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初めて人のセックスを見たのは中学に上がってからだった。部活が休みだと忘れて家には何も言っておらず、いつもより早い帰宅となった日、両親は共働きでいつもなら家が空になっている時間だった。もしかして偶然が重なることもあるかもしれないと一度家に帰ると鍵は開いていて、神と言うのもなかなか粋なものだと思ったのもわずかのこと。リビングに挨拶へ向かう途中で、足を止めた。廊下にこぼれるのは姉の声だと認識はできたが、まるで苦しんでいるかのような声なのに、そうでないとわかった。知識として知っているだけで、その知識も遠回しな保健の授業や拾った雑誌で得たものだったが、姉が今セックスをしているのだとわかるには十分だった。どうして玄関の靴に気づかなかったのだろう。高校生の姉は贔屓目に見ても整った顔をしていて、彼氏がいるのも知っていた。足音を殺してリビングに近づき、ドアのガラス越しに中を覗くと、ソファーの上で半裸の男女がセックスをしていた。そばにあるのはいつも家族で見ているテレビで、組み敷かれた女の腰のある辺りは姉の定位置だ。大きく開いた足の間で相手の女に腰を打ちつけている男の顔は見えなかったが、背中のほくろが妙に目を引いた。行為に没頭するふたりは弟の帰宅に気づかず、黙って家を出た。そのまま友達のうちへ行きゲームをして帰ってきた。姉は素知らぬ顔でソファーの定位置に座って漫画を読んでいて、こっちを見ずにお帰りと言った。母親が夕食の支度をしていて、父は今日も遅くなるようだ。弟がテレビゲームをしていた。

「姉ちゃん」
「何よ」
「内緒話があるんじゃ」

次の日学校へ行くと隣に座る女子が少し気持ち悪く見えた。何も知らない顔をしている彼女も実は自分が女であることを知っていて、今じゃなくともいつか男に足を開くのだと思うと近づけなかった。だから、恋をすることもないのだろうと思っていた。

「仁王、帰るぜぃ。ぐずぐずすんな」
「……待っといてやったのにそれはないわ」

笑って立ち上がり、鞄を手に取る。提出課題を出しに行った丸井は悪びれもせず立っていた。丸井が好きになったと気づいたとき、女がだめなら男なのかと自分の単純さに笑った。男同士ならば意志が通じてもセックスをすることもないだろう。友達と冷やかしで見たアダルトビデオも気持ち悪いという感想しか抱かせなかった。健康的な丸井に惹かれたのは他の同級生のようにエロとなると盛り上がって騒ぎだしたり、こそこそとセックスをしたと報告をしたりするようなやつではなかったからだ。誰がかわいいという程度の話はすれど、苦手なやつもいるのだとわかっているように巧みにかわして話題をすり替える。丸井といれば女のこともセックスのことも考えなくてよかった。柳生や幸村や、同じようにつき合いやすい相手は他にもいたが、丸井を好きになったと言うのはどういう仕組みなのだろう。誰にも教えられないのに恋愛感情を知っている。人間も結局は動物なのだなと思うのに、セックスだけは納得がいかなかった。まつげの角度やスカートの数センチを気にする女が髪を振り乱し、声を作るのも忘れ、本能だけになっていたあの行為。人間であるはずが、ない。この間出たゲームの話をしながらの帰り道だった。部活を抜け出して発売日にふたりで買いに行ったものだが、丸井がなかなか進まないと言うので笑った。簡単な引っかけにつまづいているようで、教えてやろうか、と冷やかすとむきになって拒否をした。からかいがいがあってかわいい。好きだからからかいたいのかもしれない。初めての恋でわかっていることは丸井が好きだということだけで、気持ちを伝える術も隠し通す術も知らなかった。ふたりで帰るようになってからどれぐらいが経つのだろう。きっかけは丸井の相方に彼女ができたときからだ。あの純情そうな苦労人も、あの苦労人をいたわる優しそうな彼女とセックスをするのかと思うとどこかおかしくて、なんだかちぐはぐに思えた。クソ真面目な真田も、子どもにしか見えない赤也も、いつか誰かとセックスをするのだ。もしかしたらもうしたことがあるのかもしれない。ここはそういう世界だと思っている。隣を歩く丸井も同じことだろう。柔らかい女を抱いて、かわいい顔でグロテスクなことをするのだ。

