秘すれば花 3
「だめ、ごめんやっぱ」
「……怖い?」
「違うんだ、なんか、……どうして仁王が今まで俺を抱かなかったのか考えてて」汗ばんだ肌を合わせて乱れた息が混じりあう近さでお互いの顔を見つめている。丸井は真っ赤になっていてすぐ に顔をそらそうとしてしまうからその頬に手を添えた。熱っぽい瞳に飲み込まれそうだ。
「今ならちょっとわかるんだ、だって」
「うん」
「も……やだ、見んな」
「教えてよ」伸びてきた手に視界を覆われて、それでもゆっくり頬を撫でて促した。手に触れた熱いものは涙だろうか。
「今までと同じじゃいられなくなりそう」
「そうじゃな」
「なあ仁王、お前どこにも行かない?」
――どう答えただろうか。思い出そうとしたところにくしゃみが聞こえて目を開けた。ごめん起こした、薄暗い 中で丸井が仁王の頬を撫でる。なんで布団から出ているのか知らないが指先が冷たくなっていた。その手を取っ て唇で触れる。
「どうしたん?」
「……何でも、ない」
「ん?」
「……ちょっと目ェ覚めただけ。寝つけなかったから」
「おいで」
「……うん」歯切れの悪い丸井を気にしながらも布団を持ち上げて場所を作ってやると潜り込んできた。ふるりと震えた冷た い体を抱きしめてやるとゆっくり息を吐いた。
「どうしたん?」
「……変な夢見た」
「どんな?」
「なんか……動物?わかんないけど、襲われた」
「……動物?どんな?」
「わかんない、見たことない。大きくなかったけど、犬ぐらいの」
「……それは怖い夢じゃのう」
「お前犬嫌いだもんな」
「あいつらには吠えられるんじゃ」
「仁王が嫌われてんのか」笑った丸井に安心する。同時に沸き上がるのは怒りだ。あいつの狙いはこれなのか。この様子では丸井が見たの はただの夢ではなかったのだろう。――きっと襲ったのは自分だ。奥歯を噛んで空を睨む。
「仁王」
「何?」
「……なあ、しつこいかもしんないけど、俺、お前のこと知りたいんだよ。何隠してんの?」
「……もうちょっと考えさせて。俺も、言った方がええんか迷っとるんじゃ」
「……俺怖いよ。お前、どっか行くかもしれないし。冗談みたいに言ってたけど、本気なんだろ?お前が隠して ることと関係あんの?」
「なあブン太、俺は今だけで幸せなんよ。ブン太はだめ?」
「俺は、お前が何考えてんのかとか、何してんのとか、全部知りたい。好きってそういうことじゃねえの?じなきゃこんなことしねえよ」
「……俺とブン太は違うね」びくりとした丸井の頬を撫でて鼻先にキスを落とす。身動きをして顔を上げた丸井を見て笑ったが、なんで泣きそうなんだよと言われてしまった。泣きそうなのは丸井なのに。今口を開けば声が震えそうで、かすめるように唇を重ねて落ち着くのを待つ。
「大丈夫、違うから好きなんじゃ。俺は丸井みたいにはなれんから」
「どういう意味だよ」
「……素直に生きてこんかったんじゃ。騙してごまかして、笑顔をはっつけての」
「仁王」
「そんなに急に変われん。ごめんな」
「……なんか、やだ」
「ごめん」
「違う、なんでだろう。泣きたくなる」抱きしめて緩く髪をすいた。後悔したって遅いことだが、いたずらにちょっかいを出さなければよかった。もう恋をしたくないとあれほど思っていたのだから、真剣な瞳には近づかなければよかったのに。
「俺なんでセックスするのかわかるよ」
丸井の腕が背中に回る。顔を隠すように額を胸に押しつけて、優しい声で彼は続ける。
「体温だけでいいときもあるもんな」
「……うん」今更何を言ったとて、好きになってしまったのだから仕方ない。もう離したくない。ずっと共にいたわけではないのに、いなければ不安になる。恋をしたのは自分だ。選んだのも、覚悟を決めたのも。無駄に長く生きただけで得たものは少ない。丸井の方がよっぽど大人だ。
