窮鼠猫を噛む 1
作っていた文章を確認し、カウントダウンが始まってから送信ボタンを押した。例年のことだがつながりにくい電波に祈るように携帯をかかげ、ぱっと画面を見ると無事に送信完了の画面が出た。
『ゼロー!』
テレビから賑やかな音が鳴り響く。一旦携帯を閉じ、同じくビールを置いた父親と向き合った。
「明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます。ありがとうございます」
「何がありがとうだ?」
「お年玉ありがとうございます」
「早いな」
「今年もお小遣いよろしくお願いします」父親は笑いながらまたおもしろくもないテレビに目を移し、丸井は再び携帯を開く。……とにかく仁王には送れた。他の友人にも送りかける途中でメールがくる。急いで開けば切原からあけこよ!の簡略化された一言だけで、同学年の友達と一括送信してるのだろうとわかって無視することにした。そのあとも続いて何人かの友人から新年の挨拶が届くが、その中に仁王は混ざっていなかった。そのうちの2、3人に返すうちに面倒くさくなり、携帯を閉じて机のつまみに手を伸ばす。
「お前らぐらいだと年賀状じゃなくてメールなんだな」
「いや、出したよ。うち部活で必須なんだ、出さなかったら真田に殴られる」
「真田くんかあ……怖いなあ」するめを噛みながら思わず何度もメールの確認をしてしまうが、仁王からの返信は一切ない。ふてくされてこたつに潜り込む。
「……しっかし、お前痩せないな。テニスやれば痩せるだろうと思ってたのに」
「うるっせえなー、親父がもーちょっと遺伝子くれりゃ俺だって母さんの遺伝子と合わせてベストにさあ」
「母さんの悪口言うとお年玉減るぞ。まあブンは昔からころころしてたからなあ」しみじみ語りかけた父親の話は聞かず、仁王のことを考える。すらっと伸びた背に憧れた。昔からこんな体型はほとんど変わっていない丸井にとっては羨ましい。人にも流行にも流されてしまいがちな丸井とは違い自分のスタイルを貫くあの男を、いつの間にか好きになった。勢いで告白した丸井をただ笑い、笑顔で受け入れた。それまで男を好きになってあんなにも悩んだ自分を笑い飛ばして。……まだ仁王の口から好きだとは聞かないが、今はつき合っている。周りには秘密にしているので仁王の誕生日もクリスマスもふたりでは過ごせなかった。早く冬休みが終わればいいのにと思ったのは初めてだ。
……キスをしたい。手をつなぎたい。なのにメールも返ってこない。つき合いだしてから2ヵ月ほど経つのだろうか、しかしキスより先には進んでいない。「……寝ようかな」
「早いな、毎年雑煮食ってから寝るくせに」
「ん〜、暇。テレビつまんないし」だよなあと適当に相槌を打つ父親を横目で見る。例えばこのほろ酔いの父親に、ここでアルコールも没収されて管を巻いている長男が男とつき合っているということを知ったらどう思うのだろう。そもそも親と恋愛の話などしないが、少し話を聞きたい気もした。
もしかして仁王は寝ているのかもしれない。そういうことにして、ソファでうとうとしていた母親を起こして挨拶をしてから部屋に向かった。寝るつもりはなかったので暖房も入れていなかった寒い部屋にためらったが、このまま朝まで仁王のことを考えているのも嫌だった。こんなにうじうじと悩む自分が煩わしい。元々携帯などにとらわれない仁王のことだから、期待してはいけないとわかっているはずなのに。布団に潜り込み、近いうちに会うのだから、と枕を抱き締めて目を閉じる。
3年が引退し、新レギュラーで初詣に行くことになったのだ。その中に仁王も丸井も入っている。元々レギュラーだった三強に肩を並べるには、丸井は3年引退を待つしかなかった。……その新レギュラーを率いるはずの幸村が病気で倒れたのはこの冬だ。ささやかれた部長交代を許さなかったのは他でもないレギュラーで、年末年始に自宅へ帰ることが許された幸村も一緒に初詣に行く。願うは全国制覇だと、幸村がそう言った。握りしめた携帯が振動し、慌てて体を起こして開いてみるが着いたメールの差出人はジャッカルだ。怒る気力もなくして枕に頭を沈める。たった一通のメールを待ち望む自分が女々しくて気持ち悪い。いっそ、送らなければよかった。眠ろうと目を閉じて、再度の振動に思わず体を起こして布団に叩きつける。今度は誰だ、電源を切ってやろうと振動を続ける携帯を開けば、そこにあるのは仁王雅治の名前。瞬間呼吸を忘れ、しばらくそれが電話だと気づかず硬直した。留守電に切り替わって慌ててそれに出る。
