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「すまんの、遅くなった」

屋上に入ってきた仁王の姿にほっとした。いつもは購買へ寄ってからでも丸井より早く来ている仁王が見当たらず、買い物を頼んでいたので焦っていたのだ。何も別腹としてパンを食べているわけではない。弁当だけでは足りないから食べているのだ。
丸井にパンを渡して隣に座るなり仁王は溜息をつき、ペットボトルを頬に当てた。どうしたのかと聞こうとしたが口を開く前に赤く腫れた頬が目に飛び込んでくる。ぎょっとして目を見開いた丸井に気づき、仁王は肩をすくめて苦笑した。

「ちょっと焦ってしくったナリ」
「な、何それ、どうしたんだよ」
「告白されて、ふったらコレ。はようブンちゃんにパン渡さんと暴れだすわと思ったら言葉選び間違ってのー」
「暴れるかよ!俺のせいにすんな!」
「つっかかるとこそこ?ヤキモチ焼いてくれたりせんの?」
「はっ?」

一瞬うろたえたのは隠せない。――仁王に彼女ができたら自分はどうすればいいのか、何度も考えたこの問いに丸井が答えを出せるわけがない。最近ではもう昔からつるんできたジャッカルよりも仁王と過ごす時間の方が長くなってきている。仁王も丸井と目を合わせたままそらさない。つばを飲もうとするが、渇いたのどが上下しただけだった。

「――なんつって。次体育じゃろ、はよ食わんと」
「あ、ああ」

仁王がパンを食べ始め、丸井も顔をそらして弁当を開けた。母親の作ってくれたおいしそうな弁当を前にしても今はなぜだか食欲が湧かず、さっきまでの空腹感が嘘のようだ。それでも一応口へ運びながら、もくもくと食事をする仁王を横目で見る。ふと仁王のそばにスケッチブックがあるのに気づき、何気なく適当なところを開いてみる。黒っぽいスケッチが見えた瞬間手を叩くかのように仁王がスケッチブックを閉じてしまった。

「下手やけんだめ」
「いいじゃん」

なんとなくむっとして、強引にスケッチブックを奪い取る。それを開くなり目に飛び込んだのは、人物のスケッチだった。顔は描き込んでおらず、うまくはないがグローブを手にして立っているのは丸井だとよくわかる。

「仁王」
「――多分、同じやと思うから確認だけしとくけど」
「何?」
「ブンちゃんも俺のこと好きじゃろ?」
「……うん」

この力が自身をくれる。いつでも強気でいられるのはこの力があるからで、いつでも気を抜けないのはこの力があるからだ。それがいいのか悪いのか丸井にはわからないが、確かに今の丸井を作った力であることに違いはない。――人を好きになれる。

「……なあ、におー」
「何?」
「俺もーちょっとかっこよくねえ?」
「そうやねえ」

身を乗り出した仁王が自分のスケッチブックと丸井を見比べた。額が触れそうなほど近い。本物の方がもうちょっと柔らかそう、囁いた唇がそのまま丸井の口を塞ぐ。一瞬の口づけには目を閉じる間もなく、離れた仁王はスケッチブックを閉じて何事もなかったかのように食事を再開した。どきりと胸が鳴る。ざわめく感情を悟られないよう静かに息を吐き出し、乱れた鼓動が落ち着くのを待った。体が熱くなる。恋とはこんなものなのか。どうにか昼食を食べる間仁王は無言で、丸井も何も言えない。胸がいっぱいで食事が進まないなんて初めての経験だった。はあ、と仁王が溜息をついたのに過剰に反応してしまう。体を揺らした丸井に気づき、仁王に苦笑を向けられた。

「めっちゃ心臓ばくばくしとる」
「……オッ……俺も」

声が裏返った。ふっと表情を緩めた仁王の手が自分の手と重なる。

「好きだよ、ブン太」
「ッ……」

かっと頭まで熱くなるのがわかって、仁王から目をそらして首を振る。つながった手に力がこもり、体が強張った。何か言わなければならないのだろうか。仁王も期待しているのだろうか。ぐるりと渦巻く感情に混乱していると予鈴が鳴り、ぱっと立ち上がる。仁王の手が触れていた箇所が汗ばんでいるのに気づきながら、そっと仁王を見た。

