※ブン太に超能力があります。後半捏造丸井母が出張ります。
天の神様の言うとおり 1
もらったばかりのクッキーが手からこぼれた。慌ててそれを受けようと体をかがめ、同時に止まれと強く念じる。落ちる寸前でクッキーは空中で止まり、それを誰にも見られないよう素早く手にした。ほっとして顔を上げた瞬間に、仁王と目が合う。やべ、と思った瞬間、一度手にしたクッキーに心の中で謝って手を開いた。それを拾って3秒ルール、とジャッカルに押しつけるといらねえよ、と怒られる。
――仁王の視線はまだこちらに向いている。失敗した――よりにもよって、仁王に見られるなんて。「もー、慌てるから落とすんだよ。はい、もういっこあげる」
「サンキュー。でもこっちも食えるんじゃね?」
「やめとけ」輪の中で笑う丸井の心中は穏やかではない。今日ばかりは自分の食欲を恨むばかりだ。極力仁王から目をそらし、背中に感じる視線は無視し続ける。それなのに仁王が丸井の方に近づいてきて、軽く肩を叩かれたので仕方なく振り返った。
「丸井」
「何?」
「ちょっとこい」
「何だよ」用件はわかっている。顔をしかめて嫌そうに見せ、それでも仁王についていった。不思議そうにふたりを見るジャッカルはおいていく。どうやってごまかせばいいのか、しかしついていった段階でもはや認めたようなものだと気づいて後悔した。とはいえ、今ごまかしてもいずればれてしまうことだったのかもしれない。仁王を騙し通せるとは思えない。
仁王が向かったのは屋上で、これから5時間目が始まろうという頃に出て行こうとするふたりをクラスメイトが冷やかした。すぐ戻るよ、と笑う仁王は、どう切り出してくるつもりなんだろうか。正直に話してしまうか嘘を交えるか、背中を見ながら考える。
予鈴が鳴って屋上から最後の人間が出ていったあと、入れ違いで丸井たちは屋上へ出た。激しくなってきた心拍をごまかすように、仁王を追い越してフェンスのそばへ寄る。眼下に広がるのは満開の桜だ。――中学校生活最後の1年はまだ始まったばかりだ。今日、ここで仁王への対応でこの1年の過ごし方が決まる。風に乗って屋上まで上がってくる桜の花びらに目をやって、深く息を吐いた。「丸井、こっち向いて」
「何――ッ!」振り返った瞬間仁王が丸井を狙って何かを投げたのが見えて、思わず強く目をつぶった。同時に自分がまたやってしまったことに気づく。恐る恐る目を開けると目の前で停止していたのはテニスボールで、気を抜くとそれは重力に従ってまっすぐ落ちた。足元に転がるボールを、仁王は黙って見つめている。
「……丸井」
「……何」
「帰り、暇?どっか寄らん?」
「……カラオケとかでいい?」
「ええよ。――授業始まるな、行こか」仁王は賢い男だとつくづく思う。あの一瞬を目撃しただけで、どうして見抜かれてしまうのだろう。再び溜息をついてしまった丸井を並んで歩きながら、仁王は珍しそうにこっちを見ていた。下へ落ちるものならばまだごまかせるかもしれないが、横へ動くものを宙で止めてしまっては何も言い訳ができない。物心ついたことから、ずっと気をつけて隠してきたことなのに――ちらりと仁王を見ると、何も言わないが目が笑っている。こっちはまったく楽しくない。それどころか気が緩めば泣いてしまいそうだ。
結局何事にも集中できないまま午後は過ぎて域、部活が筋トレ中心メニューであったのがまだ救いだった。「今日は少し調子が悪いようだな」
「……ちょっと、腹の調子がな」問いではなかったのだからわざわざ柳に嘘をつかなくてもよかったようなものだが、自分は随分と動揺しているらしい。コート上のペテン師と呼ばれる、仁王――別メニューで走り込みから帰ってきた仁王に目をやると視線がぶつかり、胡散臭いほどの笑顔を向けられる。舌打ちをして汗を拭った。
今日はジャッカルを先に帰し、ついでについてきそうだった切原もごまかして仁王と二人で部室を出る。丸井は何も話せずに無言で、どうでもいい仁王の雑談に相槌だけを打った。それどころではない。ふいに仁王の声が途切れ、どうしたのかと顔を上げる。
「なあ、歩きながら話せること、ないの」
