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「仁王の髪って、地毛なの」
「そうじゃ」

シーツに広がる毛先を触りながら丸井はそれをもてあそぶ。横目にその様子を見ていると目が合って、なんだよ、と鼻先にかみつかれた。

「おー、変身とけるけんやめて」
「正体を現せっ!」
「イテテ」

ふざけて髪を引っ張る丸井の手を掴み、体を起こしてベッドに押さえつける。くるくるとよく動く目が仁王を見上げた。まだ目元が赤いのが愛しくて、まぶたを閉じさせそこにキスを落とす。くすくす笑って丸井はそれを受け入れた。

「正体はなんだよ。狐か?狸か?」
「さあどうじゃろな」
「俺、化かされてんの」
「朝起きたら空き家だったりしての」

顔にかかる仁王の髪を触って、丸井はじっと見つめてくる。真摯な瞳を同じように見つめ返した。色々な表情をする丸井につられてしまう。

「狐だな、お前は」
「うーん、バレたか」

戯れに答えながら抱きしめて布団に潜り込む。寝るの、と聞く丸井が幼く見えて、もう疲れたんじゃと返した。ジジィだなあ、笑って抱き返される。愛しさに抱きしめる手に力を込めて、おやすみとささやいた。――もう恋はしまいと思ったのに。笑って仁王の胸に額を押しつけ、おやすみ、と笑った丸井に切なくなる。もう恋はしたくないとあれほど思ったのに。鼻がツンとしてくる。

「仁王?」
「かわいいね」

いつまでこの子といられるのだろう。色の抜けた髪を思いながら目を閉じる。
夢に見たのは一心不乱に走る自分の姿だった。シューズを履いた右足と左足を交互に、何かを見据えてまっすぐ走っている。何かにつまずいた仁王はあっと声をあげて体を返し、次の瞬間には四肢で地を蹴った。銀の尾をなびかせて走る自分は、狐の姿をしていた。



はっとして目が覚めると夜中で、丸井はまだ眠っている。自分が汗をかいているのに気づいて額を拭った。まるで走っていたかのようだ。溜息をついて丸井を抱きしめる。
今となっては自分が本当にそうだったのか忘れかけているが、仁王は昔狐だった。否、今だって正体は狐だ。長く生きる中で力を得て、もうどれほど人間として生活しているのかわからない。窓から差し込む灯りで光る髪を見て、この仁王雅治が最後にしよう、と思う。色々な名や姿を使ったが、もう細かく変化ができない。髪が白くなってから使いかけたこの姿で生涯を閉じるのがいいだろう。

今までに二度恋をした。三度目の恋をする気はなかったのに、年を経てまた人肌が恋しくなったのだろうか。女々しいことだ。草木の匂いが恋しくなるのと同じぐらい、淋しくなる。ひとり暮らしの家に丸井がいるだけで、今は満ちたように思った。このまま丸井と終わっても後悔はないだろう、十分生きた。
最後に学生を選んだのは、もう真剣さをまとう恋の視線を受けたくなかったからだ。どうも目立つ外見に化けてしまうため恋の経験は多かった。詐欺まがいの恋愛や遊びの恋に混じる思い出の恋は、いつまでも忘れられない。
初めに好きになった女はまだ幼かった。心身共に未成熟だったなりに仁王も真剣に彼女を思っていた。四季を共にした後、流行病に倒れた小さな体がまぶたの裏に蘇る。

「にお……?」
「ああ、すまん」

思わず力を込めてしまったようだ。寝ぼけ眼をこする丸井の額に唇を寄せる。くすぐったそうに笑う声を耳に、腕の中の温もりを抱きしめて幸福感を感じていた。こんなにも愛しい子がそばにいて幸せなのに、それでも感じるこの苦しさは、彼との別れがわかっているからだ。自分は長く生きすぎた、きっと彼を残して先にこの世を離れるだろう。あんな見送りをする恋は嫌だったのに、今は彼を残すことが悔やまれる。