「たっ……体育じゃん!」
「あっ」

やばい、とふたりで屋上を飛び出す。ジャージは持ってきていたので更衣室に走り、ぎりぎりで着替えているクラスメイトも何人か見つけて安心しながらも急いで着替える。――もし、学校じゃなかったら逃げられなかった。何から逃げたかったのかはっきりわからないが、どこかいたたまれなかったのは確かだ。

準備体操のメニューのトラック走を軽くこなしているうちに頭がクリアになってくる。――ムードに当てられただけ、だ。きっとこれから仁王とはこういうことが起こるに違いない。

体育でやるのはサッカーだった。パス、リフティング、単調な練習の後に毎時間試合をする。とはいえクラス対抗でひと試合、今回丸井は見学組だ。コート脇でボールを受け損ねたジャッカルを冷やかしながら応援していると、仁王が隣に立つ。

「おーおー、ジャッカル集中狙いじゃ」
「あいつには知らせると楽なんだよな、バテねえし」
「おっ」
「っしゃ!大谷走れー!」

クラスメイトがボールを受けた。確かサッカー部員で、あっという間に敵を抜いてゴール前へたどり着く。立ちはだかるのはやはりサッカー部員のゴールキーパーだ。拳を握って応援するそばに仁王の存在を強く感じて集中しきれない。無理に声を出してボールをにらむ。鍛えられた足に蹴りだされたボールは宙へ浮き、ゴールへ向かって飛んでいく。しかしわずかにそれて、サッカーは専門ではない丸井にはもう入らない角度だと思えた。それでも入れと強く思う。仁王の腕が軽く触れた。入れ!
ゴールキーパーの手前でボールはわずかに曲がり、グローブから逃げてゴールネットを揺らす。わっとグランドが盛り上がる中、丸井は硬直してボールを見ていた。少しずつ動悸が早くなる。見なくても隣には仁王がいる。視線を感じる。

「……ブン太」
「……ちょっと興奮しすぎた。あっちいな、俺水飲んでくる」

仁王に笑いかけ、ごまかすように地面を蹴る。どうしてだろう。自分が理解できない。他の誰も気づかなくても、仁王は気づいた。丸井がボールの軌道を変えたこと。無意識に力を使ってしまうということは、自分でコントロールできるようになってからはほとんどなかった。自分の身を危険から守るときの反射ぐらいでしかない。テニスの試合中に使ってしまわないよう、特にボールやラケットにはとりわけ注意を払い、それは他のスポーツであっても同じようにしてきた。コントロールが少しおかしくなっている。
――仁王のせいだろうか。水飲み場でのどに水を流し込み、その冷たさで冷静になりながら考える。恋のせいで乱されているのか。今まで保ってきた自分が。そんなことは許されなかった。乱れるというのなら自分の力量不足、より精進するまでだ。両頬を叩いて気合を入れる。今は何も失いたくない。力も、仁王も。

 

 

*

 

 

夏の大会へ向けた練習は丸井にとっては自分との戦いでもあった。テニスの技術向上だけではない。どんな場合でも力を使ってしまうことがないように、自分を律し続けていた。テニスでは絶対に使いたくない。そのため仁王といることに慣れるように、何度もふたりで会ってきた。初めの頃のようなときめきが薄れることはなかったが、緊張することもなくなった。仁王に聞かれても説明はできないが、無意識でも力を使ってしまったときは自分でわかる。練習を続ける間、どんなに試合で熱くなっても無意識に力を使ったことはない。力があるからこそテニスに一生懸命になれたように、仁王がいるから自分は更に強くなれた。感謝してもしきれない。

そうして臨んだ全国大会決勝――関東大会で煮え湯を飲まされた青春学園。負けるつもりはない。負ける気で来るやつがいるはずがない。関東大会のリベンジをするべく同じくダブルスを組んでいるジャッカルと目を合わせ、肩をぶつけ合って笑う。いい感じにリラックスできている。体を巡る血に身を任せ、今日も暴れてくるだけだ。

「俺今日ケーキ予約してあんだよね、早く帰りてえなー。表彰式って長かったっけ」
「決勝でも相変わらずだな、お前は」
「当たり前だ。今日は試合がいっこ、あるだけなんだからな」
「……そうだな」

