蓼食う虫も好きずき 2
つい楽しくなって夜中まで話し込んだ朝、目覚めた仁王は幸村に置いていかれたことを悟った。メモも何もなかったが制服がない。うっかりサボりになってしまったがそれもいいだろう。携帯が光っているのに気づき、開いてみると恐ろしい量の着信がある。並ぶのはもちろん木下の名前ばかりだ。一瞬で昨夜何が起きたのか思い出すには十分で、慎重に一件ずつ着信履歴を確認していく。消してしまいたいが何かあったときのため証拠は残しておけと言われた。メールもまた同様で、中身を見ないまま見続けると幸村からのメールが混ざっていた。家族は夕方まで帰らないからいてもいいとのことで、スクロールすると丸井の、とメールアドレスと電話番号が添えられている。律儀な友人だ。
一度帰ろうかとも思ったが、仁王と会った次の日、あの男は仕事を休むこともあったから警戒してしまう。顔を洗いに部屋を出ると昨日のカウンターキッチンに朝食が置いてあった。卵を挟んだサンドイッチにゆで卵とサラダという簡易なメニューだが、ありがたくいただくことにする。パンに挟まれた卵にはチーズが入っていて、幸村が作ったのではないことはわかった。昨日は結局帰ったが、もしかしたら朝来て作ったのかもしれない。
──丸井ブン太。幸村の話にときどき出てくる彼は、幼稚園からのつき合いらしい。幸村のうちが今の家に越す中学までは家族ぐるみでつき合っていたようだ。同じテニススクールに通っていたとも聞いた。──またテニスか。テニスをしている男はろくなやつがいない。どいつもこいつも仁王の魅力をわからないやつばかりだ。することもないので幸村の部屋で過ごすうちに寝てしまっていたらしい。ドアのノックで目が覚めて、覚醒する前に開かれた。幸村かと思いきや入ってきたのは丸井で、仁王を見た瞬間顔をしかめる。
「なんつうカッコで寝てんだ」
「……あ!」自分の姿を見て慌てて布団をかき集める。夜は幸村にジャージを借りていたが、今は着替えてスカートだった。それが寝ている間に完全にめくれ上がっている。十分にあたたかかった部屋を恨んだがもう遅い。
「昼食った?」
「は?」
「昼飯」
「……まだ」
「じゃあ服着て降りてこい」あっさりと引き下がった丸井に呆気にとられ、しばらく閉まったドアを見つめた。事故とはいえ一瞬とはいえ、例え好みの体型ではないとはいえ、下着を見てしまったのだ。ごめんの一言ぐらいあったってよさそうなものだが、あの態度はどうだろう。
「……ちんこついてんのかテメェ」
ドアに向かってぼやき、のろのろと立ち上がる。スカートを直して部屋を出ると幸村がソファーからただいま、と声を投げかけた。丸井は昨日同様、そこが定位置だとばかりにキッチンに立っている。
「……なんであいつおるん」
「貢ぎ物を持ってきてもらっただけ」にっこりと笑みを浮かべる幸村に隣をすすめられ、大人しくそこに腰を落とす。なんだかひどく疲れた。現実感のない夢の中にいるような気分だ。
「あいよ、いっちょあがり」
「ちょっと、ラーメンじゃないんだから!」
「わがままだな……ん、ウン!……どうぞお嬢様、バナナとくるみのブラウニーとストロベリーティーでございます」
「ふふ、ありがとじいや」
「じいやかよ。ほら、仁王のも。もう3時だぜぃ、よく飯も食わずに寝てられるな」丸井が演技がかってテーブルに並べたブラウニーと紅茶のいい匂いにつられて顔を上げる。どこかきょとんとした表情で仁王を見る丸井の視線は他に感情が読めなくて、どうしていいかわからない。
「あ、くるみ嫌?」
「いや、食べれる」
「仁王好きだよ、くるみとか、ナッツとか、柿ピー」
「つまみか」あきれたように笑って丸井はまたキッチンに戻っていった。なぜナチュラルに幸村の家にいるのかわからないが、もうどうでもいい気がする。
「あ、そうだ。木下な、逮捕されたから」
「えっ」
「お前んちの周りうろついてたみてえ。下着ドロの被害あった?」
「……あった」
「そいつだったみたい」
