思うと笑えた。とんだ笑い話だ。
電話だけに飽きたらず、家まで押し掛けてくるなど非常識にもほどがある。なぜだか強気でこっちを睨みつけてくる女は丸井の膨れた腹に怯んだ様子も見せたが、自分に非があるなどと少しも思っていないのだろう。――でも自分が同じ立場なら、何が何でも手に入れようとしたかもしれない。恋のきっかけは仁王からだったのでわからないが、もし自分が先ならば何としてでも気を引いただろう。あの男がのらりくらりと交わすからよけいむきになるのだ。そんな時間も今までには何度もあった。 母親が出ていてよかったと思った。迷いはしたが、買い物に出たばかりなので時間はあるだろう。「――入れば?茶も出す気はねえけど」
「お邪魔します」わざとらしく丁寧に言って女が入ってくる。甘い匂い。大学のときこういう女いたなあ、懐かしささえ感じながらテレビをつけっぱなしのリビングへ戻りソファーに腰をおろした。腹が痛む気がする。中へ入れたばかりだが今すぐに帰ってほしくなった。
「仁王さんと別れて下さい。子どもいるのに結婚しないなんて、キープってことなんでしょ?」
「お前に言われたくねえな。仁王に言われたら別れるよ」
「……仁王さんと同じこと言わないで!」
「――はっ、バカだなあいつ」なるほど、と笑う丸井に眉をひそめた女を見つめる。あまり仁王の好みには見えない。仁王を酔わすと言う浅知恵だけはあったのだろうが、迷惑がっていたのを知っている。
――結局、決着を仁王に任せて逃げていても無駄だったのだ。同じことを考えていてはこのままの関係が続くだけになる。仁王の好きにさせているつもりで自分が一番の枷だったのだろう。ならば、言えなかった言葉を自分から。 腹が痛むのは何だろう。胸が痛むならまだしも、――「……あー、……予定日まだ先なのに」
なんて最悪なタイミング。変な顔をする女を無視して母親に始まったっぽい、と電話をすれば烈火の如くどうして私のいないときに、と怒られた。そんなことは孫に聞けと思いながらも丸井は少なからず焦っていたのだろう、どうすればいいのかと聞いて、さっさとタクシーを呼べと怒鳴られる。
「ちょっと……なんなのよ!今話してるのは私でしょ!?」
「お前なんかに構ってられるかブス!空気読め!陣痛だ!ッ……あっ、やべイッテ……」ようやく状況がわかったらしい女がぎょっとする。うろたえているのがわかったが気にしている余裕はない。痛みをこらえてタクシーを呼んだ。
「……お前、暇?」
「へっ?」
「鍵、母さんが持って出たからねえんだ。留守番しといて」
「なっ……なんで私が!?」
「仁王の通帳とかもあるから我慢しろ。台所は好きに使え」
「ちょっと、マジ!?」
「誰が冗談で子ども生むかッ!」
*
「……は?」
「仁王さんッ!」出張から戻ってすぐ、家に――正確には丸井の家に帰ったら、出迎えたのは全く予想外の人間だった。抱きついてくる女を慌てて引き剥がして問いただす。
「何でここに!ブン太は!?」
「あたし話をしに来たんです。そしたらなんか、陣痛始まって、鍵がないからとかってあたし置いて行かれたんですよ!?ひどくないですか!?」
「はあっ!?携帯……いや病院なんか、あいつ……走ってくる、留守番しといて」
「えっ、仁王さん?」
「あのバカ!連絡ぐらい入れろ!」留守番の女を引き剥がし、財布と携帯だけ掴んで飛び出す。タクシーを捕まえようと国道へ出るがなかなか見つからず、携帯を開いたときメールが届く。舌打ちをして無視しようとしたが目が丸井の名を捉え、慌ててメールを開いた。
『名前考えさせてやる』
簡潔な本文と共に、赤ん坊を抱いてブイサインを掲げる丸井の写真がなぜか2枚。思わずふらふらと、ガードレールに手を突いた。なんて奴だ。確かに実際夫ではないが、存在としては立派に父親だ。だと言うのに連絡ひとつないまま、人生における一大イベントが終了している。友人から話を聞いていて出産に立ち会うような気持ちはさっぱりなかったが、それにしてもこの仕打ち。
――部屋にいたあの女が何をしにきたのかは聞かずともわかる。はっきりと状況がわかるわけではないが相当お怒りなのだろう。「ブン太のアホ……」
確かに、確かに自分が悪い。自分の子どもという存在ができたことがどれほど嬉しかったか、一度たりとも伝えなかった自分が悪い。プロポーズをするだけで精一杯だった。恥ずかしくて言えたものではなかった。何より、これで丸井が完全に自分のものになったなどと浅ましい思いを抱いたことを知られたくなかった。長年付き合って思いが変わらないのは仁王ばかりのようで、丸井が自分を置いて大人になってしまったというあの感覚は、自分が子どもだからだろう。
せめて心の準備をする時間がほしかった、今更言っても仕方ないことだが。まるで実感の湧かない写真を見ながら泣きそうになる。とにかく力の出ないままタクシーを呼び、病院に向かった。ああ、なんて気分だ。明日は誕生日だと言うのに。そんな事実が更に追い打ちをかけてくる。なんとしてでも誕生日までに帰り、丸井に祝わせようと必死で仕事を片づけたのに。病院に着いてすぐ教えられた部屋に向かう。たまたま部屋から出てきた彼の母親が仁王を見つけ、申し訳なさそうに寝てます、と苦笑した。脱力感に壁に寄りかかる。
「――見に行きますか?赤ちゃん」
「え、」
「なんと言おうと父親はあなたですから」足が向かうまま、笑って歩きだした彼女についていく。丸井の顔も見たかったが、それ以上に見たいもの。のどの渇きを覚えながら、仁王には動物園を思い出す病室の前に出た。小さなベビーベッドの並ぶ中、彼女が立ち止まった窓のそばに立つ。丸井、の名がなければ見分けることができない赤ん坊を見つめた。宇宙人を連想しながら、時間をかけて人間の姿になっていくのだと考える。丸井が世話をして、自分は何をするのだろう。名前をつけるだけ?