「なあ、仁王……」
「んー?考え直した?ヒントぐらいやろうか」
「ゲームじゃねえ。あ、あのな……お……お前、優しいじゃん……」
「……丸井やからな」
「そっ……そういうことも言うじゃん、簡単に!」
「だから?」
「……俺、見てたけど、……な、なんか……」
「……優しくするんは丸井だけじゃ」
「な……何で?」

道で立ち尽くしてしまった丸井に合わせて立ち止まり、不安げな、しかし期待を含んだ視線を受ける。態度だけでアピールしていたのは周りに知しらしめたかったからだ。丸井に伝えると同時に近寄るなと脅していたのだ。自分のものにしたいと思ったわけではなかったが、少しでも長い時間一緒にいたいとは思っていた。女が近づく隙を与えたくなかった。

「好きやから」
「それがどういう意味か、聞いてんだよ……」
「丸井が、一番大事」
「……俺も、お前が好きだよ」

ふてくされたような表情でそんなことを言う丸井が愛しいと思った。きっと大事にしてやれる。手を取って歩き出すと丸井は戸惑いながらもついてきて、顔を覗き込むとにやにやしていた。ほんとに?と何度も聞かれた。ほんとに、一番好き。繰り返してつなぐ手に力を込めて、丸井に笑い返した。好きだよ。

「丸井送って帰っていい?」
「何で?女扱いすんなよ」
「もうちょっと一緒にいたいだけ」
「ばっ……は、恥ずかしいこと言いやがって!」

丸井はだめだとは言わなかったので家の前まで一緒に歩いた。ほとんど無言だったけれどつないだ手から伝わる緊張が心地よいほどで、自然と顔が緩んだ。人と気持ちが通じるのは不思議なことだ。他人を思い、思われ、つないだ手から伝わる体温が嬉しい。こんな気持ちになったことはない。丸井に出会って知った感情を大切にすれば、今まで以上に人と前向きに接することができる気がする。満たされた気分で布団に入ったその日は幸せな夢を見た。これが幸せなのだと思って目覚めたときには、もう忘れてしまっていた。つき合いだしたのだからというわけでデートをすることになった。お互い見たいと言っていたアクションコメディを見に行って、劇場全体で笑うような大笑いを経験した。煩わしいのであまり行かない映画館も、隣に丸井がいるだけで姿を変えた。きっと理由はないのだ、それが恋だと思いながら、あのシーンがヤバかった!と興奮した様子の丸井に相づちを返した。

「あのCGヤバかった、笑いすぎて腹イテェ」
「隣で死にそうになっとったな、俺映画より丸井見とる方が笑えたわ」
「映画見ろよ!」
「それより丸井時間大丈夫か?」
「あ、そろそろ帰んないと」

コップに残ったジュースを飲み干し、丸井は携帯で時間を確認した。以前からの約束だったが、今日になってから夕方家にいてほしいと親に言われたようで、予定は切り上げとなった。と言っても映画を見終われば買い物でも、というような予定であったから、帰る時間が早くなっただけの話だ。ファーストフード店を並んで出た。帰る道中も丸井の話は尽きなくて、こんなに長い時間をふたりきりで過ごしたのは初めてだったので驚いた。自分と違う視点から語られる世界が面白くて聞き入った。駅から乗るバスの中で丸井は急に黙り込み、うつむいてしまったのを心配して覗き込んだ。不安げに揺らぐ瞳に動揺した。こんな表情は見たことがなかった。並んで座ったバスの座席は奇妙に柔らかくて、余計に落ち着かなくなる。前の方に人はいたが客の少ないバスは静かで、なぜかどきどきした。

「丸井……?」
「俺、喋りすぎ?」
「なんで?そんなことないよ」
「だって俺ばっかり喋ってる」
「ええのに。俺は丸井の話、聞きたいよ。時間が足りんぐらい」
「ほんとに?」
「うっとおしかったら一緒におらん」