引きつったように笑うジャッカルの背中を叩いてやる。大丈夫、この相方が緊張しているのは試合が始まるまでの間だけだ。もしかしたらレギュラーで唯一、単純にテニスをすることだけを楽しんでいる男かもしれない。勝敗を気にしないわけではないし、この試合は我が立海大附属の全国三連覇が達成できるかどうかという大事な試合であることもわかっているはずだ。しかし試合が始まるとそんなことは頭から抜けてしまうらしい。そう、楽しんで、そして勝てばいい。関東大会で苦戦を強いられたことを忘れたわけではないが、今度こそ、負けるはずがない。
幸村の復帰で出揃った三強、ひとまわり成長した切原、そして年季の入ったコンビである丸井とジャッカルのダブルス。何より――今まで悟らせもしなかったが、仁王が本気を出すと宣言した。教えられた事実に同じテニス部員として嫉妬しなかったわけじゃない。同じレギュラーとはいえ時間を共にするからこそ埋まらない実力差を感じていたのに、仁王はまだ力を隠しているという、今回補欠になった柳生も十分すぎるほど練習をサポートしてくれた。負ける理由が見つからない。

それでもやはり、青春学園は立海大附属を脅かす。柳の読みどおり出てきた手塚と真田の試合は丸井には別世界だった。あんなに必死な真田は見たことがない。地を這うような真田の声、空気を切り裂くラケットがボールを叩きつける。応援の声も出ない試合にのどの渇きも忘れ、ただ勝負を見ていた。勝ってほしい。勝たなければならない。我らには勝利を掴む実力があるのだから。
最後の力を出し切った真田の一球がネットに触れる。勝利を願う真田の声と共に、勝ちたい思いを胸の中で更に育てた。勝ちたい、誰よりも強くありたい。ボールがネットを越えた瞬間、かあっと頭が熱くなる。きっと、これが本当の全国だ。こんなに意義のある一勝があるだろうか。

「ブン太」
「え?」

そばにいた仁王がこっちを見ている。その意味がわからずに見つめ返していると仁王はぱっと笑って丸井の手を取る。どきりとしたが振り払うこともできず、思わず黙り込んだ。自分はきっと、愚かだ。きっと仁王に騙され続ける、そんな思いに襲われることがある。

「俺も勝てるよう、パワーもらっとかんと」
「……ばーか」

アップしてくる、と柳生を連れて行く仁王を見送り、コートを見た。奇跡のような一球にジャッカルはまだ興奮している。ふと心によぎったのは、さっきの仁王の視線。はっとして体が硬直する。――疑われた?近くにいない仁王を探し、拳を握る。さっき触れた仁王の手は生ぬるかった。丸井を惑わせる体温。仁王が何を言いたかったのかを想像し、奥歯を噛み締める。仁王は知っているはずだ。丸井がこの力を使ってしまわないように努力してきたことを。唯一さらけ出せる仁王と一緒に練習を積んできたのだから、知らないとは言わせない。
――心臓が痛い。仁王もきっと丸井を信じてくれているはずだ。丸井も仁王を信じている。そう思うのに、一度呼び起こされた疑念は簡単には消えず、乱れそうな心を深呼吸で落ち着かせた。今は、試合に集中しなければ。そうでなくては練習の成果が無駄になってしまう。もう仁王の体温の消えた手をかたく握り、次の試合をにらんだ。

 

 

*

 

――負けた。一度ならず二度までも、立海大附属は青春学園に及ばなかった。関東大会で感じた屈辱を再び味わうことになるとは思ってもみなかった。別世界だと思っていた三強だけが恐ろしいのではない。引退しようという今になって丸井は体中で実感している。後輩として切原が入ってきたときは正直恐ろしかった。自分の地位が危ういと懸念していた。実際切原は、むらはあれど丸井よりもずっと強い。
そして昨日の大会で思い知ったのは、仁王との明確な実力差だった。今まで見せなかった仁王の「本気」を見せつけられ、仁王は一体いくつ切り札を持っているのかと思うと笑えない。あれほど必死で仁王と試合をしてきたのに、丸井は仁王の実力を引き出すには及ばなかったということだ。虚しささえも覚えたが、それよりも恐ろしいのはその仁王を倒した不二だ。バケモノだ。少しテニスがうまかっただけ――そんな丸井では、想像もつかない世界だ。あんな球が打てたら、広いコートの中の世界はどう変わるのだろう。