「におー?」
「起こした?」
「目が覚めた。もったいなくて寝てらんねえよ」

伸び上がった丸井からのキスを受け、露わになった肩に布団を引っ張り上げながらそれに応えた。戯れの口づけを繰り返し、仁王を倒して乗り上がった丸井が見下ろしてくる。近距離で見つめ合う丸井の瞳に宿るものがわかって、両頬に手を添えてゆっくり引き寄せた。唇をなめると薄く開いて、そのまま舌を差し込むと丸井の体がこわばる。それを抱きしめて舌を絡めた。離れた頃には薄明かりの中でもわかるほど頬を赤くなっている。

「お前、絶対初めてじゃねえだろ」
「全部ブン太を抱きしめるための練習じゃ」
「……チッ」
「ヤキモチ?」
「……だってお前自分のことほとんど話さねえしよ」
「俺は、ブン太と今の話がしたいんよ」
「お前ってほんとに秘密主義だよな」
「話すようなことでもないだけじゃ。……体つらくないけ?」
「……なあ、明日、部活サボらねー?」
「しんどい?」

にやりと丸井は笑う。仁王の顔を覗き込み、赤い頬をしたままそれでも勝ち気な表情で口だけ動かした。
し・た・い。
思わず笑って応え、温かい体を抱き寄せた。

もうこれ以上、あんな思いはしたくない。丸井はこれまでの恋とは違うから、きっと大丈夫だろう。時代も違う。形も違う。大丈夫だと自分を言い聞かせながら丸井を抱いた。ただ、あんなつらい思いをさせてしまうことだけが悲しい。だから抱くつもりはなかったのに。
初めてだと照れくさそうに告げた丸井も、快感をどう受け入れるか迷う姿も、愛しくて仕方ない。時々自分が狐であるなどと忘れていることがある。初めから仁王雅治として、人間として生まれたような気になる。声を殺して抱かれる丸井が愛しい。丸井と出会うのなら女になっていればよかった。恥ずかしい、と真っ赤になって顔を背けた姿に一瞬別の人間が重なり、すぐに振り払った。最低だ。
二度目の恋は戦火に裂かれた。どうして自分だけ生き延びたのか恨んだ日々はそう遠い日のことではない。それが彼を支えるためであったと思いたい。強がりで意地っ張りで自信家で、優しい子。この長い生をだらしなく生きてきた仁王にテニスを教えたのも丸井だと言ってもいい。人が集まって楽しそうだから手を出しただけのテニスだが、真剣にやる楽しさは丸井を見つけなければ知らなかった。

「もっと」
「な……何?」

不安げな顔を見せた丸井に笑いかける。自分より柔らかい体を撫でるとわかりやすく反応を見せて、口にはしないがいやらしい体だと思った。しかしこれは自分が思われている証拠だ。かわいい。愛しい。他に言葉がわからない。

「もっと、早よう会いたかったね」
「……どういう意味?」
「ちっちゃい頃のブン太も見たかったよ」
「今度アルバム見せてやる。かわいいぜい」
「ころころしてかわいいんやろな」
「一言多いんだよ仁王は」
「俺も昔はころころしとったんよ。年取ったら痩せてきたけど」
「お前たまにジジィみたいなこと言い出すよな。明日飯作ってやるよ、仁王は食わなさすぎ」
「……うん、楽しみにしとる」

長く自然から離れているせいだろうか、自分に昔ほどの力を感じない。人間の姿で同じように社会になじんでみても、結局は野生動物なのだろう。とうになくなった、生まれた森が恋しくなる。心を埋めるように丸井を抱きしめた。



そのまま眠ると二度目の夢を見た。昔の夢は疲れる。名を覚えていないと言うから山を駆けずり回って、腕いっぱいに花を摘んで帰った。ひとつずつ見せたけれどずっと同じように笑っていて、だから多分、彼女が見たかった花はそこになかったのだろう。あっち行って、とどうにかそれだけ言った彼女の気持ちが今ならわかる。あんな姿見られたくなかったろう。どうしてわかってあげられなかったのか、悔しい。きっと最期を見ない方がよかったのだ、彼女のためにも。自分のことしか考えられない子どもだった自分を恨んではいないだろうか。