「ブン太」
「……なあ、俺も名前で呼んだ方がいい?」
「んー、仁王の方がええな。そっちの方が好きなんじゃ」雅治は適当に新聞か雑誌から拾った名だ。昔の女につけられた仁王の名を大事にしながら今の恋人を抱くのも不誠実かもしれないが、丸井に新しい名前をつけてもらうわけにもいかない。
「じゃあ仁王。変な名前だよな」
「ブン太に言われたくないのう」
「うるせー、じいちゃんに言え」
「じいちゃんがつけたん?ええやん。俺はな、仁王像の下で拾われたから仁王なんじゃ」
「はあ?」
「内緒な」
「意味わかんねー」
「じゃあもっとわかりやすいことしようか」
「例えば?」
「ボディランゲージ的なこと」
「ばか」くすくす笑いながら顔を上げさせ、優しくキスを落とす。今の仁王にできることは優しく抱きしめることぐらいしかない。嘘をつきたくないからどこにも行かないとは言えなかった。繰り返し考えても全てを話す方がいいとは思えない。何度もついばむようなキスを落としているともどかしくなったのか、頭を抱き寄せるように深いキスをねだられた。押しつけられた唇を舐めるとその先を期待して薄く開く。
「……いや、だめじゃ」
「なんで」
「止まらんくなる。学校なんか行かせられんぐらいほしい」
「は……恥ずかしいやつ」
「それだけブン太が好きなんじゃ」
「……なあ仁王」
「ん?」
「そんなに俺が好き?」
「うん。……食べてしまいたいぐらい」
「ばかじゃねーの」丸井に笑顔を向けて、大丈夫だと自分に言い聞かせる。その役は狐じゃない。可愛い子を食べてしまうのは狼の仕事だ。 ひとり寝に慣れた体が体温を思い出す。誰かの温もりがある夜は心まで満たされて、だから人は人を求めるのだろう。体温だけでいいときもある。丸井の言う通りだ。朝になってしまうのがもったいなくて、丸井の寝息を聞きながら薄闇の中で目を開けていた。
考える時間が長くなった。人間は多彩だと思う。感情、生活、言葉。どれをとっても多すぎて、目移りしてしまいそうだ。眠るだけの夜じゃない。温かい子を抱きしめて朝を待つとあっと言う間で、少しずつ明るくなる部屋に以前はなかったカーテンがかかっていることを意識する。青いカーテンはゆらゆらと部屋を染め、ついぞ知ることのなかった海の中はこんなに青いのだろうかと夢想した。
春、卒業と共に丸井の前を去ろう。何も言わずに姿を隠し、丸井が自分のことばかり考えて生活する日々を望んでいる。なんて浅ましい。丸井がセットしていた携帯電話のアラームが鳴り出し、腕の中の丸井が身をよじる。さよならまでの残り数ヶ月、精一杯彼を抱きしめておこうと思った。ひとりで死ぬのも怖くなくなるように。アラームを止めようと伸びた丸井の手が枕元をうろつき、わざとそれを遠ざけてやる。そのうち低くうなりながら顔を上げた。「おはよう」
「うー……起きたなら止めろよ……」
「なんかもぞもぞしとるのかわええな。赤ちゃんみたい」
「はあ?」寝起きは少し機嫌が悪い。鳴り続けるアラームを止めて、丸井は再び布団に潜り込む。朝ですよ、と声をかけると知ってます、と返ってくる。そのくせわざと腕の中に入り込んできて、笑い声をこぼしてその体をくすぐってやった。悲鳴に近い声を上げて丸井が布団から転がり出る。
「やめろっ、寒ッ!」
「もう裸で寝るのは寒いのう」
「なんか貸して」適当にトレーナーやスウェットを着て丸井が再び布団に入ってきた。仁王の冷たい肩に手を回す。
「朝飯どうする」
「んー、マックでも行く?」
「あ、賛成」仁王を抱きしめて丸井が深く息を吐く。どうしたの、聞くと顔を覗き込んできて笑った。
「仁王がいるの確かめてんの」
「……ちゃんとおるじゃろ」
