※弱い犬ほど良く吠えるの続き
絵に描いた餅
「丸井、今日はまだ帰らないのか」
「……あのさあ、今日俺に鍵閉めさせてよ」
「何?」単純に驚きを浮かべた真田を見て、仁王を振り返る。だらだらと着替えていた彼はまだカッターシャツのボタンを留めている途中だ。こっちを見ることもしないが聞こえているだろう。
「俺仁王とふたりで話がしたいんだ。ちゃんと戸締まりして鍵閉めとくし」
「……構わんが」
「じゃあ置いといてよ。……仁王、いいだろ?」
「ああ、どうせ放課後は暇じゃ」用意されたセリフを読むような、白々しい会話だった。真田から視線を外してネクタイを締める。机に置かれた鍵はコトリと音を立てたきり沈黙していた。──それぞれが互いの腹の内を知っている。口にはしないだけでそれぞれの思いを知っている。はっきりしないこの感じが嫌でも、丸井がこの場で声を上げることはできなかった。
最後にキャップを被り直し、では頼んだ、と真田が出ていく後ろ姿を、仁王と見送った。どろりと濁ったような仁王の目は丸井を憂鬱にさせる。好きな人とふたりきりだというのに。もう結末は見えているような気がして更に気分が沈んだ。ネクタイを締めすぎたのか少し息苦しい。こんな気分の時でも、告白する前は緊張するのだと驚いた。「話ってなんなん?」
ネクタイを首に巻いてもてあそびながら、仁王がやっとこっちを見た。面白がっているようにも見える。恐らく、本当に面白がっているのだ。丸井の気持ちなど知っていて。
「俺、お前が好きなんだけど」
「直球やの」
「俺お前みたいに嘘つけねえし」
「失礼やの、それが好きなやつに対する態度だとは恐れ入るわ」
「だから、嘘つきを手に入れるのに嘘ついたってしょうがねえだろ」
「直球勝負?」
「俺にはそれしかできねえから」自分をあざ笑うように、仁王は笑う。直球勝負、もう一度口の中で呟いて、視線を落としてネクタイを締めた。仁王の指先がネクタイの柔らかい生地に絡まって、胸元にきれいな逆三角形を作り上げる。何を思い立ったのか、中学も最終学年になった今になって、ネクタイをちゃんと結びたい、と柳生と特訓していたのはひと月ほど前だ。長さのバランスが気に食わないらしく、ネクタイをじっと眺め、手を離す。この沈黙の間、仁王は誰のことを考えているのだろう。いっそネクタイのことならいいのに、間違いなく彼の頭を占めているのは、あの堅物のことに違いない。不器用に緩んだ仁王のネクタイが少し懐かしくて目を伏せる。
「……つき合いたいと、思うん?俺と?」
「そうだよ」
「俺、男やのに?」そっくりそのまま返してやりたい。言葉を飲んで頷く。このばかな男を抱きしめたいと幾度思ったかわからない。哀れな恋をしている男に惚れたのは、彼の思い人を知る前だか後だか忘れてしまった。この気持ちは同情なのではないかと自問自答したこともあったが、答えはいつも同じだった。
「……丸井は、ええな」
「……何が」
「つき合う相手と考えると、都合ええ」
「……利用したきゃしろよ。今はそれでもいい」
「そうか」じゃあつき合おうか。空気のように吐き出されたいらえを丸井はすんなりと受け入れた。断られるよりは、こっちの方が予想できた答えだ。仁王は一番ほしい真田が手に入らないのだから、きっと丸井だろうが柳生だろうが、このように応えたに違いない。仁王や柳ほどではないにせよ、特に意識している相手に関してはそれがわからないほど鈍くないつもりだ。
「じゃあ、一緒に帰る?」
「そうじゃの、基本じゃな」
「明日からずっとな。朝も迎えに行くからな」
「一緒に遅刻しても知らんよ」それならば本望だ。真田との間に入れるのなら。不意をつかれたように笑った仁王は荷物を持ち上げる。窓を閉めに行き、丸井は夕方が近づく空を見た。少し泣きそうになりながら鍵をかける。きっとこの恋はすぐに終わる。相手がこっちを見ない恋は、自分に向かない。別れを切り出すのもきっと丸井だ。全国大会の間ぐらいは、恋人として胸を張って言えるような気持ちでありたい。惨めな恋だけれど、丸井は真剣だ。
