※別れます。

1

 

頼まれていたものは卵だけだっただろうか。ビニール袋に入った卵をぶら下げて歩きながら思い返す。忘れているものがあればまたうるさいだろうが、何にせよ財布には卵代しか入っていなかったのだから仕方ない。首の後ろを手で覆い、まぶしい日差しに目を細めた。夕方とはいえまだ気温は高い。
また憂鬱な夏が来た。口ではそう言うが、実のところそんなに憂鬱ではない。夏の暑さに弱いのは事実だ。電車に乗ろうと駅に向かいかけたが人いきれに顔をしかめ、きびすを返して歩き出す。少しずつ風も涼しくなってきている。どうせ暇なのだ、時間がかかっても構わない。 うなぎ、とのぼりが目について歩みが遅くなる。そういえば丸井がうなぎが食べたいと騒いでいたか。食べに行こうと言っていたが、手近のファミレスでごまかしてしまおうか。夏場の遠出は好ましくない。テニスをしていた頃は炎天下で走り回っていたというのに、大学へ進学してラケットを手放した途端ひ弱になってしまった。
中途半端な時間であるせいか店内は空いているようだ。日影を選んで歩き出し、スタッフオンリーの掲げられたドアの前を通ったとき隠れるようにしているふたりを横目で見つけ、邪魔をしてしまったな、と思った瞬間に足が止まった。背中を汗が流れていく。くらりとめまいがしたのは暑さのせいだろうか。今は髪を黒く染めていても、見間違えはしない後ろ姿。寄りかかってしまいたいその背中を、白い女の手が這っている。ファミレスの制服。その女を引き寄せた男は、キスを落した。
ついに、見てしまった。

カラスが鳴いて肩を震わせ、すぐにその場を離れた。わき目も降らず早足で家に帰る。ポケットの鍵を握り締めた。仁王の体温の移った鍵は、いつからか宝のように思っていた。不安に襲われたときに握って自分に言い聞かせていた。そんなはずはない、と。
マンションの部屋についた頃にはもう日は沈んでいて、無意識にリビングの電気をつけて立ち尽くした。履歴書が広がるテーブルに証明写真を見つけて見入る。一緒にふざけて笑って、テニスをしていた頃とは違うのだ。それでも、つながっていたのに。
部屋に向かう途中にごみ箱を蹴った。そのままにしてベッドに倒れこむ。ポケットの財布が邪魔で引き抜いて、いつの間にか卵が消えていることに気づいた。もうどうでもいい。 丸井だった。高校卒業の頃から、ずっと、一緒にいた丸井だ。一緒に暮らし始めて、いつの間にかあと半年で卒業だ。……兆候はあったのだ。ただ考えたくなかっただけで。ゆっくり息を吐くと喉が震える。泣いてしまいそうだ。泣くことも、怒ることも、簡単にできる。選択するかどうかだ。
ドアの音に肩を震わせる。こんな思いをするなんて思ってもいなかった。

「二オー!おいコラ、また鍵開いてたぞ!」

かっと体中を血が巡った。怒りなのか悲しみなのかわからない感情が体の中を渦巻いて、シーツに顔を押しつける。あの男を、誰にも渡したくない。
ノックに応えずにいると丸井が入ってくるのはいつものことで、そのままの姿勢で待つ。

「仁王、おーい。飯食った?」

耳元でにおう、と呼ばれて身じろいだ。この声で、他の誰に愛を囁いたのだろう。このままごまかしたかったが丸井の手が腰を這い、スウェットを脱がそうとするので半身を起こして頭を叩く。

「何しとんの」
「ただいま」
「おかえり」
「なあ、卵買ってきてくれた?親子丼しようぜ」
「すまん忘れた」
「ハァー?意味わかんねー!卵がなきゃ親子丼できねーだろ!」
「ごめんちゃい」