「……誰にも聞かれたくない」
「誰もおらんよ」周囲を見回して少しためらう。まったく人通りがないわけではない。しかし周囲は下校中の中学生の話に興味を持って盗み聞きをするほど暇ではなさそうだ。さっさと開放されたい気持ちもあり、様子を見ながら口を開く。
超能力といえばいいのだろうか。人の心が読めるわけではない。物を動かしたり止めたりすぐことができる。初めてこの力を人前で使ったのはおそらく3歳の頃で、母親の手から滑った皿を止めたのが最初だった。それ以前に使えていたのかどうかは自分にはわからない。そうと意識せずに使っていたことはあるかもしれない。
驚いたのは両親だったがそれらしい機関に相談するようなこともせず、ただ力の使い方についてだけ厳しくしつけられた。そのうち消えるのでは、と期待もしていたようだが、15になった今でもまだ丸井の力として備わっている。――そこまで話して仁王を見た。納得したのかしていないのか、表情からは何も読み取れない。「……人おらんけん、うちおいで」
「……お前、わかりやすいな」逃がす気はない、ということだろう。ここまできたら後は野となれ山となれ、仁王についていった。仁王の家に行くのは初めてだ。親しくしてきた友達ではあるが、丸井は友人を自分の家へ呼んで遊ぶことの方が多い。他人の家の中ではどうもくつろいで騒ぐことができないのだ。それも、慣れない場所だと力を使ってしまいがちになるからかもしれない。静かな仁王家に足を踏み入れて気持ちを落ち着かせる。何かを壊しでもしたら大変だ。
「まあ、要するに、超能力があるってことなんじゃな」
「……そう。……誰にも言うなよ」
「スプーン曲げできる?」
「できるけど疲れるからやだ。俺そんなにすごいことはできねえから。物動かすのも止めるのも、あんまり重いものはできねえし」
「俺は持ち上がる?」
「……できても一瞬ぐらい」あまり物のない部屋に安心し、仁王が脱いだブレザーをベッドに放ったのでそれを力を使ってハンガーにかけてやる。初めに丸井がクッキーを止めたときのような素直な驚きを浮かべた仁王を見て、緊張がこみ上げて立ち尽くした。
――ばれたのだ。自分の失敗で。
急に肩にのしかかってきた絶望感に押しつぶされそうになり、部屋の入り口にしゃがみこむ。浮かんだ涙を慌てて拭い、深呼吸をゆっくり繰り返す。「丸井、最後に」
「――何?」
「テニスに使っとる?」
「使ってないッ!」予期せぬ言葉に立ち上がって仁王を睨む。さっきまでの驚きや楽しみは見せず、仁王はそれならいい、と低く言った。途端にこっちが弱気になる。仁王は信じてくれた。丸井も嘘は一言も言っていない。それなのに、どきりと心臓が鳴ってうつむく。
「――始めは……ほんとに、テニス始めたばっかのときは、時々使ってた。鉄柱当てとか、注目集めるから楽しくて。でも親にはばれてすっげー怒られて、……恥ずかしくなってやめた。あれからテニスでは絶対使ってないし、これからも使う気はない」
嘘を本当にするための努力はつらいものだった。偶然から始まった鉄柱当てという技ひとつをものにするのに何年かかっただろう。泣きながら、卑怯者にはなりたくなくて必死だった。父親にそういわれたのが忘れられなかったのだ。そんなのは、耐えられない。自分だけが持っている特別な力、ではないから、テニスは楽しいのだ。
「そんならええんよ。俺、丸井のテニス好きやし」
「え」
「あほらしくて」
「おい!」
「そう、笑っといて、俺別に脅したりするつもりもないけん。そんなこともあるんかって、ちっと興味深いことじゃからまた聞くかもしれんけど」からかいを交えた後の仁王はひょうひょうとしていて、だますつもりはないのだろうとなんとなくわかった。信じていいのかと言う気持ちがないといえば嘘になる。しかし入学してから同じチームでやってきて、そう簡単に嘘をつく男ではないことを知っていた。張り詰めていた気が緩む。
「……俺、気持ち悪くない?」
「何で?ええんじゃないの。単純に羨ましい。けど俺にそんな力なくてよかったね、俺やったら悪事に使うぜよ。神様はよう見とる」