小声で交わす会話が背徳感を抱かせた。前の方に見える男女のふたり組がくすくす笑い合っているのに目を遣ってすぐに丸井を見た。丸井の新しい一面を知るたびに愛おしくなる。もっと喋ってよ、促すと丸井は頷いたが結局口を開かなかった。揺れるバスに合わせて肩がぶつかりあい、なんだかくすぐったかった。丸井の話を聞くのも楽しかったがこうしてふたり並んでいるだけでも得られる満足感にほっとした。家が近くなり、荷物を持ち直す動作が丸井の下車を知らせた。じゃあ、また明日。笑った丸井がいつも通りなのに安心して、言葉を返そうとした口は丸井に塞がれた。一瞬のキスの後押しをするようにバスが揺れて唇が押しつけられ、それからすぐに停車したバスから丸井が飛び降りた。ぼんやりとその姿を見送ると窓の外で手を振る丸井の頬は赤かった。動き出したバスには、気づくと誰もいなかった。柔らかい丸井のキスを思い返して違和感に襲われていた。ずいぶんと呆気ないファーストキスは、何の意味があったのだろう。ささいな疑問はすぐに照れた丸井の表情と差し変わった。かわいかった、考えていてひと駅乗り過ごしたことは丸井にも話せなかった。普段あまり好きだと口にしない丸井の気持ちを伝える術なのだと考えると愛おしくなる。何度となく丸井の表情を思い出して過ごしたその日の残りは興奮して目がさえてしまい、なかなか眠れなかった。人はこうも人を好きになれるものかと驚いた。何度好きだと叫んでも足りない。

「数学とか、なくなればいいのに」

放課後の通学路、真剣な顔をして何を言うかと思えばそんな言葉で、思わず吹き出した。中間テストを控えた丸井の心はすさんでいるようだ。テストを前に数学の教師が大量の課題を出した。その中からテストに出すと言われてはやらないわけにもいかず、丸井はこの間から頭を抱えていたのだ。進度を聞けば小さな声で半分、と呟いてしかめっ面をこっちへ向けてきた。思わず吹き出すと更に眉間のしわが深くなった。かわいい顔が台無しだがそれもまた丸井の魅力だと思った。部活も今日から休みとなり、人通りの多い通学路を思案顔で歩くのは丸井ばかりではない。

「手伝っちゃろうか?」
「えっ!マジで!?」
「俺もうちょいやし、うちでやる?聞きながらやったらテスト勉強にもなるじゃろ」
「マジ?え、今日でもいい?」
「ええよ」
「行く!」

ぱっと笑顔になった丸井は結局数学からは逃げられないということは忘れているのだろうか。俺仁王んち行くの初めて、と言われてそうだろうかと考えた。一度、寝坊した自分を迎えに来たことはあったはずだ。あれは家の前までだったか。

「あー、俺の部屋めっちゃ汚い。狭いし」
「ま、お前の部屋がきれいだとは思わねえよ」
「失礼な。実はきれいなんやから」
「はいはい」

笑いながら向かった家の前で鍵を取り出すと丸井が慌てて袖を引き、どうしたのかと聞き返した。誰もいないの、の答えにあっさり頷いた。以前言ったことがあったような気がしたが忘れたのだろう。

「うち共働きじゃけ。ま、夕方には戻るがの」

丸井を誘った本音はひとりで帰りたくなかったからだ。部活が終わってからの帰宅だと大抵母親は帰ってきている。鍵がかかっていた家に心中で安心しながらドアを開け、中に入った。誰もいないと言ったのにお邪魔します、と言いながら中へ入る丸井は緊張したようすで、きょろきょろとしていた。どうぞ、と促して丸井が靴を脱ぐのを待って部屋へ向かった。階段を上がってすぐの部屋が仁王の部屋だ。厳密には弟とのふたり部屋で、部屋には二段ベッドと勉強机がふたつ。足を踏み入れた丸井はきれいじゃん、と呟いた。単純に、物がないので殺風景なだけだろう。お互いの私物は収納を使って収まる程度にしか持っておらず、部屋の真ん中にテレビとゲーム機が出しっぱなしで置いてあるだけだ。鞄はベッドにでも、と言いながら部屋の隅から折り畳み式のテーブルを取って広げた。そう言えば部屋に友人を入れるのは久しぶりだ。