「うん」仁王の不安定さが移ってしまっているらしい。悪いことをしたと思いながら、愛しい人を抱き返す。唇を合わせて目を開けるとキスしてばっか、と鼻先で笑った。予定が決まれば仁王を急かして支度を済ませた丸井と家を出る。鍵を閉めるのを真横で待つ丸井を見て、施錠されたのを確認して歩きだした。
「……ブンちゃん、鍵、ほしい?」
「えっ!あ、や、そういう意味じゃなくて」
「……あげる」丸井の手を取り、キーホルダーも何もついていない部屋の鍵を手のひらに押しつける。仁王と鍵を見比べて目をぱちぱちとさせ、丸井がうろたえているのが伝わってきた。
「あっ……や、だからっいらねーし!」
「照れとる」
「もー、行くぞ!」鍵を返しはせずに握りしめ、ずんずんと歩いていく丸井の背中に着いていく。近づいていってその手を取れば、ぎょっとして仁王を振り返った。それに気にせず進むと丸井も黙って着いてきて、わかりにくい程度に手に力を込めてくる。まだ登校には早い時間で道には少なくとも生徒の姿はない。口数が少なくなってうつむきがちに歩く丸井が耳まで赤くしているのを見ると可哀想にもなる。女の子に恋をすれば、彼の気持ちも違うだろう。
「恥ずかしいことばっかしやがって!」
「でも嫌じゃないんじゃろ?」朝食にありついて腹を満たした頃にはいつもの調子を取り戻した丸井はその一言に黙り込み、ごまかすようにストローをくわえる。ほとんど飲んでしまったオレンジジュースは空気と混ざって音を立て、カップを揺らして氷を鳴らしながら仁王を見た。
「ずるい」
「何が?」
「そういう態度!」時計を見て立ち上がり、丸井は先に店を出ていく。あきれたふりをして着いていくとふん、と鼻を鳴らした。丸井もきっと怒ったふりをしているだけだ。 生徒の増えてきた道で柳を見つけ、顔を見合わせて彼を追いかける。丸井が背中を叩いて柳は振り返り、おはようと挨拶をした。いつ会っても乱れぬ男だと思う。
「柳昨日部活休んどったのう。どうした、サボり?」
「仁王と一緒にしてもらっては困るな。近所のよくしてもらっていたお婆さんが亡くなってな、葬式だったんだ。親族ではないから学校は休めなかったが部活は抜けさせてもらった」
「あら」
「可愛らしい人だったぞ。若い頃狐に騙されたことがあるというのが自慢でな。周りはぼけたんじゃないかと言ってたが、本当だったなら詳しく聞きたかった」
「ふーん、狐ねえ。仁王だったりして」
「そうかも」
「仁王は狐だったのか」
「そう、こないだブンちゃんに正体見破られてしまったんじゃ」会話に乗ってきた柳が笑う。その様子でわかりにくいが彼なりに落ち込んでいたようだとわかった。そういえば前に柳に狐の話をされて背筋を冷やしたことがある。亡くなったと言う人は昔仁王が騙したひとりだったのかもしれない。仁王を、狐の存在を信じている人間がまたいなくなったのだろう。きっとそれで仁王の力も弱まったのだ。ふと柳がこちらを見ているのに気づき、首を傾げて応える。彼はすぐにいや、と微笑んだ。
「その様子だとデマのようだな」
「何が?」
「何でもない、勘違いだ」柳がそう言うならもう言う気はないのだろう。特に気にせずそのまま3人で学校へ向かいながら、とりとめのない話をする。仁王のうちに泊まったことを柳に見抜かれて、慌ててつくろう丸井をからかっているうちに学校に到着した。待ち構えていたかのように仁王がクラスメイトに捕まり、柳がわずかに顔をしかめて嫌な予感がする。
「何?どうしたの?」
「丸井なら知ってるか?なあ仁王くーん、彼女できたってマジ?」
「は?」肩を組まれて捕まえられ、靴を履き替えながらクラスメイトを見る。にやにやと笑う顔は仁王をのぞき込み、その向こうで丸井が顔を強ばらせている。何のことかわからない仁王にしらばっくれるなと小突いてくるクラスメイトを見返すが説明する気がなさそうだ。それでも聞くとばしばし肩を叩かれる。