「鍵返してくるから先行ってろ」
「下駄箱におるわ」
「うん」鍵をかける手元を、仁王は見ていた。きっと癖なのだろう。確かめるように丸井の髪をひと房取る。
「……何?」
「枝毛」
「うるせーよ」俺は真田じゃない。代わりになれるような、似たところもない。自分が相手にしているのが丸井ブン太だと、しっかりその目に、手に、覚え込ませてほしい。身長差を埋めるために踵を上げて、油断しきっていた唇にキスをした。体温もわからないほど一瞬で離れて仁王を見ると、ぽかんとして丸井を見ている。ワンテンポ遅れて行為に気づいた仁王はだらしなく口を開いた。
「積極的やね」
「俺を誰だと思ってんだ」浮いた話ひとつない男と一緒にしないでほしい。今はただ、攻めていなければならないときだと知っている。
「……丸井」
「何だよ。いきなり別れるとか言うなよ」
「もっかい、ちゃんとしよ」仁王から触れてきた唇はあたたかく、思いがけない熱に動揺した。この男は俺の本気を知っているのだろうか、手のひらの鍵を握りしめて痛みを確かめるように。乾いた唇が責めるようで鳥肌が立つ。
「……はは」
「なんよ」
「なんか、こええな」
「なんで」
「……夢みたい」にやりと笑ってやると仁王も同じように笑った。ばか、と頬をつままれてその手を握る。これからどうなっていくのかまだわからない恋でも、もう消せない過去になった。どうしてこんな恋をしたんだろう。
「逃げんなよ」
「ちゃんと待っとるよ」
*
「まさはるー、帰るぜー」
「はいはい、そんなに急がんでもパフェは逃げんよ」
「わかんねーよ、アイスが品切れになるかもしれねーだろ」
「ないない」
「あったんだよ前!」
「それ店員が追い返そうとしとったんやないの?」
「俺は常に喜ばれる客だよ!」
「自分で言っとる」けらけら笑う仁王のそばで足を踏みならす丸井を見ていると不思議な気分になる。汗を拭きながら、柳に呼ばれて顔を上げた。部活関連の打ち合わせに相槌を打ちながらも仁王の笑い声は耳に入る。
「あ、弁当箱忘れた。取ってくるから仁王下駄箱行ってろよ」
「はいはい」
「や、柳せんぱい〜!」丸井と入れ替わりに飛び込んできた切原が柳にしがみつく。さほど表情は変えていないのに嫌な顔をした柳は投げやりにどうした、と聞いた。
「幸村部長がひどいんっす!」
「精市がひどいのはいつものことだろう」
「柳先輩もひどいっすよ……とにかく柳先輩も一緒に来て下さいよ!」
「全く……」しぶしぶ、といった体で柳が出て行き、ふと、部室が静かになった。背後に気配を感じる。
「真田」
「……なんだ」
「ネクタイ、結んで」振り返ると仁王がいる。最近仁王はすぐに帰るから、こうしてふたりになるのは久しぶりだった。首から下げたネクタイの両端を持ち上げて、真っ直ぐ真田を見ている。
「うまくいかんの」
「自分でやれ」
「なんか今日はやりにくいんじゃ。なんかかたくて」
「……そうだろうな」
「何が」
「赤也のネクタイだ」仁王の持つネクタイの先、タグにキリハラアカヤ、の名前がある。部活前に暴れていたから入れ替わったのだろう。なんだ、と仁王は切原のロッカーを開けて、丸められた制服の中からネクタイを引っ張りだした。触ってみて納得したのか、自分の首にかかったものと交換する。
「最近、デートしたん?」
「……大会前だ、そんな余裕はない」
「そうけ。……ええ女じゃな」
「……」
「部活優先にしても怒らんのじゃろ」緩く締められたネクタイは長すぎて、直してやるべきか迷った。恋が絡むと些細なことで一喜一憂できるのだと、知っている。真田も恋愛をするのだと知っている仁王は、恋の相談相手としては適役なのだろうが、真田はそれができるほど鬼畜にはなりきれない。
「俺は嫌じゃ。一番がええ」
「早く行かないと丸井がうるさいぞ」
「……俺な、ブン太怒らすの、好きなんよ」
「……悪趣味だな」
「怒ってる間は、俺のこと見とるじゃろ?」