「数学やっとれ。なんか持って来ちゃる」
「よっしゃ!」

カッターシャツの袖をまくり、気合いを入れた丸井を残して部屋を出た。台所でジュースとスナック菓子を見つけ、それらを抱えて部屋に戻った頃には丸井はテーブルに伏せていた。たった数分でこの通りでは、なかなか進まないのも納得できる。お腹がすいて力が出ない、恨めしげな声を出す丸井を笑って菓子をぶつけてやった。顔を上げるとそれを拾うなり封を開けた丸井の姿に声を上げて笑ってしまった。食べ物を与えると大人しくなる子どもだったのだろうと容易に想像がついた。そのせいで今もぷくぷくとしているに違いないと確信した。

「食べたらやろな」
「はーい先生。……お前漫画とかなんもないわけ」
「本はベッドの下。服は机の横」
「あ、ほんとだ。物少ないのな」
「俺あんま物欲ないけんのー。いらんくなったらあげるし捨てるし。欲しいっちゅうんが、よくわからん」
「ふうん……」

バリバリと食べる菓子の欠片がプリントに飛んだのか、やべえ油、と慌ててテーブルから下ろした。ペットボトルからジュースを注いで渡してやると素直に受け取り、じっと見てきた。丸井は時々こうして人の顔を覗き込む。もしかしたらいまいち信用してもらえていないのかもしれない。

「そんなにええ男?」
「言ってろ」
「冷たいのう」
「……女子が、仁王くんって何考えてるかわかんないところがミステリアスで素敵!って言ってた」
「ふん、それで?」
「で?」
「……仁王くんはずっと丸井くんのことを考えてますよ」
「例えばどんな?」
「大会始まる前にまたデートしたいな、とか」
「……ま、テスト終わったらだな」
「その前に課題な」
「わかってらァ」

話をしながらスナック菓子の袋を空にして、さあ、とふたりでプリントの束を広げる。冊子ではなく10枚ほどのプリントがホッチキスで留めてある物だが、それもB4サイズとなれば相当な量だ。夏休みの宿題じゃあるまいし、と笑ったが、丸井には笑い事ではないようだ。残りは2枚だと言うと睨まれた。怒っても仕方ないだろうと言ってみても丸井の表情は変わらなくて、諦めてプリントを開いた。始めてしまえば丸井は黙々と進めていき、意外と集中力を見せた。誰かといる方が集中しやすいのかもしれない。丸井を手伝いながら自分のを終わらせてしまい、手持ちぶさたになって丸井の手元を覗き込んだ。隣に回って座ると丸井が顔を上げ、じっと見てくるので首を傾げた。

「何?」
「いや……」
「手ェ止まっとる。わからんの?」
「あ、うん……」
「このプリント単元ごっちゃやからの、でもグラフさっきやったじゃろ。放物線がずれとるだけじゃ」
「ん?あー、これか」
「そう、そしたら交点がここやから」
「うん」

プリントを指さした手を掴まれて丸井の顔を見た。思いがけず近くにいて体を引くと、しっとりとした手に力がこもった。真剣な瞳に映る自分が見えるほどの近さで、彼の瞳が何を見ているのか探っている間にまぶたが閉じられ、唇が重なった。あたたかいぬくもりが手から唇から伝わってきた。二度目のキスだと気づいたのは丸井が離れてからだった。赤い顔で睨んでくるのは、間抜けな顔をしていたからだろう。ぽかんと口を開けているとばか、といつもよりは控えめな声が聞こえた。丸井の口からこぼれる声が聞いたことのない色を持っていた。それがどういう感情なのかわからず、何と返せばいいのかわからなかった。

「なんだよそのリアクション」
「や、びっくりしたんじゃ」
「お前をびっくりさせられたなら満足だよ」

あきれたような溜息を聞いて更に困惑した。乾いた唇に目がいった。階段をのぼる足音が聞こえてきて丸井が手を離した。ノックの後返事を待たずにドアを開けたのは母親で、あらこんにちは、と気の抜けた挨拶をした。

「お邪魔してます」
「いらっしゃい、お久しぶり。丸井くんご飯食べていかない?」
「え?」
「職場で余ったオードブル押しつけられてきたんだけど、うちの子たち少食だから困ってたのよ」
「げ、晩飯またあれか。こてーっとした」
「ね、この通りよ。お願いだから食べていって」
「あ、じゃあ遠慮なく」
「ありがとう、助かるわ。……勉強してんの?珍しいわね」
「うっさいのー、テスト前ってゆったろ。思春期の男の部屋勝手に入るなや」