怖くて顔が見れない。尻を叩かれてもそのままでいるとそばで溜息をつかれた。この間に心を決めなくてはいけない。――自分を裏切った、この男を、どうするか。今は食べることで頭がいっぱいのはずの丸井をごまかすことは簡単だ。問い詰めてやればどんな顔をするのだろう。怖い、だなんて、久しぶりに感じる。……問い詰めたら、どちらを選ぶのだろう。こんな敗北感はない。

「ブン太、俺食欲ないけん、ええ」
「えー?……お前もしかしてしんどいの?」
「ちょっと」
「先に言えよ。顔見せろ」
「いやじゃ」
「ばか、いいから」

無理に体を押してくるので仕方なく顔を向けた。首筋や額を触られて、その体温に体が熱くなる気がする。その手でさっきまで誰を抱いていたのか。こんな醜い嫉妬をする自分が嫌になる。そんなに多くを求めてはいないのに。

「今日学校行った?」
「バイトも行った」
「昼飯は?食った?」
「食ったよ。ちょっと帰りに、電車に酔っただけじゃ。香水つけすぎの女がおって」
「そうめんとかなら食える?お前夏場食わねえとあっという間に体重減るんだから」
「ブン太」
「何?食いたいもんある?」
「抱っこして」

思わず口に出して、丸井が吹き出して安堵する。手を伸ばすとそのまま抱きしめられ、落ち着こうと静かに呼吸をした。

「そうめん茹でてやるよ、梅干添えて。それまで寝てな」
「食ったら一緒に寝てくれる?」
「21にもなって甘えてんじゃねーよ。しょうがねえやつだな」

明るい笑い声をあげながら、丸井は肩を叩いて離れていく。額を撫でて部屋を出て行った丸井の後ろ姿を見送った。毎年の夏と同じように、ばてているだけだと信じたようだ。気づいてもらえないことに腹が立つ。そんなに女がいいのか。態度が変わっていないから仁王を嫌いになったわけではないのだろう。それはあまりにも、残酷だ。冷却シートを手に丸井が戻ってくる。子ども扱いされている気になって顔をしかめた。

「雅治ちゃんもう少し待っててくだちゃいねー」
「ブンちゃん」
「なあに、雅治ちゃん」
「大好き」
「俺もだよ」

どんな気持ちで、ためらいもせず好きだというのだろう。あの女には何度言った?どうして口説いた?そんなこと知りたくもないのに。
丸井が出て行ってから枕元の携帯を見る。もうしばらく何の役にも立っていない。メールが来ても友人からなら返事を後回しにして忘れてしまうことが多いので、元々コミュニケーションツールとして機能していなかった。着信も発信も丸井相手ばかりだ。それは本当に、今から帰るだとか、少し遅れるだとか、ささいなものではあった。まめにあった連絡も今は日付が開いている。電源を切ってクローゼットにしまいこんだ。もう用はない。悲しくなるだけなら見たくない。入学式前に、丸井と買いに行った携帯だ。

「できたぞー。気分は?」
「ましにはなった。ありがと」
「いえいえ」

ベッドに戻ると同時に、丸井が食事を持って戻ってくる。一緒にそばで食べる丸井を見るが、ただのそうめんでもおいしそうに食べるものだ。仁王は味がよくわからない。

「今日暑かったもんな。お前長袖だし」
「そうやのー。難しいわ」
「ま、俺は結構好きだけど?弱ってる仁王」
「ドSじゃのう」
「ドMのくせに」
「ひどいわ。……ブンちゃんにしか、許さんよ」
「愛されてんね」

笑う丸井に口元だけで笑い返す。食器を重なるのを見て、行ってしまうのかと思わず手が出た。皿は床に置かれ、自分の手をとった仁王を見て丸井は笑う。こんなに弱くなってしまったのは、丸井のせいだ。飼い慣らされたといってもいい。つないだ手の指先に丸井の唇が触れて、顔は無意識に笑ってしまった。それで誘ってるつもりか。バイト中の彼女の代わりに、仁王とセックスをしようというのか。