「もっ、もしもし!」
『ブン太?明けましておめでとう。もしかして寝とった?』
「ううん!お、おめでとう……えっと、何?」
『今家出れるか?』
「え!」
『デートせん?』
「い……行くッ!今からでいいのか?」
『準備ができたらでいいぜよ、コンビニで待っとるけん、俺もゆっくり行くし』
「わ、わかった、すぐ行く!」喋りながらもう服を脱ぎ出す。何を着ようどうしよう、焦りながら冷たいジーンズに足を入れた。仁王の笑い声がする。
『あったかくして来んしゃい、風邪ひいたら大変じゃ。んじゃ、後でまた』
電波が途切れた瞬間泣きそうになる。それでも急いでトレーナーの上にダウンジャケットを羽織る。部屋を飛び出すと父親が驚いて顔を上げた。
「でかける!」
「はあ?」
「ちょっと、そこまで!」
「今何時だと思ってるんだ」
「あの、仁王と一緒!すぐ戻る!」返事を待たず飛び出して、仁王に何も聞かなかったことを迷いながら自転車にまたがった。いつも待ち合わせに使うコンビニへは徒歩5分、それでも時間が惜しい。車のない駐車場に滑り込むと雑誌を立ち読みしていた仁王と目が合った。つき合いだしてから見るようになった柔らかい笑顔に寒さを忘れる。いや、そんなもの始めから感じていなかった。自転車を止めようとするのを制して仁王が出てくる。
「おめでとうさん」
「あ、うん……あ、おめでとう!」
「どうしたん?」
「いや……返事ないから、寝てるのかと」笑って頭を撫で、袖を引っ張られてコンビニの脇に移動する。店の明かりから影になったその場所で、白い息を見ながら誘われるがままに唇を重ねた。
「……新年初キスはブン太とせんとな」
「……何だよそれ、他の誰かにもするみたいな」
「ははっ、せんよ。間違えた」仁王が自転車を止め、ゆっくり抱き締められる。震える指先で仁王の頬に触れ、そのまま再びキスが降った。体が熱くなるのがわかる。部活が年末休みに入ったのは29日だ。その数日どれほど会いたかったか。
「ブン太、今から学校行かん?」
「……は?」
「ちょっと用があるんじゃ」
「用?」
「部屋片づけとったら姉貴が邪魔してきての、ガラクタちゃうっつーのに捨てるってやかましいんじゃ。一旦学校に避難させようかと思っての」
「……そんだけ?」
「もちろんブンちゃんとのデートがメインじゃ。クリスマスもふたりで過ごせんかったしの、初詣も多分無理じゃけん。今の学校なら誰にも見つからんじゃろ?」
「……俺、」
「あかん?」すぐ戻ると言ってしまった。心配しているだろうか。丸井が迷っているのを知りながら、仁王は笑って返事を待っている。ずるい。それでも心地よい仁王の体温から離れられず、こくんとうなずく。女々しい。こんな、子どものような。
「行く」
「ほんまに?」
「……なんで、聞き直すんだよっ」
「ブンちゃんが来るんやったら、えっちしようと思って」
「!」
「ごたごたしとって、できんかったろ?」
「そ……それって、お前は、俺としたいってこと?」
「なんつう誘い文句じゃ」
「なあ、それって、仁王……」好きだと一言、聞きたかった。嘘でもいい。それさえ聞ければなんだって、笑う仁王に胸が苦しくなる。ことばで聞きたいのに。続けようと開いた唇は、携帯への着信で遮られた。すぐわかるように両親からの着信は音楽を変えている。ゆっくり仁王の手が離れ、丸井はばつが悪くなって少し距離を取って電話に出た。すぐさま母親の怒鳴り声がする。近所迷惑になっているんじゃないかと思うほどだ。仁王にも聞こえているのか苦笑していた。近づいてきた仁王が携帯を取り、ぎゃんぎゃんわめいている母親に挨拶をする。急に大人しくなった母親に呆れた。絶対趣味が同じなのだ。
「すいません呼び出して、俺が悪いんです。すぐ送って行くんで。あ、明けましておめでとうございま〜す」 「いいから代われよ!じゃあな、切るから!」
奪い返した携帯を切り、仁王を見る。きっと不機嫌な顔になっていることだろう。頬をつつかれて思わず睨んでしまう。
「また今度じゃな。何か言いかけとったな、何じゃ?」
「……忘れた」