はいはいと適当に答えながら母親は部屋を出て行った。突然のことに驚きはしたようだが、丸井はすぐに携帯を取り出して家に連絡した。お前も携帯買えば、とついでにふられて困った。

「別にいらんじゃろ」
「丸井くんがメール送ってやるよ」
「俺は本人がおればええよ」

プリントの残りを確認しながら何気なく答えた。黙り込んだ丸井が気になってそっちを見ると、すぐに視線に気づき、何でもない、と首を振った。しつこいのは嫌うのでそれ以上追求はしなかった。プリント終わらせちゃうから手伝えよ、と言うので姿勢を直した。写させろと言わない彼の生真面目さが好きだと思った。ふざけているように見えても根は真面目で、少々騒がしいのと自信たっぷりの性格で丸井が苦手な人もいるようだが、彼の友人は多い。テニス部に入ってから真面目系と付き合うコツがわかった、などと言っていたが、確かにあの濃いメンツと過ごしていれば大抵の人間と関わっていけるだろう。プリントを少しずつやるうちに夜になり、帰ってこない姉といつも遅い父親をおいて夕食を囲んだ。彩り鮮やかなテーブルに食欲が失われていった。鮮やかなレタスの緑やトマトの赤、卵焼きの黄色と並ぶ食卓は食べ物に見えない。油のしみた揚げ物も食欲を減退させるばかりで、インスタントのお吸い物をすすりながら丸井を見るが、目を輝かせて口に箸を運んでいった。その食べっぷりに母親も弟も唖然とするほどだったが、これでも遠慮しているとわかっていた。あとで腹減った、と言い出しかねない。食後の後片付けを手伝っている間、丸井を部屋に遣っていたら、戻ったときには二段ベッドの下段に転がって眠ってしまっていた。幸せそうな寝顔を見ると起こすのも忍びなく、マナーモードにされた丸井の携帯が机の上で振動してとっさに取り上げた。サブディスプレイに浮かぶ文字は「家」で、少し迷って丸井を見た。時間を見ればもう9時で、勝手にだったが電話に出た。

『ブン太!?』
「すいません、仁王です。こんばんは」
『あら、こんばんは。ブン太は?』
「今寝ちゃってて、疲れてるみたいやしこのまんまでもいいですよ」
『大丈夫よ、起こしちゃって』

話しながら丸井を見た。夢でも見ているのか口元が緩んでいて、思わずこっちも笑ってしまった。頭を撫でて、体に任せて喋った。

「一緒にテスト勉強しとって、俺ちょっと聞きたいとこもあるんです。大事な長男やと思いますけど一晩借りても構いませんか」
『まあ……ご迷惑じゃないなら』
「ありがとうございます。無傷でお返ししますので」
『ちょっとぐらい傷つけても平気よ』

丸井同様に明るい性格の彼女とは何度か会ったことがある。友人の母親という繋がりにしては親しく話せる方だと思う。通話を終えて改めて丸井を見るが起きそうな様子はなかった。母親に丸井を泊めると伝えるついでにさっとシャワーを浴びて戻ったが、丸井はまだ眠ったままだった。よく寝るなと感心して覗き込み、制服のままだと気づいた。さすがにスラックスまでははばかられるが、ブレザーぐらいは、と体を転がして脱がせてやった。ネクタイを外して手をかけたところで丸井が唸り、ぱちりと目を開けたので真っ正面から視線がぶつかった。え?と小さな声を漏らす丸井におはよう、と告げると突き飛ばされた。尤も、寝たままの丸井から大した力が加わったわけではなかったが、その意志に従って体を離した。

「何してんだよ!」
「制服のまま寝てしわになったら困るじゃろ」
「制服なんか……え?」

寝ぼけているのかじっと自分や部屋を見回している丸井にパジャマ代わりになる服を出してやる。風呂空いとるよ、と告げると更に視線が泳いだ。

「な……」
「あ、すまん、忘れとった。丸井が寝とる間に丸井ん家から電話あったんじゃ。数学終わっとらんし俺も古典聞きたかったし、泊めるって言ったんじゃけど。どうしても帰りたいんやったらええよ」
「え?あ、ああ……うん……」
「寝ぼけとるな」
「……そう、かも……」
「風呂行ってすっきりしておいで。あとちょっとやし数学しちゃお」
「うん」