「……お前の口から神様ってきくと、超違和感」
「ひどいわ」表情を緩めた仁王に安心する。弟にも教えていないこの秘密はどこか重苦しく、話すことができる相手ができたことの嬉しさが少しずつ実感としてわいてくる。今までまったく使ってこなかったわけではないし、今日のように無意識に使ってしまうこともある。それでもごまかして隠し通してきたのは、周りの目が変わるのが怖かったからだ。力を使ってずるいテニスをしていたら手に入れられなかったであろう今の自分の立ち位置は、一生手放したくない。
「なあ、どんなことができんの?」
丸井のことがもっと知りたい。仁王にまっすぐ視線を向けられ、――思えば、このとき恋に落ちたのかもしれない。
*
「おー……おーっと、丸井選手、特大ホームラーン!」
「ばっか、取ってこい!」
「えーっ、ジャッカルが行けよー取り損ねたんだからー」
「あんな高さで取れるかっ」ちえと舌打ちをしてバットを転がし、丸井はボールを追って歩き出す。体育でやる野球はどうしてこんなに面白くないのだろう。練習ばかりだからだろうか。バッティング練習、それもボールに当てるだけで遠くに飛ばしてはいけないなんて、授業とはいえ面白くない。選択授業なのだからもっと自由にやれればもっと楽しくできそうなものだが、体育教師は何を考えているのだろう。
「ブーンちゃん」
「お、仁王何してんの?サボり?」
「こんな堂々とサボるかい」仁王がスケッチブックを手にしているのを見て、納得してうなづく。グランドの端に生徒の姿がちらほらあると思えば、選択美術は外でスケッチのようだ。
「何しとんの?」
「ボール見てねえ?見つけたらサインしてやるぜぃ」
「いらんわ。ホームランボールならあっこにあるけど」仁王が指差したのはフェンスの向こう。そこはすぐ高等部の敷地になっているのだが、誰も通りかかりそうな気配はない。
「げー、俺すごくね?」
「や、俺が蹴って転がして入れちゃった」
「はぁ?くっそー……上るか」
「また呼び出されるよ」
「……周り、見張ってろ」自分でも周囲を確認し、仁王が背中を向けている間にボールを見る。力を使うのは簡単で、ボールに向かって命令をするように念じるだけだ。風もないのに転がってきたボールはイメージどおりフェンスの隙間を抜けてくる。
「よし。イイコだ」
「あ、見てなかった。ずるいわ」
「ばーか、誰が簡単に見せてやるかっての」手の中でボールを転がして、集合の合図がかかっているのに気づく。じゃあな、と別れようとした仁王に手を取られ、驚いた丸井を見て苦笑が向けられた。
「昼飯、一緒に食わん?」
「いいぜぃ。屋上?」
「ん、じゃあね」丸井から離した手をひらりとひるがえし、それに腕を振って答えてグランドの中央へ走る。教師から小言を食らったが遅れたのは丸井ひとりではなかったようで長引きはしなかった。それとも途中で空腹を訴えた丸井の腹の虫にあきれたからかもしれない。腹減ったと騒ぎながら着替えているとジャッカルもあきれている。
「さっき話してたの、仁王か」
「うん。美術だって」
「あいつ選択美術だっけ?まあ器用だしな」
「俺も家庭にしときゃよかったかなー。でも女子ばっかなんだもんなあ。あー腹減ったー!」
「あ、今日金曜か?」
「……金曜だッ」だらだら着替えていたがスピードを速めて、ネクタイはポケットに押し込んでブレザーとジャージはジャッカルに押しつける。ポケットに小銭を確認し、ジャッカルの文句も聞かずに更衣室を飛び出した。今日の購買はいつにも増してサバイバルだ。月に1度この日だけ入荷する特製プリンと近所の有名店のメロンパン、これだけは逃すわけにはいかない。駆け込んだ購買で丸井をひと目見るなり、購買のおばちゃんは手を合わせた。小銭を握り締めたまま、丸井はがっくり肩を落とす。
「さっきなくなったところだわ」
「ちくしょー、体育……!うわー、何で金曜!」
「ごめんねえ」通いつめて顔見知りになったおばちゃんは親しくあっても生徒には公平だ。早い者勝ち、のルールは崩さない。
「えー、じゃあクロワッサン。あとツナサンド」
「はいよ」