「……丸井は、ずっとお前を見てるだろう」長めの前髪の間から仁王の視線が飛んだ。責めるような目を時々見せる。この目を見せられるとどうしていいのかわからなくなる。仁王の感情のこもった視線を、どう受け止めればいいのかわからない。
初めからわかっていたわけではなかった。ふとした瞬間に、仁王の目が自分へ向くのに気づくことがあった。それがあまりにも頻繁で、きっと真田が恋を理解しているとは思いもよらず油断していたのだろう。仁王と丸井の関係が少し変わった日から、自分たちもはっきりと変わった。自分たちなどと一緒に考えてはいけないのかもしれない。 乱暴にドアを開けて入ってきたのは丸井で、真田と仁王を見て目をつり上げる。「雅治!おせーんだよお前は!」
「ハイハイ今行きます」仁王を待つ間、丸井がこっちを睨んでくる。嫉妬の浮かんだその目は真剣で、いつだか仁王もこんな目をしていた。仁王も丸井も、男に恋をした。真田にはわからないところだ。昔からいた許嫁という存在がそうさせるのか。しばらく会っていない彼女を思い出しながら仁王を見る。軽そうな鞄を肩に、お待たせ、と丸井の頬をつついた。
「行くぜ」
「じゃーな真田」手を振る仁王を引っ張って丸井は部室を出る。力任せに閉められたドアはびりびりと振動を残した。さっきから立ち尽くしたままで何もできていなかったことに気づき、水分を補給してラケットを握る。そろそろ幸村の相手になっている切原が音を上げる頃だろう。リハビリにはいくら時間があっても足りない。
誰もいない部室を出る。少しずつ、時はうつろう。いずれ親同士の戯れだった約束は、本人たちの間で確認することとなるだろう。真田の家と違い、相手は由緒正しい歴史ある立派な家系だ。仁王が聞けば鼻で笑ってしまいそうだが、真田のように嫌煙されるほどまじめでなければつりあうまい。テニスだけできればどれほど楽だろう。仁王も同じように思うことがあるのだろうか。こんな自分に、抱かれたいと願った男は。
*
大会前の最後の休みは丸一日完全なオフで、柳からテニス禁止の令が出た。この先テニスしかしないから、今のうちにしたいことはやりきっておけ、ということらしい。寝溜めを、と思っていた仁王の予定はあっさりと丸井に覆され、1日中デートになった。あちこち遊び回ってたどり着いたのが海辺で、まだ夕日の気配もない空を見上げて深く息を吐く。潮風が髪をもてあそんでうっとうしい。
似合わないと言われても、行き着く先は海しかない。砂浜へ走っていった丸井はその途中でサンダルを脱ぎ捨て、そのまま水の中へつっこんでいく。それを笑いながらゆっくり追いかけた。サンダルを拾って揃えて、自分も素足になってデニムの裾を折りあげる。羽織っていたシャツも脱ぎ、タンクトップ1枚で丸井を追いかけた。
丸井は海の似合う男だ。まぶしくなるほど海で輝く。水面を蹴り上げて水を散らし、降りかけた太陽の光を受けて光が舞う。目を細めて海に入ると水は冷たかった。スニーカーに蒸されて汗ばんでいた足を冷やす。波の動きに合わせて仁王の足をくすぐる砂の動きを感じていると、丸井が寄ってきて波が乱れた。「雅治」
足元を見ていた顔をのぞき込まれ、視線が合った。ちゅっと唇を鳴らしてやるとそのままキスをされる。海水浴場でもない、そうきれいでもない海は、誰もいなかった。同じ海を、違う場所で真田と見たことを思い出す。みっともなくあの男の前で泣いたあの日、まっすぐ自分だけを見ていた一瞬。
「雅治」
「……なあに」
「今日、マジでうち来る?」
「行くよ。やけに疑り深いの」
「だって」
「もう言わんでよ」静かに体を寄せて手を取った。子どもかと思うような柔らかい二の腕が触れて、優しい気分になる。これはきっと、恋じゃない。真田の代わりにもならない。丸井へ感じる愛情を頼りにつないだ手に力を込めると、黙って握り返された。
「……なあ、でも、俺さ、絵に描いた餅は食えないよ」
海面がぱちぱちと音をたてた気がした。
080821