「朝飯できたぞー」
目を開けると丸井が覗き込んでいる。今度は狸かよ、と笑ったのが何かわからなくて少し迷った。
「起きてたろ」
「……ああ」
「手伝うとかしたらどーなんだよ」
「ブン太が作ってくれるって言ったんじゃろ」
「できたよ。冷める前に食おうぜ。トースト焼いちゃったし」
「うん」

体を起こすと丸井は正面にぺたりと座っている。布団たたむ?と首を傾げているのを見てなぜかこけしを連想した。久しぶりに床で寝た、と掛け布団からたたみながら話す丸井の手を取る。

「何?」
「洗うからええよ」
「……あ、うん」
かっと顔を赤くした丸井を笑うと腿を叩かれる。思いがけずきれいに決まったので痛かったが笑いは止まらない。抱きしめてごまかそうとするとバカ!とまた叩かれた。
「ご飯食べよ。買い物行くんじゃろ?」
「……うん」
「布団干してからな」
「だからっ!」

怒って仁王を引き剥がし、部屋を出て行った丸井の後ろ姿を追う。ひとりで暮らしている仁王の部屋には必要最低限のものしかなく、初めて足を踏み入れた丸井が色々買いに行こうと昨日決めた。とりあえず丸井が来ることになるのなら、カーテンは買うべきだろうとは思う。今までどんなところでも布団とある程度の衣類ぐらいしか持っておらず、近年は便利になったもので台所用品もいらないぐらいであまり使ったことがなかった。
何より、もう何年も体が保たない気がしている。元々人間に化けて生活していたのは悪戯心から出たものだ。何かにつけて悪戯をして、テニスを始めてからはそちらも面白くしようと多少の細工をしたりしている。しかし元々山のもの、適応していても完全になじみはしない。山でおとなしく生活していればこんなにも体にガタはこないのだろう。

机代わりに取り出されたダンボールに置かれた朝食を食べていると、丸井がメモを取りだした。一緒に覗き込むとカーテン、とつぶやきながら男らしい字が踊る。

「カーテンだろ、テレビは?」
「ブン太が見たいなら」
「お前んちだろ。あ、金あんの?」
「別に安いテレビぐらい買えるけど、見んと思う。ブン太見とるけん」
「……おっま……そういう、恥ずかしいこと……」
「あと何言っとったんやっけ、ドライヤー?」
「あ、そう!」
「ブン太んちになりそうやの」
「……やなの」
「ええよ。他に何がほしい?」

きっとこの癖は治らない。かわいがり方をよく知らないのかもしれない。甘やかすだけじゃないだろうと思いはするが、抱きしめる以外に何ができるのだろう。

「……何でひとりで暮らしてんのとか、聞いてもいいの」
「ブン太のそばにいたかっただけ」
「だから!……そうやって恥ずかしいこと言われると、嘘くせぇんだよ」
「秘密にしといた方が面白いこともあるんよ」
「俺は知りたい。仁王のこと全部知りたい」
「じゃあ触ってみる?」
「は?」
「この体が俺の全部。煮るなり焼くなりして調べてええよ」
「バカじゃねーの……触りまくったのは、お前のくせに。触ってわかんのかよ」
「俺実はエスパーなんじゃ」
「化け物の次は超能力者か」

けらけら笑って丸井は蛍光灯、とメモにつけ足した。面倒で切れたまま放っておいた台所の蛍光灯のことらしい。とは言えワンルームであるから部屋の明かりをつければ見えないわけではないが、きちんと料理をするなら必要だろう。
丸井に合鍵を渡そうかと思いつく。喜ぶだろうとは思うが、いつ自分が人間の姿を保てなくなるかわからないので考え直した。過去にも何度か、うっかり姿をさらしたことがある。酔っぱらっていたり疲れていたり、最近では全国大会のときだ。余韻に浸る間もなく輪から抜け出し家に帰り、鞄を下ろした瞬間――否、下ろしたのか狐に戻ったせいで落ちたのかわからなかったほどすぐに力が抜けた。鍵をかけるのも忘れて半日眠りこけていたあの日は特別だろうが、仁王は自分を過信しない。