「――ごめんなさいね、意地っ張りな息子で」
「え、」
「でもね、あの子がプロポーズを受けないのなら信用してないってことでしょう?」
「……どうなんでしょう」
「あら、帰らなきゃいけなかったんだったわ。鍵閉まってないはずなのよ」
「!」その発言にうろたえる。見送りだけ簡単に済まし、急いで女に鞄に合い鍵があるからそれで出ろと電話をかけた。不機嫌そうだったが仁王の鞄を手元に置けることに満足したのか、大人しくその通りにしたようだ。ああ、頭の痛いことばかりだ。病室に向かい、静かに中へ入る。ベッドはあるのに他は空で、寝ているのは丸井ひとりだ。のんきに眠る彼に溜息をついて丸椅子を引き寄せてそばに座った。
「バカやろう」
「お前に言われたくねえ」
「……起こした?」
「あのバカ女、まだ続いてたんだな」
「だから……違う。いい加減ストーカーじみてきたから訴えようと思っとったとこじゃ」
「子ども見た?」
「……見てきた。なんやわからんけど」
「さすがにふたりも生んだら長かったぜぃ、もー落ち着いたら腹減って」
「……ん?」
「何だよ」
「ふたり?」
「だから、双子だし」
「……はっ!?」
「あれ?俺言ってなかったっけ?……あー、言ったつもりだった。ごめん」
「……バカ……」もうひとり見てこなくてはならないと思ったが、そのままベッドに体を倒す。胸の辺りに落ちた仁王の頭を丸井が笑って撫でた。いくらなんでもひどすぎる。
「名前考えようぜぃ、ひとつぐらい父親らしいことさせてやる」
「……ブンちゃん、結婚しよう」
「女片づけてから言いやがれ」
「……どっちも男なん?」
「うん」
「じゃあひとりは『フミ』」
「……なんで?」
「ブンちゃんの名前から。漢字当てたら文章のブンなんじゃろ?」
「……じゃあもうひとりはお前からだな」
「うっわ、はずかしー。無理」
「マサかハルかって感じ?ハルがいい」
「なんで」
「画数少ないから」
「なるほど。――お疲れ様」
「そらどうも」好きだ。素直に思う。髪を撫でられるのが心地よくて目を閉じた。他の煩わしいことを今だけは忘れたい。
「そういや家にあの女置いてきたんだ」
「……さっき会った。俺も置いてきたけど、おばさん帰るって言うから合い鍵使って出ろって言った」
「母さん帰ったんだ。……なんか取られてたらどうしよう。仁王の通帳ぐらいならいいけど」
「困るわ!」つーかお前人んちに通帳置いていくなよ、言いながらも声の調子は変わらない。目を開けて丸井を見上げる。
「ブン太」
「あのな仁王、別れようか」
「……は?」
「なんかずるずる来ちまったけどさ、多分今まで以上にお前は忙しくなるだろうし、ふたりもいるってわかってから俺も大変さは覚悟した。正直お前に構ってる時間なんかねえだろうし」
「何言ってんの」
「お前だって子どもなんか面倒だろ?もっと遊べるような女捕まえて好きにしろよ」
「本気?」
「嘘は下手なんだよ」
「ブン太」体を起こして真っ正面から丸井を見る。――例えば、初めて子どもができたと告げられたときに信じていれば、何か変わったのだろうか。子どもさえできなければ変わらずにいられたのだろうか。葛藤を抱えて丸井を見るのに、彼は涼しい顔をしている。見えているのは、子どものことだけなのか?こんなにも動揺している俺を見ても、表情も変えないのか?
「これ以上お前の生き方の邪魔はしねえよ」
運命の歯車が崩れ落ちて行くのを見た。――ならば彼はこれからこの今日の日に、息子の誕生日を祝うのか。明日に控えた仁王の誕生日を忘れて。
070920