「とぼけやがって!昨日屋上で彼女といちゃついてたらしいじゃん、テメー女に興味ないふりしやがって」
「何のことじゃ」
「言わすなよ!」
「……あっ!」思わず声を上げると丸井が柳を掴んで逃げるように行ってしまった。さっと血の気が下がる感覚にぞっとする。昨日の昼休み、あのときまだ屋上に誰かいたのだろう。周りなど全く意識していなかった上にそれどころではなかったが、あれは傍目に見ればキスシーンだ。とんだおまけがついてきた。舌打ちをしてクラスメイトを振り払い、丸井を追うが教室に入る前に柳に引き止められる。
「デマじゃないのか」
「……無理やりされただけじゃ」
「それにしてはよくない反応だな」
「さっきまであれがキスやって考えとらんかった。……怒っとる?」
「冷静だ。相当怒ってるな」
「あー……クソ……」
「仁王は最近以前にも増して秘密主義になったようだからな。関係あるのか?」
「……人には言えんことがあってもええじゃろ」
「それは丸井と話し合うことだな」溜息をついてドアに寄りかかる。まさかこんな形で丸井から離れなくてはならないかもしれないとは考えたことがなかった。自分が悪いのではないと思ってみるが後ろめたさは消えず、そっと教室を覗く。丸井は友人を捕まえていつものように笑っていて、どうしようかと再び溜息がこぼれた。
ふたりの関係はテニス部元レギュラーぐらいは知っているがそれ以外には漏らす気もなく、学校にいる間はあくまでクラスメイトとして接している。だから今までにこんなことがなかったわけではないが、今回のはフォローは難しいかもしれない。誰だか知らないが言い逃れのできない場面を見られているのだ。 自業自得か。隙を見せた自分が悪い。
拳を握って丸井を呼ぶと鋭い視線を見せたが、すぐにそれを隠してついてくる。屋上まで行くのももどかしく階段で振り返れば今度は泣き出しそうな顔をしていて、仁王は困ることしかできなかった。「ブン太」
「みんな知ってた。……キスしてたって、どういうつもりだよ」
「ありゃ不可抗力じゃけん、されただけで」
「知ってるやつ?」
「知らんと思う」
「お前は見ず知らずのやつにキスさせるわけ?」
「じゃけん、勝手にされたんじゃ」
「お前……よく平然と俺に会えたな。最近おかしかったのってその女のことなんじゃねえの、こそこそ隠しごとしやがって」
「ブン太」
「……もうやだよ!お前のこと信用しきれない。ほんとか嘘かわかんねえし、俺の気持ちわかってくんねえし」
「違うよ」
「違わねえだろ。……俺しばらく仁王に会えない」きゅっと口を結んでうつむく丸井を見つめる。こうなると丸井は一歩も引かない。卒業まであと少し、このままになってもおかしくないなと妙に冷静に考える。仁王にはこれ以上弁解はできない。丸井は抱きしめてごまかされるようなタイプではないし、何よりしたくない。もしかしたらこんな喧嘩別れのような離れ方の方がいいのかもしれないと頭をよぎり、黙り込んでしまった仁王をちらと見て丸井が顔を歪めた。泣きそうだ。今こんなに抱きしめたいのに。
「わかった」
「……仁王」
「でも俺は何もしとらんし、ブン太以外にはしたくないって知っとって」
「……そうやってッ、大人ぶるからヤなんだよ!」階段を駆け下りた丸井の背中を見送ってその場に座り込む。床の冷たさが薄い布を通して尻に伝わり、濡れたような感じがした。嫌な気分だ。どうして大切にしたいと思っているのに、いつもいつも邪魔が入るのだろう。流行病も戦もないのにこんなことになる。平和で安全な世であるはずなのに、苦しくて辛いことが避けられない。顔を覆って溜息をつく。もう朝から何度目だろう。彼が泣きませんように、その原因が願えることではないかもしれないけれど。