「シャワー浴びてきちゃえよ。片付ける」
「そうする」

大人しくベッドを抜けて風呂へ向かう。温いお湯を頭から被り、徐々に温度を下げる。冷静になれ、言い聞かせながら整理する。ずっと前からわかってたことだろ?認めなかったのはお前じゃないか。いつか泣きを見ると知っていたのに。心を決めろ、今すぐに。曖昧な態度は許されない。甘んじるか、問い詰めるか。俺は――仁王雅治だ。
風呂から出ると丸井はパソコンの前に座っていた。まだ就職活動を続けている丸井は明日も出かけると言ったから下調べだろう。仁王は面倒くさくなってバイト先にそのまま潜り込ませてもらうことにした。いなくなられては困る、と言われるほどには仕事をしてきている。冷蔵庫からビールをひと缶取り出し、一口流し込みながらそばへ向かう。丸井に差し出すと素直に受け取った。

「な、ブンちゃん、旅行行かん?テスト終わったら」
「旅行?どこにぃ。俺金ねーよ」
「出しちゃるって。海外とかええなー」
「パスポート持ってねー」
「じゃあ沖縄。1ヶ月ぐらい」
「優雅ーッ!お前そんな金持ってんの?」
「ブン太とふたりで、どっか行きたい」
「そんなんうちでも一緒じゃん」
「いやじゃ。すぐ赤也がおしかけてくるけん」
「旅行ねー、考えとくけど」
「嫌?」
「そうじゃねーけど、いいな、1ヶ月も旅行とかしてみたい」

してみたい、といいながら、本気にしていないことはわかった。どうせ丸井のことだから、女の方にも仁王の話はしていないだろう。慣れない詐欺はするものじゃない。隠せばいいだけではないのだ。隣に椅子を持ってきて一緒にパソコンを覗き込む。ビールを往復させながら、戯れに旅行会社のホームページを開いたりした。 久しぶりにこんな近くにいる。思わず交わしたキスから本気になり、そのままなし崩し、いつものパターン。それでも、胸が痛い。涙を流さないように息を止める。

「――仁王?」

不思議そうな丸井の声には応えなかった。この体に触れた女がいる。この男は他の女を抱いている。誰に怒りを抱いているのかわからないまま、体の中を感情が渦巻いた。

 

 

*

 

 

「うんごめんマジで、今度埋め合わせするわ」
『大丈夫なの?行こうか?』
「いいよ、ルームメイトが看病してくれてる。いつもと逆だから張り切ってんだ――じゃあまた連絡するから」

部屋に入る前に笑って正解だった。わざとらしいほどにこにこ笑ってやると丸井の体の力が抜けたのがわかる。この男は仁王が携帯の履歴を見たらどうするつもりなのだろう。そんなことはしないが、クローゼットに入れたままの携帯を思い出した。丸井は何も言ってこない。笑いながらそばに寄るとにらまれる。

「テメー嬉しそうだな」
「ブンちゃんの気持ちがわかったわ。弱ってるブンちゃんかわいい」
「あーもー夏風邪とか!この俺が!」
「疲れとったんじゃろ」

叫んだせいか咳が出て、ほらほら、と促して寝かせた。丸井が病気をしているのを見るの初めてかもしれない。中学高校は皆勤賞だった男は大学へ進学してからも、動けないほどの熱を出したことはなかった。始めは予定があると家を出ようとしていたが、あまりにもふらつくので止める前に諦めていた。どうせデートだろう。服装を見ればなんとなくわかる。

「用事は大丈夫?休めたん?」
「ああ、バイトの集まりだし。どう考えても出れねえしな。だりー」
「今うどん煮とるけん、待っててな」
「うん」
「ふふ、かわええな。就活終わっとってよかったね」