「思い出したらまた教えて」行こうかの、仁王が自転車を押して歩きだし、その後ろを追いかけて袖を掴む。その手を少し見ただけで仁王は何も言わなかった。何を言おうとしていたのだろう。仁王がしようと言い出したことは、普通のふたりならおかしなことではないのだろう。しかし仁王も丸井も男であり、男同士での「やり方」など、丸井は知らない。しようと言うからには仁王は知っているのだろうか、いや、問題はそこではない。しようと、したいと思うのは、どういう意味なのだろう。ただの好奇心なのか、それとも。思い出しはしたけれど聞けなかった。好きじゃないと言われることが怖い。
「……なあ、仁王」
「ん?」
「やっぱり隠しといた方がいいのかな、つき合ってるって」
「……どうじゃろなあ、うちのレギュラーぐらいなら、頭では理解してくれそうじゃがの。まあ赤也はわからんが」
「そう、かな……」
「俺は別にかまわんけど、ブンちゃんが傷つくんは嫌じゃけど」
「……お前舌はよく回るからな」
「信用ないのう、本気じゃて」そんなことを言っている間にマンションに着いてしまった。自転車置き場は暗く、また人目を忍んでキスをねだる。離れがたい丸井を笑って、優しいキスをもらった。仁王のこの優しさが時々怖い。自分の知っている仁王はこんなに優しかっただろうかと思うのに、優しくされて嬉しい自分もいる。
「なあブンちゃん、考えとって」
「何?」
「うち今誰もおらんのじゃ。みんな婆さんち帰っとっての」
「じゃあお前ひとりだったわけ?」
「まあな、初詣は行きたかったし。な、明日、うち来んか」
「仁王」
「でもな、俺はブンちゃんに触りたい。裸にして全部見たい。それでもいいならきんしゃい」
「ッ……」
「じゃあな」額にされたキスに体を震わせた。歩き出す仁王の背中をただ目で追って、ことばで鷲掴みにされた胸を押さえる。苦しい。……こんなにも、惑わされていていいのだろうか。感情に逆らえない。
*
仁王の裸を見るのも、見られるのも初めてじゃない。合宿もあったしプールの授業の着替えのときや、それこそ夏場の部活後などシャワー室で顔を合わせたことも何度もある。それでも、目的が違えば意味が違う、見方が違う。触られるのだって初めてだ。舐められた乳首はくすぐったかったけれどそれでも立った。聞いたことのないような、情けない自分の声も聞いた。好奇心に負けて何度かした自慰行為とは比べものにならないぐらいに気持ちがよくて、頭がおかしくなるんじゃないかと思っていた。もしかしたらもうおかしいのだろうか、仁王の首にしがみついてキスを交わして。触れる仁王の手に耐えられなくて、声を上げて達した。恥ずかしさに震えて顔を逸らしても、仁王の唇が触れてまたほしくなる。
「ア……ニオ、は……」
「……緊張しとるんかのう」仁王を見上げて、足の方へ視線を移す。興奮していないわけではないのだろうが、力のない仁王のものが足に触れている。そっと触れると仁王が肩を揺らした。髪をほどいた姿は妙に雰囲気があり、見つめられるとまた熱くなる気がする。
「……ブンちゃん、嫌じゃなかったら、」
「……何?」
「舐めて。俺も一緒に、気持ちよくなりたい」
「っ……」知識としては知っている。しかししたことはもちろん、されたこともないその行為。様子を伺うように顔をのぞき込んでくる仁王の髪が頬をくすぐった。熱っぽい視線は今、自分に向けられている。拒絶できるわけがなかった。ゆっくり頷いて、仁王に合わせて体を起こす。
「ありがとブンちゃん」
「……」嫌な予感はずっとしていた。欲しいのはそれじゃない、好きと一言、それだけだ。キスは求めてもことばはねだれない。この体はなぜ震えるのだろう。
「仁王……」
好きだと一言、言うこともできない。
*
「明けましておめでとう」
「幸村くんおめでとう!体調は?」
「大丈夫、ありがとう」
「よっしゃ行くぜ!」
「一番遅かった奴がしきんなよ」ジャッカルは無視し、幸村の手を取って丸井は先頭を歩き出す。仁王の顔を見れない。柳生と話す声を聞きながら、頭を降ってうっとうしい思考を振り払った。
「あ、年賀状届いた?俺間に合わなかったかも」
「今日来てたよ。赤也からはまだだなあ」
「えっ、出したっすよ俺!」
「俺んとこも来てなかったぜ」
「出したって絶対!」
「おい、早速ジャッカルが迷子になったぞ」
「マジかよ。赤也も気をつけろよ」
「なんで俺なんすか!」思っていたよりも人が多い。まあほぼ予想通りだ、柳がうなずきながらジャッカルを探す。真田が溜息をついた。たるんどるとでも言いたいのだろう。
「あ、来たっすよ」
「すまねえな、クラスのやつに捕まってよ」
「俺も先ほど見かけた。結構来ているようだな」
「幸村も疲れるだろうからさっさとすませてしまおう。行くぞ」