負けた仁王にかけることのできる言葉を丸井は持っておらず、疲れていることを理由に無言で帰った。時折深い息を吐く仁王が丸井を見ているのを知っていながら。
そして次の日、休みだったが学校のテニスコートに足を向けると切原を中心に後輩たちが集まっていて、おそらくはコートの使用許可を取るために借り出された幸村たち三強、そしてレギュラーがそろっていた。大会が終わったからといってあっさり切り替えられるような器用なやつはいなかった、ということだ。実質今日から「部長」である切原を冷やかしている仁王がいつもどおりの笑顔であるのに安心し、声をかけにいく。

「ニオー、おはよ!」
「ブンちゃんおはよ」
「来るなら呼んでくれりゃよかったのに」
「ああ、思いつかんかった」

一度はこっちを振り返った仁王はすぐに手振りだけで丸井を下がらせ、ラケットを握って切原を呼ぶ。目を輝かせた切原は素直にコートに入って行った。昨日見せた仁王の本気のテニスに惹かれているのだろう。倒すべき敵が立海三強だけではないことを喜べるのはもはや才能だ。丸井にはできない。
ふたりの試合は荒れた。仁王はふざけているのか不調なのかわからないテンションで切原を翻弄し続けていた。その試合を見つめながら、昨日の大会を思い出す。――長い夏が終わった。俺たちの夏が。

帰り道、ジャッカルは切原につき合ってまだ残るというので仁王とふたりになる。帰ろか、聞き取れないほど小さな声で言った仁王は先に歩き出し、慌ててそれを追いかけた。

「仁王」
「終わったの」
「そうだな。長かったような、短かったような」
「せやね」
「……仁王?どうした?」
「……楽しかった?」

足を止めてこっちを振り返った仁王にかっとした。あれから考えないようにしていたのに。ふざけんなよ、思わず怒鳴る。

「俺は何もしてねえからな!」
「そんなんブン太しかわからんじゃろ」
「なんでそんなこと言うんだよ!俺の練習見てきただろ!?」
「見とったけど、わからんもんはわからんよ。俺はブン太のことは好きやし、その力も理解しとるつもりやけど」
「つもり!?じゃあお前はずっと俺を疑ってきたのかよ!」
「騙されとったってわからんもん。真田の試合、勝てたんが奇跡じゃなって考えたら、どうあったってブン太のこと考える」
「ッ……騙されてたのは俺だよ!俺はずっとお前に信じてもらってると思ってたよ、テニスに関しては絶対何もしてねえし、真田の試合だって俺は何もしてない!」
「……せやね、そうじゃろ。ブン太が本気出したら、立海は優勝しとる」

仁王も落ち込んで、いらついているだけだ。そう思おうとしても言葉は丸井に傷を残す。首を振ると涙がこぼれて、こっちを見た仁王が初めてはっとした。どうして一番信じてほしい人が、自分を信じてくれないのだろう。一瞬でも疑われた。自分が悪いのだろうか。こんな力を持っているから?涙は止まることを知らずに頬を伝い、顔を拭って踵を返す。もう、仁王を信じられない。

「ブン太」
「じゃあな」
「ブン太、ごめん」
「ごめん無理」
「……わかった」

あっさりと引き下がる仁王に腹を立て、そのまま歩き出す。家へは少し遠くなるが、仁王を避けて帰りたい。どのみち涙を止めてから出ないと帰れないのだ。

自分の力が知られたら、自分の周りには誰もいなくなると思っていた。使おうと思えば暴力にもなるこの力は時に自分でも怖くなるほど感情的で、強力だ。それをコントロールするためにした努力は自分のため、家族のため。両親は自分を恐れないし疑いもしない。こんな力があるのは親のせいだと思ったこともあるが、彼らは自分を大切に育ててくれた。仁王は違うのだろうか。他人は他人を信用しきれないのだろうか。この能力を知っても自分を好きだと言ってくれ、優しい手で抱きしめてくれたのに。あんなに心を許せた相手は初めてだったのに。長く親しくしてきたジャッカルにも、自分の心のすべては見せられない。仁王といる時間が一番落ち着いていられたのに、心の休まる場所をなくした。否、丸井がそう、思い込んでいただけの場所を。

 

 

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