撫でつけるように髪を撫でて、普段見ない光景に他のことを忘れていた。このときだけ感じた幸福感は、確かだと思う。子ども扱いするなと怒られるかと思ったが、大人しいのでしばらくそうしていた。もう、この時間は戻ってこないのだと噛み締めて。
作りかけの食事を思い出して部屋を出る。経験上知っているが夏風邪はつらい。そうでなくとも暑さに弱いのに体まで熱くなられてはたまらない。仁王はそう思うが丸井はそうつらいわけではなさそうで、粥でもと聞けばうどんがいいとリクエストしてきた。最近は少し涼しいからいいかもしれない。うどんはふた玉買っていたが、食欲がなくて丸井の分だけにする。丸井に教えてもらったうどんのだしは、いつ覚えたのだろう。これだけは間違いなく自分の中に残るのだろう。離れることになっても。最近そんなことばかりを考えてうっとうしい。
適当に火を止めて、盆に乗せて部屋に運んだ。体を起こした丸井の膝に盆ごと置いてやる。

「いただきます!」
「よう食欲あるね」
「俺から食欲取ったら何が残るんだよ」
「自分で言っとる」
「お前は?」
「後で食う」
「お前こそ風邪ひかねーように気をつけろよ、最近またやせたんじゃねえの?」
「夏やけん、いつものことじゃろ」

今年いつもより暑いし、開いた口にかまぼこが差し出されたので大人しく食べた。最近本当に食べていない。食べ物を受けつけない。少しずつでも食べるようにしているが、あまり栄養のなさそうなものばかりになってしまう。完全に夏バテだ。少し食べても戻してしまうことが続いた。

「……何にやにやしてんだよ」
「ブンちゃんがおるのが嬉しい」
「あのなー」
「わかっとるよ、つき合いも大変やね」
「そういや、お前今日バイトは?」
「休みになっとった。新人入って研修しとるけん、調整」
「そっか」

本当は休みをもらった。面倒だから自分が風をひいたということにして、またか、と呆れられただけだった。来年からは風邪だろうが出てきてもらうかなと脅されてしまい、笑い飛ばしたのはほんの数時間前だ。
さっさと食べ終えてしまったので器を回収し、代わりに薬を取って戻ってくる。以前仁王のために丸井が買ってきた薬を丸井が飲むことになる日が来るとは思わなかった。

「寝る?」
「んー、あんま眠くはねーんだけど」
「添い寝しちゃろか」
「アホか」
「いやいや、うつせば治るって」
「んでお前にうつったら俺が看病するんだろ」
「ええね。わかっとる」
「めんどくせえよ」

いつものふざけた調子に笑い返す。世話焼きすぎるこの男がダウンしている自分を放っておいたことはほとんどない。切羽詰ったテスト前ぐらいじゃなかろうか。 丸井の表情に、いつも通り笑えなかったのだな、とわかる。しょうがねえな、とベッドに誘われたので、素直に隣におさまった。仁王が何かを抱えていることぐらいはわかったのかもしれない。それでも女のことを思い当たらないこの頭が平和だと思う。擦り寄ると抱きしめられて、どっちが病人だかわからない。何度こうして寝ただろう。
そばで携帯が鳴った瞬間には丸井の手はそれを取っていた。一瞬だけ目で追ってしまってすぐに反らす。気づかれなかっただろうか。メールを打つ丸井を意識しないように、このまま寝てしまおうと体勢を変えるが、今日はなんとなくおさまりが悪い。少し体を上げて、逆に丸井の頭を抱くように動いた。一瞬見えたメール送信完了、の画面。

「終わった?」

返事を待たずにすっと手のひらから小さな機械を抜き取る。投げ捨ててやりたくなりながらそっと閉じて、元の場所へ戻した。電波でさえも繋がらないほど、丸井は今女に傾いている。
改めて丸井の腕が背中に回り、熱い体を抱きしめる。しばらくセックスをしていない。裸になって本能をむき出しにして向き合うと本音ばかりが飛び出しそうで、自分の本音もわかっていないのが怖くてできなかった。元々セックスは好きだから時間や余裕を見て仕掛けていたのは仁王だから、少し怪しまれているかもしれない。それでも、体力的にもセックスをする気にはなれなかった。女の影がちらつく。