「あ、ラスクも!」パンを両手に抱えて一旦教室へ戻ると、案の定ジャッカルが顔をしかめている。その頭を撫でてツナサンドを乗せてやるとしばらくそのままで丸井を見た後苦笑した。
「あ、俺今日仁王と食うから」
「お前ら最近仲良いな」
「そうか?」一瞬どきりとする。小学校からずっと一緒にいたジャッカルにも隠している秘密を共有できる人物を見つけた、その嬉しさについ仁王に近寄ることが多くなったのは確かだ。力に興味があるせいか仁王が誘ってくることも多い。以前よりも長い時間を過ごす分、お互いのことを知り、それにつれて一緒にいやすい人物だとわかってきた。大勢で騒ぐのではなく誰かとふたりぐらいでいいときに仁王はちょうどいい相手だ。
ジャッカルと別れて屋上へ向かう間に考える。もしかして少し不自然なのだろうか。今まで仲良くなかったわけではないから、仁王と丸井がふたりでいてもまるきり不審ではないだろう。しかし急に回数は増えたかもしれない。それも思わず隠れるように場所を選んでしまうから、余計に怪しい気もする。
仁王は嫌じゃないのだろうか。屋上へ出て仁王を見つけると途端に不安になってくる。隣に座った丸井が大人しいのに気づいた仁王に頬をつつかれ、ごまかすように振り払った。「どしたん」
「今日金曜だろぃ。体育で着替えてたら購買間に合わなくて」
「……ああ、今日メロンパンの日か。それで購買混んどったんか……」紙パックのジュースを吸う仁王の横顔は少し疲れている。美術の教師は少し早めに授業を終えるから、きっと一番混む時間についてしまったのだろう。
「あー、食べたかったなーメロンパン……」
買ったパンとは別に弁当を広げて溜息をつく。一度忘れたのに思い出すと悔しくて、嘆いてしまうと仁王が笑う。
「ほんまに好きやのう」
「あれ本店行ってもなかなか買えねーんだぜぃ」
「……それやったら来月俺が買っといたろか?」
「えっ!」
「どうせはよ終わるじゃろ。自分のついでやし、行ったるよ」
「マジかよ!」仁王の笑いがあきれやからかいから出ているとわかっていても喜ぶ自分は隠せない。期待に満ちて仁王を見るとけたけた笑って丸井の頭を遠ざける。思わず近づいてしまっていたようだ。
「ええよ。そんじゃ来月な」
「プリンも!」
「りょーかい」くっくっとのどで笑い、サンドイッチを手にしたものの仁王の手は動かない。つぼに入ってしまったらしく、丸井を見ては吹き出して笑う。
「もう好きに笑え!」
「ほんっまに、かわええの、ブンちゃんは」
「はぁ?」
「たまらん。笑いの神じゃ」
「俺別にお笑いやってんじゃねーんだけど」ふくれっ面を向けてやるとごめん、と頭を撫でられてしまう。同じ年なのに子ども扱いされるのも面白くないが、これ以上構っていると昼食を食べる時間がなくなってしまう。黙って食べ始めると仁王も少し落ち着いてきたようだ。
「野球どうやった?」
「面白くねー。あれ1年間もやんのかよ」
「半年で変えるんちゃうかった?」
「あ、マジで?仁王がいるなら次は俺も美術にしようかなー」
「後期はわからんけどしばらくスケッチばっかりやって。サボり放題じゃ」
「いいなー」
「夏には人物デッサンやるんやて、ちょっと楽しみじゃな」
「お前、絵うまいっけ」
「まあ柳生よりはうまいと思う」
「……プッ」
「ま、でもうまいのと楽しいのは別じゃろ?」少しずつ仁王を知っていく。1年のときから同じ部活で、実は3年間同じクラスでもあったのに、どうして今更と自分でも思う。我ながら現金な性格だ。
どんな絵を描くのだろう。そういえば去年の美術で額縁を彫ったとき、仁王は随分細かく仕上げていたことをぼんやりと思い出す。器用だと感心した覚えはあるが、あれは楽しんでいたからだったのだろうか。隣にいるのだから聞けばよさそうなものだが、それは少しはばかられた。まるで今まで仁王に興味がなかったかのような――事実そうであるのだが、今仁王のことを知りたいと思っていることを悟られたくない、という気持ちがあった。どうしてなのかはわからない。「うわ、カツ落ちた」
「あーあ」
「このサンドイッチって絶対中身が出るんじゃけど、どう思う?」
