覆水盆に返らず 1
口を開けて音を出す。腹の底から全ての酸素を吐き出すみたいに。酸素が切れたらまた取り込めばいいだけの話、死ぬまで必要なのだから。マンションの屋上で叫び続けていたら管理人が駆け上がってきたけど泣き叫ぶ俺に一瞬怯み、落ち着け、とビビった声で言った。
――死ぬわけがない。俺がこんなところでみっともない死に方をするわけがない。まだしたいことは世界に溢れている。今日仁王とキスをした。初めて、触れるだけのキスじゃない、舌を絡めて唾液を飲んだ。勃起するかと思うようないやらしいやつ、離れた瞬間漫画みたいに糸を引いてその先でなぜか泣きそうな顔で笑っている仁王、まだこんなにもはっきり思い出せるのに、今は仁王のことなんて考えられない。あんなに好きだと思っていたのに、もっと大事なものがあった。彼がいなくなれば、仁王が真実ナンバーワン。
「幸村ッ……」
笑えない。幸村が死んだらどうしよう。
*
「いないんすか」
「ええ、……ちょっとね」彼によく似た母親は困った顔をした。足元でぐずる小さな息子を抱き上げ、その背を軽く叩いている。ドアを開けた彼女は初め、予想通り驚いた顔をした。――仁王だって悩んだのだ。元々あまり親しかったわけでもなく、丸井は狭いからと言って家にあまり友人を連れ込むことのないので部内でならジャッカルと切原ぐらいしか見たことがないのではないだろうか。名乗ったときに制服とテニスバッグを見てようやく納得したようだった。丸井の髪だって赤いくせに。
「どこにいるのか」
「……わかんないんですか?」俺じゃあるまいし。学校を休んだ丸井を心配してきたのだが、どういうことだろう。――やっぱりマジで嫌われたんじゃろか。こぼれ落ちそうなほど目を見開いてまっすぐ仁王を見つめた瞳は目に焼き付いている。時々するキスの延長に、様子を見ながら舌を差し込んで深く口づけた。最近で一番興奮した瞬間。熱い口の中だとかその後つないだ手なんかを思い出して、目の前の女性をまともに見れなくなる。とっさにじゃあ帰ります、と口に出た。手より先に口が出るから、その逆の丸井とその点ではぶつからないのかもしれない。
「仁王くん、もしブン太見かけたら、……できれば連絡ほしいけど、帰ってこなくてもいいから何か食べるように言って」
「……食べてない?」誤魔化すように笑った顔はあまり似ていない。 階段を駆け下りながら携帯を取り出す。慌てすぎて一度落として更にタイミングよく蹴り飛ばしてしまい、踊り場の壁にぶつかった。滑るような勢いでそれを拾いに行くと丸い角が少し削れている。それを気にせずその場にしゃがみ込んで丸井の携帯にかける。呼び出し音の後は昼間と同じ機械的な音声に切り替わった。メールを送ろうかと思ったがどうせ無駄だろう。それでも連絡寄越せとだけ送り、送信完了画面を見てから頭を抱える。
――やっちまった?昨日はそんなに嫌そうではなかったと、仁王の目にはそう写ったのに。かすかに頬を染めた後動揺を見せて、自分でしかけたくせに仁王も落ち着かなくてぐだぐだな別れ方をした。夜は連絡をとっていない。この恋の始まりは仁王から。だからいつ丸井の気が変わるのか、そのことばかりが気になっている。やっぱり男同士なんて気持ち悪いと、思ったのだろうか。ゆっくり立ち上がり、ふらふらと階段を降りる。今急に丸井がいなくなったらどうすればいいのだろう。自分にできる限り大事にしたつもりだ。言い争いもしたけれど後に何かを残したつもりもない。――とにかく、一度会わなければ。どこにいるのかなんて全く想像がつかないから、明日も学校へ出てこないのなら連絡がこない限りお手上げだ。誰ならわかるのだろう。普段の生活のことなら、柳お得意のデータより自分の方が丸井をわかっている自信はある。ジャッカルは確か携帯を持っていない。幸村も持っていなかったはずだ。真田や柳生は持っていたとしても丸井の行きそうな場所など知っているわけがない。最後に思いついたひとりに何も考えずに電話をつなぐ。
『もしもーし?』
「赤也、お前ブン太どこにおるか知らんか」
『丸井先輩?休みだったじゃん、家じゃないんすか?』
「役立たず」
『いきなりかけてきてなんすかそれ!』きゃんきゃん喚く電波に顔をしかめて携帯を離し、溜息を吐いて通話を切る。何があったのかさえわからないままではどうしようもない。母親の様子を見ると、親子喧嘩でもしたのだろうか。仁王の不安は拭えない。
(嫌なら嫌って言えよ)
こんな外見のせいか勘違いされがちだが、仁王は大して経験豊富と言うわけではない。1年の頃隠れるようにつき合っていた彼女と半年ほど続いたが、キスぐらいはさっさと済ませたがそれより先にはなかなか進まなかった。お互いそれで満足していたから半年も一緒にいたのだと思う。しかし丸井は違う。あの頃感じていた安心感などどこにもなく、つなぎ止めようと必死だ。
家へ戻るが何をする気も起きない。制服を脱ぎ捨てたきり布団に潜り込み、携帯をもてあそんでは溜息を吐く。
「雅治、卵買ってきて」
「え〜……」
「ないとご飯作れない」
「卵あったじゃろ?」
「落としちゃった。ハンバーグ作りかけてるの」
「……」布団から顔を出して恨めしげに母親を見る。お願いね、と500円玉を投げられた。自分が行かなければいつまでも夕食ができないのだろう。今は食事云々と言ってられる気分ではないが仕方ない。ジャージ姿のままだが気にせずに、500円玉と自転車の鍵だけを手に外へ出る。