以前バイト先の先輩がプロポーズの言葉を考えていた。ずっと丸井と一緒にいるつもりだった仁王にとっては目から鱗の問題で、アドバイスにならないアドバイスをした気がする。結婚、の言葉は大学の友人の間でも出てくる言葉で、それなのに全く考えたことがなかった。最近ようやく意味がわかる。丸井は誰かと結婚をするつもりなのだ。それは今つき合っている相手とは限らないが、丸井の考えはわかる。 妥協した、と言いながら丸井は就職先を決めた。仁王よりはよっぽど真面目に活動し、そこそこ知名度のある会社に思えたが、友達に微妙な顔をされたと言っていたのは、もしかしたら彼女のことだったのかもしれない。
ずっとあの頃のままでいられないことが、こんなにつらいなんて考えたことがなかった。

「……ブン太」
「何?」
「風邪治ったら、テニス行かん?こないだ幸村に会って、誘われたんじゃ」
「あ、幸村くん帰ってきてるんだっけ。いいな、久しぶりにあの頃のメンバーで集まれたら楽しいのに」
「声かけてみるぜよ。柳生は就活も無縁やし」
「あー、医大は6年か。いいなー」
「なんで?」
「大学生ってまだまだ子どもっつーかさあ、違うじゃんやっぱ、学生と社会人って」
「そうかのう……」

そうやね。声は震えなかっただろうか。丸井は出て行くつもりだ。このふたりだけの時間から。

「仁王」
「なんか寝っ転がってたら眠くなってきた」
「……お前最近寝てなかったみたいだしな。寝ようぜ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ、マイハニー」
「なんだそれ」

笑う丸井が好きだと思える間は、できるだけ笑わせたい。丸井の表情に安心して目を閉じた。

 

 

*

 

 

病院に行けとバイト先から放り出された。正確には病院前でタクシーから下ろされた。何だかんだで付き合いの長いまだ若い社長は、丸井よりよっぽどさとい。少し食べても戻してしまうことが続いたとバイト先でうっかり漏らしたのがまずかった。結局はストレスですね、なんて意味のわからない結果だった。何がストレスだ。妙にさわやかな医者の顔を思い出す。 ストレスだと言いながらなぜか出された処方箋は丸めて捨てて、病院を出ると丸井の大学の近くだと思い出す。今日は確か午前中で授業が終わるはずだ。バイトがあるにしても一度は家に帰るはずだから、一緒に帰れるかもしれない。大学と言うのは都合のいい場所で、部外者だろうが平然と門を潜り抜けることができる。
以前にもついてきたことのある大学の記憶を辿り、丸井が普段使うという棟へ行ってみるとタイミングよく友人と話しているのを見つけた。くらり、とめまいがしたのは、夏の日差しのせいだと思いたい。就職活動が終わって少しだけ茶色くなった髪、その隣に女がいる。

「何食いたい?」
「もうブン太に任せる。熱いものじゃなかったらいいよ。あーあ、バイトめんどうだなー」
「まー頑張って働いてこいよ」
「ブン太のご飯久しぶりだから楽しみ」

自分の目立つ頭を思い出して、丸井に見つかる前に逃げ出した。早足で門へ向かう首筋を太陽が焼く。背中を流れる汗が不愉快だった。キスよりも、セックスよりも、よっぽどショックだった。くらくらする頭を持て余して、目についたバス停に逃げ込む。涼しさもないが、影になるだけましだ。ベンチに座り込んで頭を落す。 丸井にとって食は重要だ。中学の頃から付き合ってきて、面倒になるほどよく知っている。
込み上げた吐き気は抑えて、病院で出された処方箋は一体何の薬だったのかと考えた。しばらくじっとしているとヒールの足音が目の前を通って行く。何気なく顔を上げれば、さっき見た白いスカートが目に焼きついた。バスの時間を見て、仁王の視線に気づいてすぐにそらす。この、女が。仁王のことは口頭でも写真でも知らないのだろう。自分以外に白い髪の男など見たことがないから、聞いていればわかるはずだ。 ぐらりと肩が揺れて顔をしかめる。できるだけ深く呼吸をし、病院へ戻ろうか迷う。