「食い方ヘタなんじゃね?」
「ちッ……手ェ洗ってくるわ」
「いってらー」汚れてしまった手を振って仁王が屋上を出て行く。こんな天気のいい日は屋上は賑やかであって当然なのに、仁王がいなくなるまで意識していなかったことに気づいた。近づいてくる女子生徒に気づいて顔を上げると見覚えのない子だ。上靴の色で2年だとわかる。後輩ならなおさらわからない。しかし全然知らない女子に声をかけられる、ということは、たまにあることだった。学校の中で少し知名度が上がるとこんなこともある。
「あの、丸井先輩、今……少し大丈夫ですか?」
「ああ……少し、な」屋上からトイレは少し離れている。仁王が戻るまでに終わるだろうか。きれいにといた髪が風で乱れるのを気にしているのか、耳元を押さえる仕草がかわいらしい。立ち上がって正面から彼女を見る。細すぎない柔らかそうな体だ。
「何?」
「あの……この間、春の試合、見てました」
「おー、サンキュ」
「すっごくかっこよかったです。それで……あの、1年の頃からずっと丸井先輩に憧れてて……好きなんです。……丸井先輩、今彼女いませんよね?」
「……ああ」今に限らず彼女は作ったことがない。告白されるのも今日が初めてではないし、女の子に興味がないわけでもない。しかしまだ女の子と遊ぶよりは友達と馬鹿騒ぎをしている方が楽しかった。自分が人に見せているほど大人ではないと知っている。
「もしよかったら、つき合って下さい」
「ごめん」つい返事が早くなってしまい、慌てて次の言葉を捜す。一瞬で見せた悲しそうな表情、女は怖い。
「俺3年はテニスに全力注ぐ気なんだ。誰かとつき合ってもかまってやれねーし、それに好きなやついるから」
「あ……そう、なんですか……」自分の言い訳に驚いた。テニスを全力でやるというのは嘘ではない。高等部進学を予定している丸井は進路のことは考えなくてもいい。余計なことにとらわれず、ただテニスを、勝利だけを見つめて進むつもりだ。それだけで十分であるはずなのに好きな人がいるなどと、どうして余計な嘘まで言ってしまったのだろう。――嘘?
彼女の背中越しに屋上へ戻ってきた仁王が見えた。丸井の前に女子がいるのに気づいたようでドアの前で立ち止まる。終わるのを待っている。どくり、と胸が鳴った。心拍が乱れる。今彼女ができたら、仁王との関係はどうなるのだろう。ふりはらうように彼女に視線を戻すと、彼女は目に浮かべた涙を指先でそっと拭った。ぎこちない笑顔を向けられる。
「お食事の邪魔してすみませんでした。――これからも、応援してます」
「……うん、ありがと」姿勢のいい背中が去ってから、仁王がゆっくりこちらへ戻ってくる。冷やかすでもない無表情が逆に気にかかった。
「邪魔した?」
「いや。知らない子だし」
「……今年は、増えるじゃろうね」
「バレンタインが楽しみだぜぃ」
「俺は憂鬱ぜよ」今年仁王がもらったチョコレートはほとんどが本命だった。義理チョコの多い丸井とは違うのに、それでも数で仁王が勝っていたはずだ。一番少なかったやつが焼肉おごり、というくだらない賭けに巻き込まれたせいでほとんどすべてを受け取った仁王は、来年もそのつけが回ってくるだろう。
残っていたジュースを吸う仁王の横顔を見つめて、時々弁当をつつく。――この、妙な気持ちはなんだろうか。何に対してかもわからない。どうしたいのかもわからない。どこか落ち着かずにそわそわする、まったく知らない感情だ。仁王といると落ち着かないのに安心感がある。力を隠そうとしなくても良いので肩の力が抜けるせいかもしれない。さっきの後輩を思い出す。姿勢のいい背中と隣で背中を丸めている仁王の姿を見比べる。どうしてこんなに惹かれるのだろう。「ブンちゃんは、彼女つくらんの」
「……んー……なんか、こんな力あると、ちょっとな」
「ああ……わからんもんねえ」恋とはどんなものだろう。もしかしてこんな感情を恋だというのだろうか。そばにいたいと思うこの感情が。
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