「……」まさに絶句、だ。部屋に忘れてきた携帯を思い出してぞっとする。仁王の顔色が変わったのがわかったのか、戻ってきた丸井が幸村に睨まれている。
「あー……変なことになる前でよかったな。じ、じゃあ、俺帰るわ!」
「もう?」
「スクール行くって柳生と約束したんだ。……また連絡する」忙しない男だ。頭が働かない中で無意識に手を伸ばし、ティーカップを取って顔を寄せた。鼻孔をくすぐる匂いに素直に口をつける。食道を通って胃に液体が広がるのがわかった。あたためられたブラウニーも一口食べてみる。焼き菓子は口の中で崩れ、ほろ苦いココアが広がった。
「……おいしい」
「そりゃあ、俺の専属シェフですから」にこりと笑った幸村に笑い返した。
*
「……は?」
「だっ……だからっ、送ってやるっつってんの!」再び幸村の家まできた丸井は仁王の表情に焦ったようにまくしたてた。まだ警察うろついてるし下着ドロ他にもいるかもしれねーし。なぜか必死なその様子を見ていると笑えてきて、思わず吹き出すとむっとしたように顔をしかめた。テニスバッグを担ぎ直して歩き出す後ろ姿のブレザーを掴んで引き止める。
「待っとって」
「……急げよ。俺は腹減ってんだ」世話になった幸村に見送られ、丸井と並んで歩き出す。徒歩で行けるとわかった丸井は玄関前に置いていた自転車を押していた。派手なステッカーのついた華奢な自転車は間違いなく幸村のものではない。自分と丸井の間にある自転車がチェーンを噛む音に助けられているような気がした。先に沈黙を破ったのは丸井の方で、仁王を見ずに声をかける。 名前を呼ばれて丸井を見たのに、彼は正面を見ていた。
「幸村と、仲いいの?」
「あー、うん。中2かな、幸村が引っ越してきて、同じテニススクール行っとったん。ダブルス組んだりもしたんよ」
「あ、お前もテニスやるんだ?」
「今はしとらん」
「幸村がうちの方いるときは凄かったぜ。小さいスクールだから老いも若きも男も女も、同じようにやってんだけど、幸村はもうコーチじゃ相手になんねーの」
「聞いとる。こっちのスクール通うために引っ越したんじゃろ?」
「俺は泣いたけどな」
「……幸村のこと、好きなん?」
「はぁっ!?」焦った様子で仁王を見て、否定しながらまた視線を前に戻す。違うのか。楽しげに幸村のことを話し、あれだけわがままでも世話を焼くぐらいだから好きなのかと思っていた。そうだとするなら、お礼代わりに慰めてやろうと思ったのに。
「ありえねー。あんな高慢ちきな女に惚れるやつの気が知れねえ。赤也ってやつ頭おかしいんじゃねえの」
「赤也知っとるん?」
「スクールの後輩だろ?幸村に迫って返り討ちにされてるやつ」
「幸村にテニスで勝てたら、赤也にあげちゃうんじゃと」
「あー、幸村が我慢できなくなるに1票」
「いや、赤也のが早いじゃろ」
「そんな沸点低いやつなの?」命知らずだな。笑う丸井の声が耳に心地よい。変な男だ。チャラチャラしているのかと思えば誠実で、デリカシーはないが的確に人を癒す。 家の前に来て足を止めた。幸村の家とそう変わらない建て売りを屋根まで眺めて、部屋2階?と聞かれる。
「怖かったらしばらく窓寄るな。あと……朝の迎えぐらいなら来れるけど」
「や、ええわ。幸村と約束してきたけん」
「そっか。なら俺より安心だな。んじゃ」自転車の向きを変えてそれにまたがり、丸井は仁王を振り返る。夜が迫りつつある空気は冷たくて、二人の間を白い息が泳いだ。
「おいしかった」
「え?」
「朝も、ブラウニーも」
「……お口に合ったのなら何より。イイコにしてたらまた作ってやるよ。お前はもうちっと太らねえとな」
「バカ」走り出す後ろ姿を見送って家へ戻った。外泊なんてしょっちゅうだったというのに、長く戻ってなかったような気がする。 うるさかった携帯電話もようやく落ち着いた。他の遊び相手にもこれからは会わないと一方的に伝えて、あっさり切れたものとねばったものといろいろだった。
部屋に入ってすぐ、クローゼットで眠らせていたラケットを取り出す。久しぶりの感触を手に馴染ませて、自分が笑っていることに気がついた。
090207