「仁王」
「……ブン太?」自転車を押して門を出て、呼ぶ声に足を止める。肩を上下させて仁王を睨む姿は、自分の知っている彼とは違う。ジャージのハーフパンツとパーカー姿で、その首や足にも汗が浮いている。
「ブン太!」
ふらふらと近づいてきたかと思えば寄りかかってきた丸井を抱き止めて、そのせいで自転車が派手に倒れた。汗の匂いになぜか恐怖を感じる。
「ブン太?」
「仁王、俺、……」わずかに顔を上げた丸井の前髪の隙間から、泣き腫らした目が見えた。それに気づいてすぐ顔をのぞき込む。仁王を正面から見据えて深く深呼吸し、次の瞬間丸い目から涙がこぼれた。
「どうしたんじゃ?」
「俺、どうしたらいいんだろう」
「言わんとわからん」
「だって、幸村くんが」
「幸村?」
「……俺、幸村くんのとこ行ってくる」
「ちょっと、ブン太!」捕まえようとした仁王の手をたやすくかわし、丸井が走り出した。短距離でも走るような全速力。慌てて自転車を起こして追いかける。追いつくのは簡単だが、全力疾走の丸井を力ずくで止めるのは危ない。走る斜め後ろを着いていく。
――幸村?幸村に何があったと言うのだ。今日も普通に学校へ来て、何事もなく部活をこなし、いつも通り部員をしごいて帰っていった。その彼がどうして丸井を泣かすのだろう。……ひとつ思い当たるとすれば、休みの丸井を気にするそぶりがなかったことだろうか。それも休んだ理由を知っているだけだと思っていた。
不意に丸井が足を止め、仁王も慌てて自転車を止める。その場にしゃがみこんだ丸井が頭を抱えるので自転車を捨ててそばに腰を落とした。泣いている。いつものあの強気な瞳はどこに行ったのか、うろたえる仁王はきっと目に写っていない。「ブン太、……帰ろ。なんか食おうぜ」
「……仁王?」
「俺じゃ。行こう」
「……うん」起こした自転車の後ろに丸井を座らせ、漕ぎだそうとすると腕が巻き付いてきた。しがみつく腕、頬が背中に押しつけられている。熱い。
「……しっかり掴まっときんしゃい」
「うん」ああ、―― ペダルを踏んで走り出す。丸井の家に向かった方がいいのかと一瞬思ったが、結局自分の家に向かう。手を引いて家に入ると母親が顔を出したが、ブン太くんこんばんは、とのん気な声をかけただけだ。
「卵は?」
「うっせーババァ!」丸井を引っ張って部屋へ引き込む。ようやく丸井の様子がおかしいらしいことがわかったらしく、諦めて弟を呼びに行っている。仁王の手を離さない丸井を座らせて、その隣に落ち着いて顔をのぞき込んだ。ブン太、小さく呼ぶとわずかに顔を上げて視線が合う。
「……仁王、セックスしよう」
「……どうしたん?」
「しねえの?」
「……しよう」上着を脱ぎ捨てて丸井を布団に倒す。顔を見ないように唇を押しつけて、深いキスに丸井の手が頭を抱く。何かに追われている。髪を掴まれて、しかし引き離すわけでもなく、より深く舌を絡めてきた。ゆっくり進んできた関係であるのに一気に距離を詰める激しいキスに、整っていた丸井の息もすぐに乱れる。シャツを脱がすのももどかしく、布を引き上げて露わにした肌を撫でると体が震えた。汗ばんだ肌に吸いついて舐め上げて、快楽が声でこぼれるのを耳にして歯止めがきかなくなる。
大事にしてきた。傷つけないように、逃げられないように。求められているなら応えてやる。それでも自分を抑えられる自信がない。胸に歯を立てて丸井を見上げると歯を食いしばっている。――こんなときに、他の影がちらつく。「……ブン太」
「仁王?」
「幸村がどうしたん?」まっすぐ見据えて言うと一瞬で丸井が涙を零した。喧嘩をしたとかそういう単純なものではない何かがある。仁王、感情で揺れた、彼らしくない情けない声が名前を呼んで、力のない腕が仁王を抱き締める。すがりつくという方が正しいのだろう。できるだけ優しく抱き返して、同時に自分の気持ちも落ち着かせる。
「幸村となんかあったんか?」
「……幸村くんが死んだらどうしよう」
「どういうことじゃ?」
「よくわかんない、でも病気だって」
「病気……?」
「怖くて、ちゃんと聞いてない」
「誰に聞いた」
「幸村くん……」
「幸村がなんて?」
「入院するんだって……」
「幸村が?」一体何が起きているのだろう。丸井と幸村は幼なじみであり、お互い他の友人とは違う特別な存在であるのはわかる。だから入院の話が事実なら、丸井は理由を知っているのだろう。知らないのならこんなにボロボロになっているはずがない。丸井が取り乱すような、病気を、あの男が抱えといるということなのか。底知れぬ男であるが、――そんな病を持ったようには見えない。丸井が嘘をついているとは思わないが、にわかには信じがたい話だ。
「……幸村のとこ、行くか?」
「……やだ、こんなの、見られたくない」仁王の胸にすがって泣く丸井は確かに今まで見たことがない。テニスで惨敗して涙をこぼしたのを見たことはあったがあのときとはまったく違う。しゃくりあげて、まるで子どものようだ。
「食欲もないか?」
「……腹は減ってんだけど、食ったら吐いた」
「……おばさん心配しとった。送るけん、帰りんしゃい」自分は投げ出したのだ。だから何も言えた義理じゃない。
071209