丸井を見送り、その間に客用の布団を運んできた。机があるので広げずにおいて、ふと思い出して下でテレビを見ている弟に聞くと下で寝る、と返ってきた。少しばかり人見知りであるので、話ぐらいはできるようになっても同じ部屋で寝るには抵抗があったのだろう。そうしている間に丸井が戻ってきたので一緒に部屋へ戻った。

「なんか俺すげー真面目。こんなに勉強したことねえ」
「そうなん?天才肌やの」
「……お前は?」
「テスト前はちゃんとするよ」
「……お前さ、いっつも順位……」
「……勉強してアレじゃ、悪かったな。今回は丸井先生がついとるからええの」
「調子いいなあ」

笑いながらも丸井はプリントの続きを開き、時々古典を手伝ってもらいながらほとんど終わらせてしまった。終わりきらなかったのは丸井がうとうとし始めたからで、テストまではまだ時間はあるので今日は寝ることにした。布団を敷こうと机を寄せている間にも丸井は眠りに落ちそうになっていた。軽く頬を叩いて名前を呼ぶが、首に腕を回してしがみつかれた。仕方なくどうにか抱き上げ、ベッドにおろすとぼんやりとした目で見上げてきた。

「仁王……」
「布団敷くから待っとり。手ェ離して」
「やだ……」
「でっかい赤ちゃんじゃ」
「いっ……一緒に、寝て」
「狭いよ?」
「くっついてろ」
「わがままなぼっちゃんじゃのー。じゃあ電気だけ消させて」

そっと丸井の手を引いて首から離した。電気を消して戻るとベッドの壁側で小さくなっていて、その隣に入ってベッドの狭さを笑った。両側に柵があるので落ちはしないだろうが、手足をぶつけそうだ。もぞもぞと寄ってきた丸井に抱きしめられて、誰かと並んで寝るのはいつぶりだろうかと考えた。怖い話やテレビ番組のせいで眠れなくなった弟と一緒に寝たことはあるが、あれは本当に幼い頃だ。

「狭くない?」
「……あったかい」
「そう、おやすみ」
「……おやすみ」

体温を抱きしめて眠った。わがままな丸井は時々何を考えているのかわからないが、これぐらいならお安いご用だ。久しぶりにじっくり眠った。日頃眠りは深くなく、なかなか寝つけずに睡眠時間も短くなっていたが、この日はあたたかかったせいか寝心地がよかった。程よい人の体温がこんなにも気持ちいいとは知らなかった。これは一緒にいるのが丸井だからだったのだろうか。抱きしめた彼は自分と同じシャンプーの匂いがして、幸福感に満たされていた。朝は丸井より先に目覚めて、ちょうどいい時間でほっとした。彼まで遅刻させるわけにはいかない。よく眠ったせいかすっきりとした目覚めで、丸井といると自分が変わっていくのがわかった。視野が、世界が広がるというのか。隣で規則正しい寝息を立てている丸井を見ていると自然と笑みが浮かんだ。

「丸井、朝」
「んー……」
「おはよう」
「……仁王?あー……そっか、泊まって……」
「また寝ぼけちょる」
「朝?」
「そ、金曜の朝!支度しよ。一旦家帰るか?」
「……いや、教科書学校だし」
「じゃあシャツ貸したるよ。顔洗お」

起こして支度をし、朝食も一緒にしているとなんだか楽しくなってきた。何にやけてんだよ、少しサイズの合わないシャツに袖を通す丸井がしかめっ面を向けてきて、そんなことも嬉しく思った。

「何だよ!」
「こんなに長いこと、一緒におったん初めてやね」
「……だな」

丸井が困ったような顔をした。どういう意味かわからずに聞こうとしたが、今日あちーな、と笑うので頷いた。ブレザー置いていっていい?丸井の言葉を断るはずがなかった。それは、帰りに丸井が取りに来ると言うことだ。ふたりで一緒に登校したのは初めてで、感じた違和感を考えなかった。それからまもなく始まったテストではお互い好成績を出し、驚く教師ににやにやしてしまうとカンニングかと疑われてしまった。やりそうだもんな、と丸井にまで言われた。

 

 

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