「何考えてんの?」

皿を洗いながら丸井が言った。フローリングに四肢を伸ばしている仁王が寝ているわけではないことはわかったのだろう。全国のこと、と素直に答えると丸井は少し返事に迷ったようだ。あー、と口を濁して困っている。

「俺は、あんま思い出したくねえな」
「あんなに疲れたんは久しぶりじゃ」
「……仁王さ、テニスもだよ。あんな真似ができるなんて聞いてねえぞ」
「敵を欺くにはまずは味方からじゃ。まあ、本人になれるわけじゃないけん限界はあるぜよ。一番得意なんは柳生じゃな」
「俺にもなれんの?」
「ブン太にはならん」
「なんで」
「好きだから」
「ばか」

手の水を払い、Tシャツで拭ってから丸井は頭のそばに座った。冷たい手が仁王の頬に触れて目を閉じる。生きている人間の冷たさは心地よい。いつか丸井も死ぬのだと考えてしまうのは、嫌なことだ。だけど考えないことはできなくて泣きそうになる。

「なんで、何でも秘密なんだよ」
「……好きやから言えんのじゃ」
「なんで?」
「離れたくない」
「……バレたら俺が逃げるような秘密持ってんのかよ。人でも殺したのか?」

あれは。――あれは仁王が殺したのかもしれない。戦場が見たいと戯れを言った自分と言い争いをして出ていった彼女は、温かいままでは戻れなかった。どうしてあんな冗談を言ったのだろう――いや、本気だったのを、彼女は気づいていた。どうしていつも後悔するのか。丸井との恋も、後悔を残して終わるのだろうか。

「仁王?」

思考が中断されて目を開ける。二度あることは三度ある、とは不吉だ。もし丸井が先に死んだら、すぐに後を追おう。もう愛しい人を亡くした苦しみに耐えられない。――別れる準備を、しておいた方がいいのかもしれない。自分の死にざまなど丸井に見せたくないし、正体をばらしたくもない。化かされていたのだと丸井に思われるよりは、ひどい男だと記憶された方がましだ。

「実はな、俺未来からきたんじゃ。じゃけん過去が変わるようなことは言えんのよ」
「漫画かよ」
「さっ、買い物行こうか」
「見つからねーようにしないとな、部活のやつらに見つかったらうるせえぞ」
「あー、ちと面倒じゃが遠出するか」

サボると言っても引退していることになっているのだが、エスカレーター式に高等部へ進学する生徒がほとんどなため自然に部活へ参加しているだけだ。真田の鉄拳が飛んでくることはないだろう。それでもなんとなく後ろめたいのは仁王も同じだ。
立ち上がってパジャマ代わりのTシャツを脱ぐ。何気なく振り返ると丸井がはっとして顔をそらした。どうしたん、と問えばなんでもない、と怒ったような声。気にしながらもスウェットも脱ぎ捨てて着替えていると、ちらりと丸井の視線が飛んだ。

「何よ」
「……簡単に、脱ぎやがって」
「……思い出した?」
「るっせえ!いいから俺にも何か服貸せ!」
「好きに出して」

衣類をつっこんでいるケースを開けて丸井はあきれた顔をした。何かおかしなものでもあっただろうかと一緒に覗き込むと、ケースと仁王を見比べて溜息をつく。

「仁王の服も買いに行こうぜ」
「ああ、普段制服しか着んからのう」
「お前は無頓着すぎんだよ」
「かっこええ服は似合いすぎるんじゃ」
「言ってろ。秋物ねーじゃん、そろそろ冷えるぞ」
「じゃあ今日はブン太にプロデュースしてもらおうか」
「俺好みの男にしてやるから覚悟してろぃ」
「惚れ直してもらえるようなやつ頼むわ」
「任せろ」

ふざけて笑い合う、こんな時間が貴重なものだと知っている。向けられる無邪気な笑顔に泣きそうになって、丸井を抱きしめてごまかした。

 

 

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