「俺おじいちゃんみたい」真田に促されるのを笑って幸村が歩き出す。何してんだ馬鹿、ジャッカルの被っていたニット帽を脱がせて頭を叩いた。寒いと文句を言うがそのまま丸井が被る。
「返せよ」
「あっこれあったけえ!」
「おや、今度は仁王くんがいませんね」
「え?」振り返ると柳生が眼鏡を上げながら辺りを見回す。さっきまで話していたのではないのか。意識して仁王を見ないようにしていたからいつからいないのかわからない。真田が溜息をつく。
「あいつのことだからもう放っておけ」
「ではメールだけ入れておきましょうか」仁王は自由だ。どうせはぐれるならふたり一緒がよかった、なんて。溜息をついたのを幸村に見られて、しょうがないやつだよな、と呆れている表情を作る。仁王と一緒にいてずいぶん嘘がうまくなったと思う。ごまかすための小さな嘘、ささいな表情。
ともかく本殿を前にし、柳のうんちくを適当に聞き流しながら正しいのかわからない方法で手を合わせる。目を閉じてしまったので誰かが手を鳴らしたが、それが誰かわからない。全国制覇を十円玉に託し、それが仁王を除いた7人分。その片隅におぼろげに仁王が浮かぶ。これから仁王とどう過ごしていきたいのか、何も思い浮かばない。「まあ、ただの形だよね」
おみくじを引こう、と向かっていく切原に続きながら、丸井の隣で幸村が漏らす。真田や柳、全員を見回しながらいつものように笑った。
「全国制覇だなんて、神様からもらっても嬉しくないよ」
「よく言うぜ、『神の子』不在で神様のご利益なんてねえだろぃ」
「だから頑張ってもらうんじゃない。信じてるよ」
「その通りだ!幸村がいなくとも俺たちは強い」
「……その言い方なんかムカつく」笑顔の幸村にはっとして真田が一歩引く。間にいたジャッカルが慌ててきょろきょろとふたりを見比べたが不意に仁王、とつぶやく。それで気づいた柳生がおみくじを見ている仁王に近づいていった。顔を上げた仁王が柳生を見て、それから幸村たちに気づく。丸井と目を合わせたが何もわからない。嫌な、予感がすぐに襲った。誰かの手が、仁王の腕を掴んでいる。
「どこへ行っていたのですか」
「ちょっとお花を摘みにな」
「……お花、ですか」柳生が見たのは仁王の隣に立つクラスメイトだった。笑顔で柳生に挨拶をする彼女は精一杯着飾ってきたことがわかる。柳が納得したように頷いて、幸村と目を合わせて笑った。
「なんだ、仁王先輩の彼女も来てたんだ」
「……彼女?」
「あれ、丸井先輩知らないんすか?なんか、秋ぐらいからつき合ってるらしいっすよ。秘密にしてたみたいですけど、俺たまたまデートしてんの見ちゃって。かわいいっすよね〜」
「……へえ」
「……丸井先輩?」表情が消えているのが自分でわかる。ジャッカルを押し退けて仁王の元へ向かった。悪びれもしていない仮面のような笑顔が丸井を見る。――それを見てよくわかった。仁王はこの瞬間を待っていたのだろう。騙されていた丸井がどんなリアクションを取るか。この男の性格の悪さは知ってる。
「仁王」
「ブンちゃんどした?」一度もブン太と呼ばなかった。歯を食いしばって仁王を見、一瞬笑ってやる。わずかに怯んだ隙を見逃さず、その顔に力一杯拳を当てた。油断したせいか仁王は尻餅をつき、隣で『彼女』が悲鳴をあげる。条件反射なのか、ジャッカルがすぐに丸井を捕まえた。隙あらばもう一発と握った拳を捕まえながらも、人のいいブラジル人ハーフは動揺している。
「何すんの!?仁王くん大丈夫ッ!?」
「何が彼女だ、やめとけよ。俺のケツでイってよがったド変態でいいなら別だけどよ!仁王クン楽しい思い出できましたか?俺はお前の期待通りに立ち回れたか?満点なら誉めてくれよ、ご褒美にキスでもつけてくれりゃ言うことないね!死にたくなったら言えよ背中押してやるから!」
「どうしたんだよブン太!」
「……俺はこのペテン師に踊らされてたってだけだよ」鼻で笑ってジャッカルの手を振り払う。周囲の野次馬も気にせずに、真っ直ぐその場を立ち去った。
――あまりにも、惨めだ。予測できなかった愚かな自分も、違和感を黙殺して浮かれていた自分も。惨めで哀れで、救いようがないバカだ。それでも、まだ好きだと思っている自分が何よりも許せない。初めてのキスもセックスも一生忘れないだろう。早足で歩く自分がいつものコンビニに向かっているのに気づいて涙が浮かんだ。どうして仁王を好きになったのか、思い出せない。
080112