「……大丈夫ですか?」

顔を上げると女がいる。水滴の浮いたペットボトルを差し出されて、何かわからずにいるとどうぞ、と渡された。丸井の好きそうな女だ。

「……どうも」
「熱中症かも」

バスが滑り込んできて、振り返られたが首を振る。気をつけて、と声をかけてバスに乗り込む後ろ姿は、できれば二度と見たくなかった。受け取ったスポーツドリンクのペットボトルを眺めて、そのまま車道に投げてしまう。そばに自動販売機があったが、自分で買う気にもなれなかった。どうしようか迷っている間にひとりで門を出てくる丸井の姿を見つけ、額の汗をぬぐって立ち上がる。

「ブーンちゃん!」

近づいて行くと目を丸くして、足を止めて戸惑っている。その動揺の裏で何を考えているのだろう。

「えっ……何してんの?」
「バイトでこの辺来とって、終わったら解散になったから迎えに。今日早い日やったしなあと思って」
「あー、うん、なんだびっくりした。メールぐらい入れろよ」
「驚かせたかったんじゃ。帰ろ」

笑いかけて手を取ると顔をしかめて振り払われた。先に歩き出しながら丸井が携帯を取り出し、勝利を確信する。

「お前ね、学校の前なんだから」
「もー今更えーやないの」
「よくねーよ。最後だからこそ、俺は穏便に過ごしてえの」
「そんなもん?な、歩いて帰ろう」
「お前大丈夫か?倒れる前に言えよ」
「うん。しばらくデート、しとらんね」
「そうだな。忙しかったし」

しばらく歩くが少しつらい。街路樹の影を選びながら歩く。自分がしていることが馬鹿らしく思えてきて、もうさっさと蹴りをつけてしまおうか迷った。このまま、別れ話をしてやれば、楽になるのだろうか?

「な、旅行、どこ行く?」
「は?……ああ、え、あれマジだったの?」
「冗談のつもりやったん?さすがに1ヶ月は無理でも、行きたいよ」
「だから俺金ねーって」
「えーよ、出す。俺が、ブン太とどっか行きたいの。手ぇつないで歩けるとこに」
「えー……どこがいいの。北の方がいいんじゃね?」
「……おれの、ばーちゃんち行く?」
「あ?それみんなお前みたいに話すの?」
「そう」
「ははっ、面白そうだな」
「なんもない田舎じゃけど。行く?」
「考えとくよ。テニスもしたいしなー」

本当に何もない田舎を思い出す。コンビニへ行くのも一苦労の、あの田舎に、丸井となら住める気がした。あそこでならきっと家族になれる。家族に、なりたわけじゃなかった。ずっと一番大切な、恋人でいたかった。それが一番心地いい。
丸井が一緒に家に帰ることを選択したのがわかり、少し気分がよくて鼻歌を歌ってしまう。しかし体調は悪い。いつまでごまかせるのだろう。タイルをつき破って伸びている木の根につまずいてよろけると、丸井が手を取った。それが妙に嬉しくて、顔を緩めて丸井を見る。

「あかんしんどい」
「アホー、早く言え!スタバ発見」
「もうちょっと頑張る、タリーズ行こ」
「は?好きだっけ?」
「ブン太が」
「……んなこといーんだよ。いいから俺にフラペチーノを奢れ」
「……ははっ、好きよ、そういうとこ」

本当に。 繋いだままだった手を自動ドアの前で離して、クーラーの効いた店内に足を踏み入れた。それだけで十分ありがたい。丸井を待たせてレジに向かい、リクエストされたものを一緒に頼む。
今はまだ、彼女より大事にされていると思ってもいいのだろうか。どんなに醜い感情が胸を占めても、丸井を好きだという思いが変わらないのが不思議でならなかった。自分のことだというのにさっぱりわからない。 いつも何かが終わるのは夏なのかもしれない。仁王にとって大切なものは、この弱っているときに離れていく。趣味でやるといいながら結局触れていないテニスを思い出した。

 

 

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